第55話 決意の刃

 イルカ達の鳴き声が路地裏に響く。高い壁に反射された甲高い声は、人間には凡そ理解ができない特殊が語源で交わされる会話のようにも思えた。

 イルカ達は、その尾鰭を優雅に上下させ、宙を舞ってみせる。その愛らしい姿は見る者を魅了するが、決して彼等はそれだけの生物では留まらないのだ。

 杖を握りしめたまま、スズネは近くのイルカに視線を投げた。イルカの高い知能故か、或いは、スズネがマナで作りだしたおかげか、イルカ達はスズネの思考を全て理解したような行動をとる。スズネがその背に乗りたいと思えばすぐさま体を寄せ、宙に浮かせている身体を低い位置まで落としてくれる。その他のイルカ達は、直ぐにでもジンに飛び掛かれる体制を整えていた。


「まるで水中ですね。マナ火の時にこれやったら目立ちますよ、これ」

「それは、これが湖のマナだからでしょう? いるはずのない湖の精霊がいれば、目立つのは当然でしょうね」

「ああ、それもちゃんと調べたんですね。偉いじゃないですか!」

「おかげで貴方に聞きたいことが増えました。……ジンさん、貴方はどうして私達が湖と樹の精霊だと知っても、驚かなかったんですか」


 ジンはその黒い瞳を三日月形に細め、意地の悪い笑みを浮かべた。その先にあるのは沈黙のみであり、それが「自ら情報を与えない」という彼の意思表示であることが容易に悟れた。ジンの耳元で揺れる黒い無光石が、無機質に光を放っている。それが酷く怪し気に見えて仕方がない。

 スズネは、イルカの背に飛び乗った。曲線を描く身体にしっかりと掴まって、体制を整える。イルカに軽く揺らされながら、スズネは静かに確信を持った声音で言葉を紡いだ。


「本当は、貴方は私達のことを最初から知ってたんじゃないですか?」

「ほう、どういうことです?」

「だって、樹の里は百年前から他の里と交流を断ってます。湖の里も壊滅寸前だと聞きました。樹の精霊も湖の精霊も、今は貴重な存在なはず。湖のマナを見た人は皆驚きました。私達の正体を知っても驚かなかったのは、貴方だけです。……精霊攫いの貴方なら、私達は真っ先に狙うべき対象なんじゃないですか?」

「わあ、イルカは知能が高いって仰ってましたけど、成程、スズネさんが好みそうな訳が少し分かりましたよ。賢いなぁ」

「茶化さずに答えてください」

「答えたら俺に何か良いことあるんですか?」


 遠まわしな拒絶の言葉を投げかけて、ジンは白い歯を見せつけるように笑った。その笑顔のまま、ジンが再び指を鳴らす。

 足元から吹き出した炎が、ジンの身体を包み込む様に渦巻きながら燃え盛る。それは、彼が草原狼を追い払うときにも使役した、炎の大蛇だった。

 鞭のようにしなやかな動きでスズネを威嚇する大蛇は、周囲の空気を熱で揺らめかせている。意思を持った炎は、酷く恐ろしい。炎は全てを燃やし尽くす。それ程に強力な力を持った物質が、生き物のようにうねるのは、下手をすれば剣や槍といった分かりやすい武器よりも恐怖を煽るのだ。

 剣も槍も、炎から生まれる。それを考えれば、炎を恐怖するのは自然なことかもしれない。

 しかし、炎が全てを焼失させる力を持っているならば、水は全てを呑み込んで無かったことにしてしまう力を持っている。相対した力と呼んでも過言ではないだろう。


「スズネさんの可愛いイルカちゃんと俺の大蛇、戦わせてみますか?」

「消えても知りませんよ」

「はは、そんな生温い温度じゃないんですけどね。シンヤさんみたいなこと言うなぁ」


 やっぱり似てますね、と軽く笑ったジンは、炎の隙間からスズネとイルカを指差した。大蛇の攻撃が来る。身構えるスズネの前で、炎の大蛇は赤く燃え盛る細長い舌をチロチロと見せた。まるで本物の蛇のように細やかな動作だ。蛇に睨まれた蛙、というのは、こういった心境なのかもしれない。スズネの背筋には、ビリビリと痺れるような緊張感が走っている。

 蜷局を巻くようにジンの周囲を渦巻いていた大蛇が、緩慢な動作でゆっくりとその細長い胴体を伸ばす。見せつけるようにゆっくりと身体を持ち上げ、轟々と燃える焔で造形された顔をスズネに向け、今にも飛び掛かってくるような――。


「スズネちゃん、後ろ!」


 その瞬間、スズネの背後で何かが爆ぜた。コハルの高い声が空気を振動させ、鼓膜を劈く。

 軽い爆発が起きたようだ。背中に強い風を受けて飛びそうになったスズネを、イルカがうまく重心をとって支えてくれる。慌ててイルカの胴体に掴まったスズネは、爆発の方向を振り向いた。

 爆発の際に生じたのだろう白い煙の向こうに、青白い炎の円柱が見える。――否、その柱は大きく揺らめき、しなやかな鞭のような動きをしている。よく見れば、それが爆発によって頭部を吹き飛ばされた大蛇だということが悟れた。


「あーあ、残念。可愛いくらい素直に誘導に乗ってくれるから、そのまま大蛇でぱくっとできると思ったんですけど」

「させるわけないでしょ! 大丈夫? スズネちゃん」


 コハルは眉尻を吊り上げて叫んだ。先ほど確認したときよりも、彼女が壁に張り巡らせたであろう蔦は太く、丈夫なものとなっている。太い蔦が複雑に絡み合って完成された足場の上に、コハルは立っていた。その腕には短弓が掲げられており、彼女の足元は革袋が丁重に寝かされている。

 ジンの周囲を取り巻いている赤い炎の大蛇は、視線の誘導に過ぎなかったのだ。スズネが正面を警戒している間に、別の大蛇で背後をとり、攻撃する。恐らく、先ほどの爆発はコハルが起こしたものである。自分が寸でのところで助けられたことを悟り、スズネは慌ててコハルに視線をやった。


「大丈夫です、コハルちゃん。ごめんなさい」

「平気。これでも弓矢は得意なんだよ。支援なら任せて。シンヤくんにもヨルにも褒められるんだから」

「炎に触れると起爆する植物か何かを弓矢につけて打ってます? 樹の精霊って、こういうところが面倒くさいですよね。弓矢だって自分で作れるでしょ」

「そうだよ。マナが続く限り、私は自分で弓矢を作れる。ここなら無限に弓矢を作り出せるから、私の攻撃手段が失われることはない。絶対に負けないんだから」


 シンヤくんとヨルを返して、と、コハルの低い声が路地裏に落ちる。彼女の桃色の瞳に落ちた影は、明確な敵意をジンに向けている。路地裏を吹き抜けていく風が、彼女の波打つ黒髪とリボンを靡かせる。酷く愛らしい容貌と相反した冷たい視線は、ジンを明確に、精密に射抜いていた。


「うわぁ、めちゃくちゃ怒ってる。こわー」

「当たり前だよ。怪我しても知らないからね」

「コハルさんにならちょっとくらい怒られてもいいですけど……でもいけませんよ。そんな場所で打ち放題の遠距離攻撃とか、されたら面倒くさいにも程があります。植物って燃えやすいのが有り難いところです」


 弓を構えて狙いを定めるコハルを見て、ジンは微かにその口元を緩めた。刹那、コハルの弓矢によって吹き飛ばされた青い炎の大蛇がその頭部を復活させ、瞬きの間にコハルを目掛けて飛び掛かる。コハルが瞬間的に身を反転させて弓矢を引き絞る最中、大蛇は炎の身体を彼女が作り上げた蔦の足場にぶつけた。

 蔦には見る見るうちに炎が燃え移り、あっという間にコハルの周囲が炎に囲まれる。青白い炎はコハルとダンを捕らえる無慈悲な監獄のように、その存在を主張した。


「コハルちゃん!」

「スズネさんはこっちですよ」


 決して救助に行くことは許されない。コハルの元に移動しかけたスズネを、赤い大蛇が襲撃する。一呼吸を置くことすら許されない。スズネに噛みつこうと炎の口を大きく開けて大蛇が飛び掛かってきたところを、スズネの周囲に漂っていたイルカ達が瞬時に防御する。その口の中に自らの体を投じて炎を消し去ったイルカ達は、白い煙となって静かに蒸発した。

 キュウ、という弱った声が静かに消える。鼓膜に残ったその声を聞いて、ジンは酷く楽し気に笑みを描いた。


「おやおや。健気ですね。でも、次はどうかな?」


 ジンが人差し指を立て、指揮を執るように宙をなぞる。それに合わせて地面から現れた二匹の大蛇は、先ほどと何ら変わらぬ様子でスズネ達の前に立ちはだかる。

 これではいくらイルカが居ても、いたちごっこに陥るだけだ。その間にコハルの足場が燃えてしまう上、シンヤとヨルの救助も手遅れになってしまうだろう。

 スズネは未だ、湖のマナを活かし切れていない。シンヤのサメが情報収集や移動に長けているというのなら、スズネのイルカもまた、何らかの特徴を持っているはずだ。

 記憶の断片と自身が持ち得る知識を巡らせて、スズネは考える。コハルの足場はその間も急速に燃えており、彼女とダンに身の危険が迫っていることを伝えていた。パチン、と弾ける炎の音に、酷い焦燥を感じる。

 パチン。

 火花が弾けた音が、脳内で響き渡る。それは、スズネの中で全てが噛み合うのと殆ど同時だった。


「コハルちゃん、今行きます!」

「そういうの、猪突猛進っていうんですよ。スズネさん!」

「いいえ、言いません!」


 コハルの元に真っ直ぐ滑り出したイルカの眼前に、ジンの大蛇が滑り込んでくる。触れてもいないのに肌を焼くような熱気を纏った炎の大蛇に触れてしまえば、スズネが乗るイルカも蒸発してしまうだろう。真っ直ぐに進めば、当然衝突は免れない。

 スズネの脳内を、ジンの言葉が過る。彼は水のサメを作り出したときに、シンヤの真似だと言った。つまり、彼は、湖のマナを扱うことはできても、自ら進んで創り出せるほど水生生物との関わりが深くないということだ。

 彼が注目するのは、あくまで精霊であって、その里の特色ではないのかもしれない。名前などの知識はあっても、その動きや生体まで頭に叩き込むのは難しいはずだ。どういった原理かは知らないが、彼は複数のマナを扱うことができる。それは、他里のマナの特徴を正しく理解しなければならないということでもある。技の選択肢が増える分、咄嗟に適切な知識を引きだした上で利用するのは難しいはずだ。

 スズネを乗せたイルカは、決して躊躇うことなく炎の大蛇目掛けて勢いよく接近する。大口を開けた大蛇が自らに噛みつこうとした瞬間、スズネはイルカの身体にしっかりと掴まって叫んだ。


「今! 飛んで!」


 イルカの尾鰭が、それまでで一番力強く宙を叩いた。刹那、イルカの身体は大蛇の眼前から姿を消す。空中でつけた助走の勢いのまま、イルカは大蛇の身体を飛び越えるほどに大きく宙を飛び跳ねてみせた。

 シンヤのサメには無くて、スズネのイルカにはあるもの。それは、このジャンプという動きである。


「はあ!?」

「イルカは可愛いだけじゃありません。肉食だし賢いし集団で行動するし、ジャンプ力もあります!」

「そ、そんなお遊びみたいな動き、戦闘で」

「勝てればなんだっていいんです!」


 素っ頓狂なジンの声に、スズネは真剣な言葉を返した。スズネは決してふざけている訳ではない。本気だ。例え絵面が絵本染みていて戦闘とは思えないものであっても、これは間違いなくスズネが選んだ戦術である。

 シンヤのサメは宙を真っ直ぐに、素早く泳ぐ。旋回することはあれど、決して激しく飛び跳ねたりはしない。対して、イルカには高いジャンプ能力が備わっており、戯れや求愛をする際に好んでそれを披露する。

 使用者の人格の違いか、或いは生物的な違いかは分からないが、シンヤのサメを参考にしただけに過ぎないジンに、このイルカ独特の動きは先読みできないと踏んだのだ。大蛇を容易く飛び越したイルカの群れは、炎の監獄に囚われたコハル達の元へ続々と辿りついた。


「コハルちゃん、掴まって!」

「うん!」


 イルカから身を乗り出したスズネが、コハルに手を伸ばす。自分の身体と革袋をしっかりと蔦で巻きつけたコハルは、足場が燃え尽きる寸でのところで、スズネの腕に飛び付いた。

 コハルの靴が離れた途端、限界を迎えた足場は青白い焔に呑み込まれ、炎の中で灰となって燃え尽きていく。後数秒でも遅れていれば、あの中にコハルとダンが消えていくところだった。

 ほっと安堵の息を吐けたのも束の間である。スズネの頼りない細腕は、二人分の体重を支え切ることができず、直ぐに悲鳴をあげることとなった。


「す、スズネちゃん、腕ぷるぷるしてるけど大丈夫?」

「ごめんなさいすみませんちょっとコハルちゃんが重いとかではなく純粋に片腕で二人はキツいです」

「そ、そうだよね!?」

「は、離しません、絶対に離しませんから……!」

「まって、今すぐ私地面に下りるから、だからもう少しだけ――」


 その先に続くはずだった『耐えて』という言葉は、紡がれることが無かった。コハルの言葉の途中で、急にスズネの腕は重力から解放されることとなった。

 不思議に思って目線を滑らせれば、コハルの足元には透明な球体が浮いている。――否、よく見ればそれは球体ではなく、お椀をひっくり返したような、半球体であることが分かる。その半球体の下から幾本も伸びた細長い触手のようなものが、空中を緩慢に漂っていた。

 水で作られた身体は、イルカやサメ達と違わず、一寸の濁りもなく透き通っている。それに大した違和感を覚えないのは、元々その生物が、半透明の体を持っているからかもしれない。

 その生物の名前は、スズネは勿論、コハルもよく知っていた。


「……くらげ……シンヤくん?」


 コハルの呆然とした声がその生物の名前を読み上げる。それは確かに、コハルとダンが安心して足をつけられるほどに巨大な体を持ったくらげだった。


「シンヤさん!?」

「なに、馬鹿なことやってんの、君達」


 地面から、絶え絶えの呆れた声が飛んできた。弱々しいながらに、その言葉に含まれるシンヤの気の強さはいつも通りである。

 慌てて空から地面を覗き込んだスズネとコハルの視界には、未だ地面に寝そべっているシンヤの姿が飛び込んできた。腹部や腕から尚も鮮血を流し続けている彼は、僅かに霞んだ眼差しをコハルに向けている。


「……コハル、無事?」

「私なんか平気だよ! シンヤくん、マナ使って平気なの!? そんなにいっぱい血が、血が……」

「へい、き。そんな顔させて、ごめん」


 シンヤは血の気の引いた蒼い顔をしていた。彼の周囲には夥しい量の鮮血が広がっており、彼の負った傷が深いことを物語っている。今も尚腹部に突き刺さったままの短剣が、酷く痛々しい。その状態でも尚、彼が真っ先に気にするのはコハルの安否なのだ。

 コハルが静かにスズネに絡めていた腕を解いても、彼女が落下することはなかった。宙を漂う巨大なくらげはコハルとダンをしっかりと受け止め、そのまま墜落する様子を見せない。これはスズネのマナではない。明らかに、シンヤがコハルのために絞り出したマナだった。


「シンヤくん、なんでこんな……やだよぉ、シンヤくん、死んじゃやだ」

「ばか、死なないよ。へいき、だってば」


 先ほどまで気丈に振る舞っていたコハルが、シンヤの声を聞く度に今にも泣きだしそうな顔をする。当然だ。彼女でなくても、今のシンヤが決して『平気』でないことは容易に悟ることができる。これほど分かりやすい嘘はない。そんなことは、スズネの目から見ても明らかなことだ。しかし、シンヤは決して弱音を吐くことをせず、弱弱しく絶え絶えの声で『平気』を突き通した。

 それに対して集まるのは、決して称賛の言葉ではない。その顔から笑顔を引き剥がし、甚く面倒くさそうな色を浮かべたジンが、ため息交じりにシンヤの顔を覘きこむ。


「あーあ、まだマナを使う元気があったんですか。シンヤさん。結構深く刺したつもりだったんですけど」

「……舐めんな、馬鹿。お前なんかに、俺が負けるわけ、ないだろ」

「減らず口。それ、時に身を滅ぼしますよ。例えば、今とか」


 ジンは彼を鼻で笑うと、シンヤの腕から容易く剣を奪った。短剣よりも長い刀身を誇るシンヤの剣は、ジンの手中で鋭い光を放っている。ジンはそれを確認するように翳すと、興味なさげな冷めた視線を自分の足元に向けた。


「これで何度か突き刺したら、多分シンヤさん死にますよ。まあ放っておいても死ぬだろうけど。命乞いとかしません?」

「そんなこと、絶対しない」

「強情ですねぇ。死んでも自分が信じる『美しい生き方』を全うするってヤツですか? あーあ、これだから湖の精霊って嫌なんですよ。皆湖の大精霊と同じ目をする。スズネさん然りシンヤさん然り。どうしてこうも強情を張るんだ、湖の精霊ってのは」


 やれやれ、と肩を竦めたジンは、心底呆れた声音でそんな言葉を紡ぐ。そして、わざとらしく小首を傾げてみせた。


「言い残すことは?」

「コハルを傷つけたら殺す」

「今から殺される人が何を。シンヤさんも冗談言うんですね」


 その一言を鼻で笑ったジンが、無慈悲にシンヤの剣を振り上げる。サヨナラ、とジンの唇が四文字分動くのを見た瞬間、スズネの脳裏には、焼き付いているかのように鮮明な記憶の断片がちらついた。

――一つに結った長い黒髪を靡かせて、その人はいつでもスズネの前を歩いていた。酷く無愛想なその少年は、常にスズネに対して冷たい態度を貫いていたが、スズネはそんな少年の側から離れなかった。

 兄妹のようだ、と周囲には言われた。実際、スズネは彼のことを兄だと思っていた。少年はそう呼ばれると酷く顔を顰めて、決まって拒絶をしたけれど。その度に、スズネは相応に傷ついたけれど。

 それでも好きだった。その少年の側にいると落ち着いた。

 芯が真っ直ぐに通った強かな人。スズネはそんな少年のことを尊敬して、慕っていたのだ。


『お兄ちゃん』

『その呼び方やめろって言ってるじゃん、鳥肌立つ』

『でもお兄ちゃんだし……』

『お兄ちゃんじゃない。やめて。他の呼び方あるでしょ』


 記憶の中で、スズネと少年のやりとりが繰り返される。呆れた声でスズネの好意を払いのける少年に、スズネは、それでも尚歩み寄り続けた。


『ほら、俺の名前は?』


 だって、スズネは、その声が時折優しくなる瞬間が酷く好きだった。




「――ッ、シンヤ!」


 イルカから身を乗り出したスズネが叫ぶ。空気を振動させる大声に、シンヤが僅かに目を見開く。スズネの声を気に止めないまま振り下ろされた剣は、容赦なくシンヤの腹部に突き刺さった。

 血飛沫が、舞う。生々しい音を立てながら周囲に飛び散った血飛沫が、スズネの網膜に焼き付いた。鮮烈な赤が路地裏の影を覆い、鼻を突き刺す鉄の匂いが湿った空気を伝ってくる。泣き叫んだコハルの声が響き渡るのと、スズネがイルカの背中から飛び降りたのは、殆ど同時のことだった。


「そのまま、足、掴んで!」


 それなりの高さから飛び降りたために、スズネの身体は重力に従って急速に落下を始める。風によってスズネの黒髪は巻き上げられ、スカートが大きく靡く。目を細めながら仕込み杖の剣を抜いたスズネは、ジンの頭上を位置取っている。

 スズネの接近に気付いて、ジンは驚いた顔をしながら飛び退こうとする。――その足を、シンヤの手が素早く掴んだ。


「腹貫かれてる人間に足掴めとか、昔から無茶言ってくれるよね、君は。――上等だよ、馬鹿」

「なっ……!」


 シンヤの手に阻まれて、ジンはその場を逃れることを許されなくなった。既にスズネはジンの眼前まで迫っている。胸元に構えた仕込み杖の刃は、間違いなくジンに突き刺さる。それは、間違いなく彼を傷つける行為だった。


『相手を殺すくらいなら、自分が死んだほうがいいって、そう思ったことない?』


 記憶の彼方で放たれたそんな言葉がスズネの脳裏を掠める。その言葉は、スズネの刃を鈍らせようとしているようだった。

 その気持ちが、スズネには痛いほどよく分かる。

 誰かの未来を奪う行為をするくらいなら、自分の未来を投げ捨てたい。何故なら、他者よりも優先すべき価値が、自分にはないからだ。

 世界の理は常にそうだった。そう信じて止まなかった。価値のあるものを尊び、価値のないものを切り捨てる。世界はそういう風に回っていた。

 けれど、大事な人の未来が奪われそうになったなら、私はその人の未来を守りたい。

 例え、誰かの未来を踏みにじることになったとしても。価値のない自分にも、それができるのであれば。

 大好きな人を守るためなら、私は、この刃を振り下ろすことを躊躇わない。

 スズネの手に、確かに肉を突き刺した鈍い感覚が広がる。自分の持った刃が人を突き刺した。生温い血飛沫がスズネの白い手に付着する。その生々しい感覚も、今までで一番強く感じた鉄の匂いも、決して心地の良いものではない。

 目の前で歪んだジンの表情は、確かに苦痛を訴えていた。恨めしそうな瞳がスズネを睨む。


「ッおまえ、刃を」


 ジンの苦しげな声が鼓膜を撫でる。スズネは、耳を塞ぐことをしなかった。

 この世界では、全ての人を救えない。そんなに優しい選択肢は、この世界に存在しない。

 自分を全て投げ捨てれば、世界を全て救える。そう信じたかった。けれどその考えは、きっと傲慢そのものだった。

――貴女はきっと、それを知っていたのだろう。


「私、大事な人を守るのに、もう二度と後悔したくありません!」


 スズネの言葉に、揺らぎはもうない。

 スズネはもう二度と、迷わない。

 スズネの手は深々と短剣をジンの胸元に突き刺す。人を傷つける感触を生々しいほどに覚えた彼女は、それでも、その刃から手を離さなかった。

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