第8話 会えない夜が長く長く長く思える感情


 最後に田伊豆さんは手作りのマフィンを持参するように言ってくれた。そして、「そらちゃんがあんな風にギスギスして他人に当たるようになったのは、私のせいでもあるから」と呟いて、困ったような笑みを浮かべたのだった。

 二人の間に何があったのか聞きたくもあったが、今は博士の元へと向かいたい気持ちの方が強かった。


 言葉を交わして、今の状況をどうにかしたい。


 焦りと緊急アラームが止まなかった。サイボーグジョークにも割とキレがない。


 喫茶店「dice」を出てから何度かコールサインを出してみた。博士へと通じている無線である。しかし、案の定応答はない。やはり直接向かうしかないようだった。

 しかし、博士の家のチャイムを鳴らしても反応はなく、二階の部屋から向かいの窓を見てみたが、カーテンが閉まっていてどうしようもなかった。


 コールサインにはなしのつぶて。


 明日、博士は朝早く大学に向かうはずだ。そこを待ち伏せて謝ろう。

 僕の合理的な判断は常にそんな結論を導くのであるが、博士がもしかしたら出てくれるかもしれないとコールサインを何度も繰り返した。胸に詰まった、裂傷のような拡散性の痛みが僕を動かしていた。


 博士の声を聞けない夜が、これほど長いものだとは気づかなかった。

 そして、夜が明けるまでこんな状況が続くのならば、僕の回路はどうにかなってしまいそうだった。


 午前零時を過ぎた頃だ。

 僕は擬似休眠モードに入ろうとしていたのだが、その前に田伊豆さんからもらったマフィンを冷蔵庫に入れるのを忘れていたのに気づいた。

 二階の部屋からキッチンへと降りて、マフィンを二つラップに包んで冷蔵庫を閉めた。

 自室に戻って今度こそ休眠に入ろうとするが、その時だった。

 僕に内蔵された通信機器が短波をキャッチした。

 それは常に博士からの通信に用いられるものだったので、嬉しくなって応答しそうになる。

 回線をオープンにした瞬間、いつもと違った類の通信方式だと気がついた。

 ざらついた音に、響くノイズ。

 遮断が間に合わず、僕のオーディオメモリに音声データが押し付けられるように組み込まれてしまった。僕の通信回線は短波式の音声をデータとして一度生成し、ノイズの除去を行ってから再生するという仕組みになっている。こうすることで、鮮明な音声をネットワーク回線を用いることなくやりとりできるのだ。

 その仕組みを知っている者が、「僕の回線に音声を処理させて」、言葉を送ってきたのだ。


「月の輝く宵ね。屋根の上で少しお話ししましょう。サイボーグさん」


 艶やかで甘ったるく垢抜けた声色だ。博士とも田伊豆さんとも違う女性の声であった。

 そして、声の主は僕がサイボーグであるということを知っている。少なくとも公にその事実を掴んでいるのは、僕と博士、そして田伊豆さん……あとは博士の父親だけのはずだった。

 最初に思い浮かんだ可能性は、博士の父親の関係者ではないかということだった。彼は今、海外へと研究拠点を移してさらなるサイボーグの研究に勤しんでいるらしい。博士とは連絡を取っているのかどうか分からないが、父と会話をしたという話題を博士はここ数年、出したことがなかった。


「窓際のサイボーグさん。私が『美しい』という感情を教えてあげるわ。どうぞ、屋上へ。春の宵は心地よい冷たさよ」


 またしても通信が入る。

 受信回線は切ったはずなのに音声が入り込んでくる理由が分からない。

 システムを、心当たりがある部分のみチェックしてみた。何らかの音声データが送りつけられている。ノイズリムーバーの挙動にシステムが反応を見せていた。


 どこからかまだデータが送られているのか。

 予想はついても僕にそれを遮断する術はない。

 そんな僕の動揺を読み取ったかのように、またしても女性の声が頭に響く。


「セキュリティホールよ。楽しいからそのままにしておいてあげる。さ、姿を見せて。そうすれば一旦この音声攻撃はやめてあげるわ」


 彼女が声にしたセキュリティホールとは、システムの脆弱性、すなわち弱点のことを意味していた。僕の通信回線システムに何らかの欠点があり、それを相手は攻撃してきたのだ。

 しかし、僕に恐れる気持ちはない。

 どんなエラーも博士ならば直してくれる。穴が空いていたなら直してくれる。そんな信頼があるからだ。

 それはそれとして、僕は声の主を確かめておく必要があった。

 二階の窓からベランダに出て、素早く屋根の外側の梁に手をかけると、そのまま登りきった。


 見事な月が空の奥深くに沈んでいた。


「こっちよ、こっち。あなたから見て私は月を背負っている」


 月の出る方角を凝視すると、マンションの屋上に人影が浮かび上がっていた。月影が青く輝き、人物の輪郭は柔らかく伸びる。


「わざわざ僕の家の方角を頭に入れて、そんな高いところに登っているのか。何かのギャグなのか」


 こちらの通信が届くかどうかの確信はなかったが、その今僕の視界で小指一本ぶんの大きさになっている彼女に呼びかけてみた。


「やはりあなたには『美しい』ことを実感する『感情のメダル』が実装されていないのね」


 ため息とも取れる吐息はまるで耳元で囁かれているようで、僕はどきりとしてしまった。

 しかし、いずれにしても相手との距離が遠すぎてはっきりと声の主を視認できない。

 目を凝らしてみるが無駄な行いであった。どうやって接近するかを考えていると、相手の方が月を背負って宙に舞い、蝶のような羽根を展開すると、するどくこちらに向かって滑空をしてきた。


「ようやくコールサインを使ってくれて、どうもありがとう。学校でもお休みの日でも、全く使わないから、機能をオミットしたのかとがっかりするところだったわ」


 僕は直接、彼女の声を聞いた。

 耳元で聞いた時よりも艶やかさが取れたその声に、僕は聞き覚えがあった。


「宵椿 初音……」

 黒髪を複雑に頭の上で結わき、最後に肉食動物の尻尾のようにふわりと宙になびかせている。真っ黒で裾も袖も長いシャツにショートパンツ。月夜の中でも太ももがまぶしく輝く。


 僕は昨日の昼間にデータベースを参照していた。

 宵椿 初音は僕の高校のクラスメートだ。

 会話回数は一度だけ。

 傘を忘れて雨に濡れ、昇降口へと走ってきた時に交わした言葉がある。その際に僕は「やはり人間と僕の間には感情の面で差がある」と思ったのだが、今は少し違った反応をしていた。

 左手の親指を何度か動かしてARモードを。SKSを展開して相手の熱源を観察する。


「あら、意外に大胆なサイボーグさんね。クラスメートの女の子の体の中身を探ろうとするなんて。あの芳野博士はあなたをそんな風に改造したのかしら」

「博士はそんなこと、しない。それに君は」


 僕は今自分が見ているものを、何かのジョークなのではないかと感じてしまい、つい言葉も慎重になってしまう。

 熱源観測によって僕が直視した現実。

 それはクラスメートの宵椿が僕と同じサイボーグであるということであった。


「はじてまして。私があなたの初めてで光栄よ。この世界の『外側』(アウター)を知るきっかけになれて。うふふ」


 女性のサイボーグは月下の街に怪しく微笑む。

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