第35話 助けを求める草原


 夢と現実の狭間で、心地の良い小刻みな揺れを感じていたスズネは、それが止まったことに気が付き、重たい瞼を上げた。


「……どうか、したんですか……?」

「何か聞こえる」


 寝惚けて掠れている上に呂律が回り切っていない声での問いかけに、シンヤが緊張感を含んだ声で返答した。思考がうまく巡らない脳内は、その音が言葉であるということを理解するのに数拍の間を要した。

 数秒後、漸く言葉の意味を理解したスズネは小さく目を細める。それから、荷台の出入り口から外を覗いた。

 青々とした草原を風が駆け抜け、それに撫でつけられた草が波を打つ。馬車が動いている間は川の流れのように絶え間なく流れていく景色は、今は絵画のように動きを止めていた。広大な大地には、土を覆うように生えた草むらと、所々生えている木以外のものを確認することはできない。

 ただの平和な草原に見える。和やかな光景が呼び起こす眠気に抗えず、再び目を閉じかけた次の瞬間、スズネの鼓膜は微かだが確かな音を拾った。


「誰かー! 助けてくださーい!」

「……今、人の声が」

「誰か来るよ」


 明確に助けを求めて放たれた叫び声に、眠りの世界に踏み込みかけていたスズネの意識が清明さを取り戻す。警戒を露わにしたシンヤの声を聞いて、スズネは反射的に姿勢を正した。そこで初めて自分がまたもやヨルに寄りかかって眠っていたことを自覚したが、今回は悲鳴をあげている暇も、飛び退いている余裕もなかった。


「誰かー!」


 遠くから徐々に近づいてくるその声の持ち主は、男性のようだ。馬車の進行方向から声が飛んでくる。

 スズネが馬車に寝かせていた仕込み杖を握りしめると同時に、コハルもまた上着で隠した背中に隠し持っていた短弓を取り出していた。普段は笑顔が多く浮かんでいる彼女の顔も、緊張感に支配されている。僅かに釣りあがった眉の下で、桃色の瞳が細められていた。


「戦闘になるかもしれない。もしそうなれば、俺が出る」

「私も出るよ」

「いや、コハルは馬の方をお願い。いざというときは逃げること。怪我人と新人は荷台で待機」

「シンヤくんは?」

「俺なら戦闘に慣れてるし、逃走することになっても最悪マナで追いつける。コハル、交代して」

「分かった」


 シンヤの的確な指示にコハルが頷く。スズネの隣で一瞬不満気な顔をしたヨルが分かりやすく溜息を吐いたが、シンヤは敢えてそれを無視したようだった。怪我を負っているヨルをわざわざ戦闘に出すつもりはないらしい。

 荷台から飛び降りたコハルが、馬車の前部に座っていたシンヤと入れ替わる。基本的に馭者を務めるのはシンヤだったが、コハルも馬車を御することができるようだ。

 地面に降り立ったシンヤは、腰に携えていた鞘から剣を引き抜く。磨き抜かれた白銀の刃が、太陽光を浴びて目を刺すような光を帯びていた。

 一瞬、彼が盗賊の腕を斬り落とした瞬間の出来事が脳裏を過る。鮮烈な赤が、あの美しい剣を滴った、あの光景。


「……スズネ?」

「は、はい!」

「大丈夫? 顔色悪いよ」


 どうかした? と気遣わしげに紡がれたヨルの言葉に、スズネは曖昧に首を横に振った。スズネの顔を覘きこんだヨルが、心配そうに眉尻を下げている。その表情を見ていると余計に、自分の弱さに嫌気が差した。

 大丈夫です、と言い聞かせるような声音で呟く。ヨルは物言いたげな顔をしたが、「そっか」と頷いたきり、それ以上は踏み込んでこなかった。

 旅に出れば、戦闘に巻き込まれることは珍しいことではない。樹の里を旅立った日に、シンヤとヨルはそう聞かせてくれた。

 旅人の金品や食料目当ての強奪、野生動物による襲撃に加え、四人の場合は、精霊の希少価値を知る者からの強襲、樹の里からの追っ手といった複数の危険が付き纏うことになる。

 やむを得ない戦闘は必ず何処かであるのだ。だから、心の準備をしなくてはならない。確かに、そう言い聞かせられていたはずなのに。

 杖を握る手が僅かに震えた。戦闘とは、どの範囲のことを言うのだろう。相手を殺してしまうのだろうか。それとも、その必要がなければ見逃すのだろうか。食料を少し分けて、それで解決といった穏やかな話に発展しないことだけは確かだった。


「少し様子を見てきます」

「あ、スズネ」

「すぐ戻ります!」


 それでも、手を尽くせるならば尽くしたい。それに、声の主は『助けて』と叫んでいた。助けを求めている人物がいるなら、助けを求めさせている存在が必ずいるはずだ。戦闘にもつれ込むなら、どちらかというと後者との確率の方が高い。

 なら、助けを求めている人物だけを救ってしまえば、戦闘そのものを回避できる可能性だって、十分にある。

 ヨルの声を振り切って荷台から飛び降りたスズネは、声の方向に視線を投げた。雄大な草原の中心に、膨らんだ一つの革袋を両腕に抱えて必死に走っている一人の男性の姿が確認できた。

 助けを求めているのは彼である。既に剣を抜いているシンヤは近づいてくる彼を見定めるように睨み付けていた。

 どう見ても男性には敵対の意思はない。スズネは慌ててシンヤの元に駆け寄った。


「シンヤさん、あの人は敵じゃないです。剣を収めてください。無駄な戦闘は避けましょう」

「馬鹿、どこに目つけてんの。アレの後ろ見てみな」


 手短に罵られて、スズネは男性の向こう側に目を済ませた。慌しく足を動かす男性の背後には、馬に乗ってサーベルのようなものを振り回す男の姿があった。追われている男性は時折自分の背後を確認して、それから大きく悲鳴を上げる。

 どう見ても、彼を追いかけまわしている馬に乗った男の方には戦闘の意思があった。見たところ、男性を追っている人数は一人。シンヤは既に戦闘態勢に入っている。そこから察するに、男性を助けるという選択をするのだろう。


「助けて、助けてくださーいっ!」

「あの、こっちに! はやく!」


 スズネが大声を上げれば、男性は視界を覆っていたであろう袋を僅かにずらして、それからその顔に満面の笑みを浮かべた。自分たちが味方であるということを示さなければ、男性はスズネ達のことを新たに現れた敵だと勘違いしてしまうだろう。その誤解を解くのは、武器を抜いている上に元々無愛想な性格のシンヤでは難しいはずだ。

 スズネは大きく手を振って男性の逃げ道を誘導する。それに従って大袋を抱えた男性は、スズネとシンヤの元まで全速力で駆けてきた。馬に乗った男と馬車の間に存在している距離は、目測で二百メートル程度である。


「あの、僕は旅の商人でございまして、現在盗賊に襲われていまして、助けてほしいんです。お願いします! 僕もその馬車に乗せて逃がしてください!」

「そんな情報見れば分かる。大人しく下がってな、ポンコツ商人」


 懇願するように叫んだ男性の言葉を、シンヤは刺々しい声で一蹴した。初対面でも全く躊躇わずに放たれる罵りの言葉に、男性は「え?」と困惑したような声を零していた。

 今のは「危ないから下がっていろ」というのが、最も分かりやすく、適切な意訳になるだろう。ここ数日で、シンヤの言動に含まれた意味の一端を理解できる程度には順応力が育った。

 激しく息切れを起こした男性は、言われるままにシンヤの背後に回る。それを合図に地面を強く蹴りだしたシンヤが、馬を操る追っ手の男の元へと走り出した。


「あ、ああ! あの、彼、彼いっちゃいましたけど!?」

「大丈夫です。あの方強いので」


 動揺を露わにする商人の声に、スズネは硬い声で返答した。それを聞いて尚不安そうな顔をした商人の前で、スズネも震える手で仕込み杖の刃を抜いた。

 シンヤは、恐らくマナを使わずとも十二分に立ち回れるはずだ。けれど、もしものことが無いとは言い切れない。いざというとき、スズネはこの人を、馬車に乗って戦闘に参加できない二人を、守れるだろうか。

 心臓が騒がしい。手元で光る凶器は、シンヤと同じ鋭い光を帯びてスズネのことを静かに見上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る