第36話 天秤の思考
駆けだしたシンヤと、馬に乗って走行していた男の距離は、あっという間に埋まった。
シンヤが剣を抜いていることに気が付いた男は、その厳めしい顔を歪め、警戒した獣の咆哮に似た大声で叫んだ。
「んだよテメェ!」
「品のない奴」
シンヤの冷ややかな言葉を聞いて、男の蟀谷に青筋が浮かぶ。舐めるな、と歯を覗かせながら叫んだ男がサーベルを大きく振り回したのを、シンヤの剣が力強く受け止めた。
しかし、馬の直進は止まらない。そのまま突進を喰らう前に、シンヤはサーベルを受け止めた剣ごと体をずらす。腕に目一杯力を込めていた男が僅かに手前に重心を崩すのを見て、シンヤの腕は素早くその男の胸倉に伸ばされた。
「あんまり騒がしくしてると馬が可哀想だから下りてあげたら」
「なっ……!」
流れるような身の熟しだった。胸倉を力任せに引っ張られた男は、馬の胴体から体を浮かせてしまう。きつく握りしめていたであろう手綱を目にも止まらぬ速さで断ち切ったシンヤは、冷酷な瞳で男を射抜いていた。
男は、あっという間にシンヤの手によって落馬させられた。乗り手を失った馬は軽やかな足つきで、尚も直進する。光を浴びて艶やかに光る茶色い毛が美しいその馬は、スズネ達目掛けて駆けてきた。
「ひえっ、お助けください!」
「えっ」
仕込みの剣を構えたスズネの背後に、商人が回る。後ろから縋る様にスズネの腰に回された手に肩を跳ねさせたスズネは、危うく短剣を落とすところだった。怯えた様子の商人の腕はスズネを掴んで離さない。相応に込められた力から察するに、盾代わりにされているのだろうか。
「あ、あの! 離してください!」
「僕戦えないんですよ! お強いんでしょう!?」
「強いのは私じゃなくてシンヤさんなので、あの!」
盗賊に追われていたことで、錯乱状態にあるのかもしれない。しかし、スズネとて戦い慣れている訳ではなく、また、初対面の異性に腰を思いきり掴まれれば笑顔で流すことはできないのだ。慌てて手を外そうと苦戦している間に、馬は二人の眼前まで迫っていた。
踏まれる。蹴られる。死んでしまう。そう思って同時に顔を蒼褪めさせたスズネと商人の首根っこを、誰かが強く引っ張った。
「キミ達何やってるの、はやくこっち!」
荷台で休んでいたはずのヨルである。焦った声を出したヨルに従って慌ててその場から飛び退くと、次の瞬間には馬がその場所を踏み抜いて軽やかに草原の彼方へ駆け抜けていった。広大な草原を走る一頭の馬、というのは、まるで絵画に描かれたような素晴らしい光景だったが、それに殺されかけた後では情緒的な反応を零す余裕はない。
「びっくりさせないでよ、もう……」
「よ、ヨルさん? なんでここに。荷台に乗っているはずでは……動いちゃ駄目ですよ」
「キミが戻ってこないから。少し覘いたらなんか腰掴まれてるし、馬来てるし。逃げなきゃ駄目だよ、危ないでしょ」
ヨルは眉間に皺を寄せて言い聞かせるように呟いた。スズネは、怒らせてしまったかと肩を竦めてから、その認識が間違っていることに気が付いた。
自分の腹部を、ヨルが手が服越しに擦ったのだ。一連の流れで怪我を刺激してしまったということを悟るには十分な動作だった。
今度こそ明確に顔から血の気が引く。勝手な早とちりでシンヤの言いつけを破った挙句、怪我人のヨルに多大な心配をかけた上に怪我を悪化させるという大失態である。
「ご、ごめんなさい!」
「気を付けて。後何度こういうことが起こるか分からないけど、本当にいつ死んじゃうか分からないんだから」
「は、はい」
「……それで、この人は誰? なんで腰掴んでたの?」
「ええと、盗賊に襲われていた商人の方で、多分、盾代わりに……」
「盾代わり?」
ヨルの胡散臭そうな視線が商人の男性を刺す。命の危険から遠のいた安堵からか、商人は即座にスズネの腰を離して、それから照れたように頭を搔いた。
「死にたくなくて……つい」
全く正直な人だった。すみません、と軽い謝罪を添えられた上で頭を下げられたスズネは、困惑して言葉を詰まらせてしまう。
旅をする商人というだけあって、彼の肌は小麦色に焼けている。全力疾走をしたせいか、日を浴びて光る黄金の髪は所々が跳ねていた。人の好さそうな笑顔でつい心を許したくなるが、無遠慮に腰を掴まれたことも盾代わりにされたことも、善人が進んで執り行うような良い行動とは言えない。
その場に落ちた沈黙は、恐らく、ヨルやコハルも同じような感想を抱いた故に発生したものだろう。
「まだ楽しくお喋りするのには早いんじゃないの」
その沈黙を破ったのは、何事もなかったかのように平然と紡がれたシンヤの声だった。
彼の方は既に決着がついており、盗賊の男は地面に大の字にさせられていた。サーベルは男の手を少し離れた場所に落ちている。少し手を伸ばせば届きそうな距離なのに、男がぴくりとも動かないのは、その首元にシンヤが容赦なく剣を突きつけているせいだろう。
盗賊の男が呻いていることから、その息がまだあることに、スズネは密かに安堵した。
「刺青があるからコイツは盗賊。まあ、予測はついたけどさ。聞きたいことがないならこのまま殺すよ」
「ま、待ってください! 商人さんも私達も無事なんだから、殺す必要は……!」
「また始まった」
スズネの主張に、シンヤは今度こそ明確に呆れた声を零した。その表情に浮かぶ、面倒くさそうとも侮蔑ともとれる感情に、スズネは思わず肩を竦めてしまう。
草原を吹き抜ける風の音だけがその場に聞こえている。シンヤは数拍置いて、その瞳に冷酷な光を灯してスズネを睨み付けた。
「コイツを生かして何になるの。今後の危険性が増えるだけでしょ。コイツが仲間を呼んで俺達を追って来たらまた戦闘になる。数が増えれば増えるほど、マナを使わざるを得ない状況も増える。他にも追っ手もいるこの状況で、そんな危険性を背負ってまでコイツの命を救わなきゃいけない理由は何?」
「それは……」
「見たくないなら目を瞑ってればいい。悲鳴も音も聞きたくないっていうなら耳を塞げばいい。それもできないのに、どうして荷台から下りたの」
的確に心を抉る正論に、スズネは思わず黙り込んでしまった。
シンヤの言っていることは何から何まで正しい。この場合、殺さずに見逃すことで生まれる利点は皆無である。
殺さなければならない。しかし、殺したくないのだ。どうしても。
「……たすけて、くれ」
沈黙したスズネの耳に、掠れた声が聞こえた。その声の主は地面に転がされた男である。
鋭い目付きの男は、その顔に懇願の色を浮かべてスズネを見上げていた。恐怖に歪められたその顔は、救いを求める言葉を幾度となく繰り返す。
「俺はこうしなきゃ生きていけない、生きるために仕方なく……生きてたいんだよ、まだ。死にたくねぇ、仲間も家族もいるんだ、まだ何も言えてねぇんだよ。頼むよ……」
一言一言紡がれた確かな声に、スズネは微かな頭痛を覚えた。
目の前の光景がぶれる。確かに草原に立っていたはずのスズネの視界を、青く静謐な光が埋める。遠くで水の音がした。
『――こんなこと言って、苦しめたいわけじゃないけどさ』
『優しさってのは、救うってことだけじゃないと思うぜ』
『アンタはどう思う?』
試すような視線に刺された。あの時、私はなんて答えたんだっけ。
それ以上の問答は無用だと判断したらしい。シンヤが剣を僅かに持ち上げたのを見て、スズネは咄嗟に声を荒げてしまう。
「待って!」
思わず伸ばした手は空を切った。何を掴もうとしていたかすらも分からない。唐突に飛び出したスズネの大声にシンヤが一瞬気をとられた隙に、寝そべっていた男の手がサーベルの柄に伸びた。
「ありがとよ、大馬鹿野郎!」
先ほどの消え入りそうな声は姿を潜め、代わりに大きく愉悦の入り混じった声音がその場に響く。サーベルをしっかりと無骨な手で握りしめた男は、その体制のまま、自身の首元に宛がわれたシンヤの剣を強く弾く。
弾かれるまま上に持ちあげられた剣の下から、男の身体は抜け出した。男が目にも止まらぬ速さで起き上がり、走り出した先にいたのは、スズネただ一人である。
恐らくは、戦闘慣れしているシンヤを相手にするよりも、スズネを相手にした方がずっと楽だと判断されてのだろう。
落馬、或いはその後に繰り広げられたシンヤとの戦いで負傷しているのか、男の構えは甘い。サーベルはスズネの持つ仕込みの短剣よりも剣身が長かったが、それでも返り討ちにすることが容易そうだと、戦闘に慣れていないスズネでさえ思った。
「お人好しっているもんだな、賭けてみるもんだぜ!」
嘲笑めいた笑い声がスズネの鼓膜を突き刺す。スズネの眼前に迫った男がサーベルを大きく振りかぶった。腕がスズネの顔に影を落とす。しかし、その光を帯びた鋭い刃が振り下ろされるまでの一瞬で、スズネの仕込み杖は相手の懐を刺すことができるだろう。
――相手を殺すことが、できる。
「スズネ!」
「スズネちゃん!」
ヨルとコハルから一斉に名前を呼ばれた。それを合図に柄を握りしめたスズネは、手元の刃を相手の腹部に突き刺そうとしてその懐に飛び込む。――そして、硬直した。
刺せない。本能がそう叫んでいる。この手が血に染まることに怯えている。自分勝手に相手を殺したくない。相手の人生を滅茶苦茶にしたくない。その終止符を打ちたくない。
スズネの刃は、盗賊の腹部に突き刺さる寸前で勢いを失った。その先端が刺さることもなく、力の抜けた手中から短剣がするりと落下する。
『相手を殺すくらいなら、自分が死んだほうがいいって、そう思ったことない?』
脳裏を掠めた笑い混じりの言葉が聞こえる。振り上げられたサーベルは勢いを増して振り下ろされ始めている。色濃くなった影と経過した時間からそれを悟ったスズネは、次に自分の終わりを理解した。
……そうだ。誰かを殺すくらいなら、その方が。
諦めかけた言葉が浮かぶ。その声を否定したのは、スズネ自身でも、脳裏を掠めた記憶の断片でもなかった。
鮮烈な赤が視界を埋める。スズネが覚える痛みは微塵もない。スズネの視界を一色に染め上げた血飛沫は、スズネの頬を濡らした。
「君のそれは優しさじゃなくて弱さっていうんだよ」
シンヤの低い声が男の背中越しに聞こえた。背中から突き刺されたであろう剣は容赦なく男の胸元を貫いており、顔を出した剣先はスズネの胸元に触れる寸前で止められている。盗賊の男は、その瞳を大きく見開き、口を開けたまま動かない。――既に絶命しているようだった。
男の首根っこを掴んだシンヤは、そのまま剣を勢いよく引き抜いた。血飛沫が青々と茂る草むらに飛び散る。全身から力の抜けた、既に遺体となった男を投げ捨てたシンヤは、冷たい視線をスズネに向けた。
「自分の弱さが周りの足を引っ張ることもあるって、覚えといたほうがいいんじゃない。君が助けたいのは盗賊の命なのか、それとも仲間と自分の命なのか。よく考えときな」
吐き出すような言葉を落として、シンヤは剣を鞘に収めた。スズネの頬を伝って落ちた鮮血は、まだ仄かに温かい。それが少しずつ風に触れて冷めていくのが、命の灯が消える瞬間に立ち会ったという事実を物語っていた。
スズネは、先ほど落とした仕込みの刃を拾うこともできずに、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
強い鉄の匂いが鼻孔を擽る。スズネは、初めて目の前で人が死ぬのを目撃した。
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