第4話 恥ずかしいことも嬉しくなってしまうような感情

 これが「感情」が右の箱に入ってしまった理由だ。原因は脳の損傷とも、臓器を置き換えた時に心身相関関係を司る器官がリセット状態になったからだとも説明されている。


 感情への実感が失われて、代わりに左側の箱、得たものにあたるのは感覚だった。この場合は得たと表現するより、保持できたと表現した方が正しいのかもしれない。痛みやかゆみ、柔らかいとか固いとか、そういった感覚は実感としていくらでも手に入る。熱湯を腕にかけられれば「熱い」と感じるし、バットで後ろから頭を殴られれば「痛い」と叫びはしないだろうけど頭の中で痛みの感覚が駆け巡って飛び上がるだろう。


 この左右の箱の関係がどう僕の生活に影響しているか。多くの場合は困らないのだけれど、普通の人間と一緒に行動しているとやや意思の疎通が取りにくくなることがある。


 博士以外の人間との会話には苦労が伴った。例えば昨日は高校の登校の際に間が悪く雨が降ってきてしまい、傘を持っていなかったために僕は濡れて昇降口に入った。それから数秒遅れて、同じクラスで長い黒髪の眼鏡をかけた女子生徒が走り込んでくる。「冷たくて風邪ひいちゃいそうね。嫌になってしまうわ。今夜は月夜だと良いのだけれど」と声をかけられた。


 僕は雨を「冷たい」と感じたし、風邪を引きそうな状態であるのも実感できた。


 しかし、これを「嫌だ」と胸のどの部分においても実感できなかった。


 もう日常のこととして慣れてしまったのだが、こういう風に僕の中では感情と感覚の間に一足飛びでも、足のロケットブーストでも飛び越えられないような深い溝が横たわっていた。結果として彼女とは感情の共有ができないので「そうだな、四月の雨はまだ冷たいな」としか返せなかった。冷たいと感じたこと以上の感想は話せないのだ。だから、次に彼女が「月夜は好きかしら? 四月のまだ肌寒い空に舞う月は」と不敵に笑いながら尋ねてきても「好き」「嫌い」の感情は右の箱に入っているので押し黙るしかなかった。


こんな感じで会話はぎこちなくなってしまう。


 そして、何故月夜の話をされたのかも分からなかった。


 そもそもあの時、僕に話しかけてきたのは誰だったか。それを思い出すために、左手の親指を三回曲げて、瞳の表面にインターフェースを表示させると「頭部言語」によってコマンドを入力して記憶再生のアプリケーションを起動させた。呼び出されたプログラムによって僕はその黒髪の少女が「宵椿 初音(よいつばき はつね)」という人物だと思い出す。博士の実装してくれた「出会った人をファイリングするデータベース」は便利だ。これで初対面の人の顔と名前を一致させられなかったことはないのだから。


「何よ。あんた、今、他の女の子のこと、考えてるんでしょ」

「考えてはいない。データを参照しているだけだ。博士の改造してくれた機能で、素早くクラス全員分のデータベースを構築できたんだ。担任の教師よりも早く覚えてて、一度、担任が名前を間違えて呼んだ時、即座に、本人より早く指摘したこともあった。クラスがざわめいたのは嬉しかった」


 唯一、僕は実装されている感情の「嬉しい」を使った。

 これは「悲しい」の感情を手に入れた時の副産物であって、決して自ら欲した訳ではないのだが重宝する感情だ。嬉しいというのは、これまで瞬間的に僕の胸によぎっていたほんのりと明るい感情に合致して、ごく自然に使いこなせるようになった。

元々僕は嬉しいと感じる場面が多々あったという証左になる。

頭の中の「右の箱」と「左の箱」。それと似たような仕組みで僕の中には「感情のコイン」というものもある。

これもまた僕の体に備わっているルールなのだが、感情を手に入れた際は必ずその感情の裏側も手に入るようになっている。それが裏表のある「コイン」に例えられているのだ。だから、実際は「感情のコイン」と呼ばれている部品はコインの形をしているわけではない。博士の話によるとSDカードより少し大きな外部モジュールらしい。


 実際にこの目で見たことはないけれど。


「ふん。私と居る時は、私のこと以外を考えては駄目。言わなかったかしら」

「……記憶ベースを辿ってみるか?」

「結構よ。はあ……自分でも滅茶苦茶言ってるって分かるのが辛いわね。いいわ、それなら早速あんたの新機能を試してみるわよ」

「それはそれで嬉しいけれど、芳野さん。『好き』という僕の感情はどうなるんだ。どうしたら『感情のメダル』を作ってくれるんだ」

「後よ、後。今はやるべき事があるから我慢しなさい」

「承知した。我慢モードに移行する。ちなみにこれはサイボーグジョークだ」

「……はい、おりこうおりこう。まずインターフェースを開いて、AR機能のタブを開いてみなさい。上手く構築できているはずよ、私は天才だから」

「起動した。芳野さんは天才だな」


 僕は親指を三回曲げて瞳の表面にメニューを出すと言われた通りに操作をした。追加で並んでいるものが一項目あった。


「『おいしいもの見つけるモード』……?」

「天才的なネーミングよね。このあたしに改造されることを感謝しても良いわ。ちょっと起動してみて」

「権限がないって出てくるんだけど」

「はあ? あたしがそんな初歩的なミスをするわけが」


 そう言いかけて僕を見つめる博士の目が一瞬、泳いだように見えた。何か心当たりがあるのだろうと察した。


「ちょっと来なさい」


 博士は僕の手を引っ張って、商店街の人の中を綺麗にすり抜けていく。連れて来られたのは人気のない裏路地だった。オフィスビルと老舗の和菓子屋の間に存在している空間で、ちょうど人から隠れられるくらいには隙間が空いている。


 小さなリュックからモバイルPCを取り出した博士は、二本のケーブルを僕の腹部の辺りに差し込んで膝をついて座ると、太ももにパソコンを置いて開いた。


「……ちょっと、ケーブルが届かないわ。中腰になりなさいよ」


 無言で従う。

 腰を後ろに突き出すようにすると、少しだけケーブルに余裕が出来て、博士のモバイルPCと繋がった。

 こうなってしまうともう博士は自分の世界に入り込んでしまう。それが分かっているので僕はもう何も話しかけない。


 キーを叩く音を聞いているだけでやることがないので、目線を様々な所に向けていると博士の胸元が見えてしまってはっとする。胸の大きさはクラスの女子の誰よりも上回っていそうだった。これは博士の改造によって導かれた結論ではなく、あくまで僕の予想に過ぎないことを申し上げておこう。


 襟付きのカッターシャツの隙間から胸の谷間が見えている。


「……ちょっと、あんた。体熱を上げすぎないでよ。ちょっと私との距離が近いだけじゃない。それだけでこんなになるの? ひょっとしてバグ? 変態なの?」

「善処する」


 そうは言うものの見えてしまったものは仕方が無いだろう。それに変態なのはバグではない。僕は男の子だ。


 一つ息をついて、天を見上げようとすると、商店街の人通りが多い方から小さな悲鳴のような声が聞こえてきた。僕は頭にクエッションマークを浮かべた。何か事件でもあったのだろうか。

 別に深く推察をしていた訳ではなく、頭の片隅でその悲鳴について考えていたのだが、それからもこちらを見ては足早に立ち去ろうとしている人たちが何人かいた。もしかして、何か変なのは僕らなのか。そう予想しながら僕と博士の体勢を改めて認識し直すと、音を立てて静音ファンが稼働するのを確認した。


「何よ、何なのよ。そんなもの動かしたら正体がばれるわよ。止めなさいよ」

「い、いや。不可抗力というか生理現象というか、とにかく止められないんだ。熱暴走してしまう」

「はあ?」


 あくまでパソコンの画面から目を離さない博士が呆れた声を出していた。

 僕は視線を空中に避けるように移動させて、彼女の体を見ないように、そして現在の自分の体勢について考えないように努めた。しかし、オートで作動する排熱システムが止まることはなかった。


「よしっと。修正完了。弘法も筆の誤りってね。それより、何よさっきから。何? 人目が気になるの? そんなの、ただあたしがパソコンを弄っているようにしか見えないわよ」


 博士はそう言いながら上目遣いに僕を見上げた。

 そして、数秒間の沈黙があってから、予想通り、顔が薄暗いこの場所でも分かるくらいに真っ赤になりはじめたのだった。

 男の前にしゃがみ込んで、下腹部の辺りに顔を近づけている。

そんな格好になっていた自分たちに気がついたのだ。

そして次は、この事実に気づいていながら、照れて排熱フィンを動かすことしかしなかった僕に対して怒りを露わにする。


「変態! 改造よ! あんたの脳みそを改造してやる! 人畜無害な性格になるように、絶対、改造してやるんだから!」


 ヒステリックな叫び声が響き渡り、午後の商店街はいつもの休日の賑わいの中にあった。

 今度はインターフェースから新機能を問題なく起動できた。

 僕と博士は人が行き交う通りから少しだけ離れて立っていた。周囲には待ち合わせをしたり、位置ゲームに興じたりする人たちの姿がある。


「『おいしいもの見つけるモード』……起動」


 小声で博士は言う。手には黒い皮の表紙をした分厚いノートが開かれている。実装の結果をここに書き残すようだった。


 そして、実験の時は必ず、追加された機能がどれだけ間の抜けたものでも力が抜けてしまうような緩いものでも、こういう風に深刻な表情で「サイボーグっぽく」宣言しないと博士は怒る。「自覚が足らない」と叱りつけてくる。もう毎度のことだったのですっかり僕は慣れてしまっていた。


 と、言うわけで「おいしいもの見つけるモード」を実行する。


 AR機能の一部ということで、瞳をディスプレイにして、僕の視界に映るものに追加の情報が表示されるようになっていた。実際には存在しない文字や情報が現実世界の映像に重なって、まるでリアルにその情報が付与されているように見えてくる。


「おお……博士……これは……」

「『そらちゃん』でしょう? で、どうなのよ、どんな風に見えるのかしら。素直に実況することを許可するわ」

「芳野さん、店の名前と複数の星とそれから時間に値段……料理の写真まで見えるぞ。これは、うん、わざわざネットに繋がなくても店探しが出来るな。ゲーム画面みたいだ」


 僕は周囲を見渡しながら興奮気味に話していた。

 横では目を閉じて腕組みをした博士が何度か頷いている。自分の仕事の完璧っぷりにきっと陶酔しているのだろう。


 この駅前商店街はコンビニやパチンコ屋が並ぶ新興エリアと、昔ながらの小料理屋やゲームセンターが軒を連ねる懐古エリアがある。僕はマップ情報を博士に実装してもらった時に、この二つのエリアに勝手にタグを付けていた。新興エリアのことは「ニュータウン」、そして懐古エリアのことは「ノスタルジックタウン」と。博士は僕のこの書き込みに気づいているだろうけれど、元に戻ってはいないのできっと気に入ってくれたのだ。


 ニュータウンにはチェーン居酒屋やファミレスの名前が瞳の表面に表示されていて、その下にはポップアップが出てきており、人気メニューとだいたいの予算が記されている。そういった店の中に星印が併記されている店舗があった。


「この星は博士の格付けなんだな。さすが、博士は食いしん坊だな。この店に全部通って味を記録したんだ」

「改造するわよ。これはネットのグルメサイト『ぐるぐるナビゲーション』の評価に連動しているわ。一番売れている場所が一番おいしいお店なんて短絡的に考えはしないけれど、目安にはなるでしょう」

「星はネットの評価か」

「そうよ。どうかしら、この発想。これならば歩きながらでもすぐにどこにおいしい食べ物があるか分かるわよね。相変わらず天才の仕事だと思うわ」

「芳野さんは天才だな。でも、一つ言っていいか」

「何よ、文句でもあるって言うの。あんたも偉くなったものね、博士に口出しできるようになるなんて」

「い、いや、でも、僕ってサイボーグだから基本的には食事をしなくても生きていけるんだけど」


 恐る恐る口にした事実に、芳野さんは初め「そんなことは分かりきっているわ」と言いたげに涼しそうな顔をしていたのだけれど、徐々に違った感情が湧き出てきたのか、顔色に焦りの色が見え始めるのだった。


「よ、芳野さん……?」

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