第7話 緊張の応接間

 リンが案内した先は、石畳の先にあった木造の大きな屋敷だった。

気が遠くなるほど長く、入り組んだ廊下を歩き、屋敷の中にいくつもある部屋の前を通り過ぎ、まだ続くのかと少し辟易したところでリンの歩みが止まった。応接間らしいのだが、客人が来ることなど早々ないことだから、こんなに屋敷の奥の方にあるのだと彼女は語った。


「お疲れなのに沢山歩かせてしまって申し訳ございません」

「い、いえ、滅相もございません!」

「飲み物をお持ちします。ごゆっくりお寛ぎください」


 決して素っ気ない訳ではないが、彼女の声はあまり感情を感じさせない平坦なものだった。彼女が喋ると、スズネは妙な緊張感に見舞われる。思わず大きな反応を返すスズネに対して、リンは微塵も不審そうな顔をせずに、頭を深々と下げてからその場を去っていった。

 広々とした部屋の中央に濃い焦げ茶色の細長いテーブルが設置されており、それを挟んで深緑色の長椅子が二つと、テーブル端の中央に一人掛けの椅子が一つだけ用意されていた。椅子には何れも生茂った草木を思わせるような金の模様があしらわれており、座るだけで贅沢な気持ちになれそうだ。ただ、立派な家具の割に使い込まれた形跡はない。部屋に漂う空気から察するに、この部屋は本当に稀にしか使われないのだろう。


「好きなところに座って」

「は、はい」


 スズネはそんなことを考えながら、ヨルに勧められるままに長椅子に腰掛けた。柔らかい素材がスズネの体を優しく受け止める。一度座ると、立ち上がるのが名残惜しくなってしまう座り心地だった。

 シンヤはスズネの向かい側に座り、コハルは当然といった顔でその隣を陣取る。その距離は二人の親しさを物語るように近い。肩が触れあっている。

 長椅子は詰めれば三人並んで座れそうではあったが、ヨルはスズネの隣に一人分の距離を空けて腰を下ろした。あの二人に遠慮したのか、或いは呆れた故の選択かは、聞けなかった。


「お待たせいたしました」


 リンが五人分の紅茶を持って戻ってくる。彼女は相変わらず表情を変えないまま、嫋やかな動作でお茶を配ると、一人用の椅子に「失礼致します」と腰掛けた。

 彼女の萌黄色の瞳から放たれる視線が、真っ直ぐにスズネを射抜く。スズネが背筋を伸ばすのと同時に、リンは薄っすらと桜桃に色づいた唇を静かに動かした。


「スズネ様は、自分の名前や言語は理解していて、その上で精霊という言葉に聞き覚えがない。……という状況で、よろしいですか?」

「そうです」

「成程。ヨル様、コハル様、シンヤ様と、やはり同じですね」

「……同じ?」

「はい。ヨル様とコハル様は一年前に、シンヤ様は半年前にこの里に来られましたが、御三方、スズネ様と同じ状況に陥っておられました。全ての記憶と、精霊に関する知識が消えていたのです」


 リンの言葉は淡々としていたが、その瞳が僅かに気遣わしげに伏せられた。長い睫毛が照明に照らされながら上下する様子は、息を呑むほど美しい。

 リンは目線をそのままに、ゆっくりと言葉を継いだ。


「精霊というのは、平たく言えば、不思議な力を扱える人間の姿をした生き物、です」

「不思議な力? シンヤさんの、あの水を操るアレですか?」

「そう。あれはマナっていって、精霊だけが使える特別な力。魔法とも言い換えることができるけど、マナの方が一般的かな」

「ヨル様の仰る通りでございます。精霊は神の手により自然界で創られた存在ですので、自然と密接した力――マナを使うことが、神によって赦されています」


 スズネの口からは、はあ、という間の抜けた相槌が零れた。思うよりずっと大きな話で、中々理解が及ばない。

 神といえば、この世界を作ったと言われる創作者の名称だ。この世界で誰よりも偉い人であることは間違いない、という言葉がスズネの頭を巡る。実際に存在しているかどうかといった知識は出てこないが、リンの口ぶりから察するに、本当に存在しているのだろう。

 スズネがあまりパッとした顔をしないのを見て、心情を察したのだろう。斜め向かいに座っていたコハルが、突然笑顔を浮かべて立ち上がる。


「精霊にはね、種類があるんだよ」


 そう言って、彼女は白くて柔らかそうな両手を合わせる。一拍置いた後、その手中からは眩い光が漏れだした。淡い桜色の瞳が光に照らされ、星空のように輝く。彼女の手元から発生した風が部屋の中を渦巻き、コハルの髪の毛を優しく持ち上げる。手から漏れだす光と風の渦の中心に立っているコハルの姿は、酷く幻想的なものに思えた。

 風と光が消滅すると同時に、彼女の手の中から赤く熟れた果実が現れた。林檎、のように見えるそれは、艶やかな美しい皮を持ち、見ているだけで食欲を擽られる。


「例えば、コレ。マナで作った林檎なんだけど、こういうのができるのは樹の精霊だけなの。私とヨルは樹の精霊なんだ」

「それじゃあ、シンヤさんは?」

「シンヤくんは湖の精霊だよ。水を自由自在に操るの、素敵なマナだよね」


 コハルはそういってはにかむと、シンヤに視線をやって、「そうだ!」と無邪気に笑った。


「ねえシンヤくん、あれやって! スズネちゃんに分かりやすい例を見せてあげて!」

「君が言うなら、お望みのままに」


 コハルの提案に、シンヤが即答する。躊躇う素振りも嫌がる素振りも見せない。これがヨルの提案だったら「嫌だよ」と即答していそうなものだが、彼はコハルという精霊にとことん甘いらしい。

 シンヤは黒い手袋に包まれた右手を差し出す。彼の手の平には小さな水の渦が巻き起こり、その中心から小さな影が一つ、勢いよく飛び出してきた。水のサメを作りだしたときと同じ光景である。

 しかし、出てきたのはサメではなかった。見た瞬間に目につくのは、ふっくらとした半球の愛らしい形状である。丸っこくて可愛い身体から細くて短い触手が無数に生えている独特の姿が特徴的だ。スズネは即座に、その生物の名前を思い浮かべる。


「くらげ」

「そう、くらげ! 可愛いよね!」


 思わず口から零れた名称を聞いて、コハルはご満悦といった様子を見せた。シンヤの生み出したくらげは、満面の笑みを浮かべるコハルの周囲をふわふわと漂っている。まるでシンヤ自身の好意が反映されているかのようだ。

 シンヤは「そんな君が可愛いよ」といった顔でコハルを見つめている。コハルの作りだした赤い林檎に密着した水のくらげの姿を横目に、スズネは静かに尋ねた。


「私も精霊なら、マナを使えるってことですか?」

「そうですね」

「……私、何処の精霊、なんですか?」

「それは、マナを確認しないことには何とも」


 お力になれず申し訳ありません、と頭を下げたリンに、スズネは恐縮しながら手と首を横に振る。彼女が悪いことなど何もない。謝られると、逆にこちらが謝りたくなるのだ。寧ろ、ご迷惑をおかけしてすみません、と。

 自分自身に分からないものを他者に聞くなんて間違っている。自分の愚直な質問を恥じるスズネの隣で、ヨルが穏やかに笑いながら呟いた。


「大丈夫、多分すぐに分かるよ。僕達、全員一日くらいでマナを使えるようになったから」

「ほ、本当ですか?」

「うん。ここで疲れを癒したり、色々記憶を探すついでに練習するといいと思う」

「……私、説明を受けても全然マナが使えるって気がしないんですけど、本当に私も精霊ですか?」

「それは間違いないよ。精霊石はキミに反応して光ってたし、僕もキミが精霊だと思う。精霊は互いが精霊だって直感で分かるから、間違いないと思うな」


 そう言われて、スズネは肩を竦める。そういえば、他の三人には何となく「精霊っぽいな」という曖昧な感想を抱くのに、リンにはそれが湧かない。神秘的、不思議な雰囲気はリンが最も秘めていると思うのに、精霊という言葉はしっくり来ない。

 これがヨルの言う精霊の直感なのだろうか? だとしたら、随分と大雑把なものだ。本当に正誤がごた混ぜになっていないか不安になったスズネの目の前を、シンヤのくらげがのんびりと通過していった。


「……マナが使えない精霊は、いますか?」

「いいえ、おりません。皆様、等しく大精霊様から作られた存在ですので」


 マナの感覚がいまいち掴めない。自分にコハルやシンヤのような摩訶不思議な力があるとは到底信じ切れないスズネに、リンは淡々とそう返答した。

 大精霊。ヨルが言っていた、里に結界なるものを張ったらしい存在のことだ。大がつくからには、普通の精霊よりも偉いのだろう。


「神様が大精霊を創って、大精霊が私達を創って、私達が人と共に里を創る。私達はそうやって生きるために創られるから、絶対にマナを持ってるんだって」


 コハルが長椅子に腰を掛けながらそう言った。彼女が手に持っていた赤い林檎は、いつの間にかシンヤが回収した挙句、食べている。しゃくしゃくと瑞々しい音を立てながら咀嚼される林檎は、不思議な力で作ったとは信じられないほどに、普通の林檎に見えた。


「じゃあ、大精霊ってすごく偉いんですね」

「はい。神様のお次に」


 ほう、と呟いたスズネの言葉を、リンが肯定する。その微笑は、大精霊を肯定した故のものだろうか。彼女は大精霊という存在を崇拝しているのか、或いは相当好いているのだろう。それが細やかな動作から伝わってきた。

 隣で、シンヤのくらげがヨルの顔面にべちりと張り付くのが見えた。「んむ」と小さく声を漏らしたヨルは、それを手で退けながら口を開く。


「大精霊は里を収める役目を担ってるんだよ。ここの大精霊は、里を守るために結界を張ってる。アレは、樹の民か樹の精霊しか出入りできないようになってるんだ」

「大精霊の数だけ里があるってことですか?」

「そう。樹の大精霊、花の大精霊、星の大精霊、湖の大精霊。全員里を持ってる。……これはリンから聞いた話だから、僕は実際には見たことないんだけどね」


 でも確かだよ、と補足したヨルは、その指先でくらげを突いて遊んでいた。指先で突かれる度に身体を揺らすくらげの姿はやはり愛らしい。くらげはコハルとヨルの合間を往復していた。


「まあ、偉いって言っても、ろくでなしな大精霊はいるみたいだけどね」


 それを作りだした張本人であるシンヤは、少し顔を顰めて素っ気ない言葉を言い放った。

 彼は何を思い浮かべたのだろう。渋い顔で林檎を齧っている。無論それは、マナでできた林檎の味がよろしくないから、だなんて理由ではないだろう。スズネの鼻孔を擽る甘い香りが、その林檎の味は確かだと保証している。

 シンヤの隣で、コハルが眉尻を下げた。そして、呟く。


「シンヤくんは湖の精霊なのに、湖の民に襲われたんだ」

「そう。自分の精霊を自分の里の人間に襲わせるなんてね」


 シンヤはそう言って、林檎を齧るのを止めた。齧った部分から林檎の甘い蜜が垂れている。

シンヤはその瞳に、冷たい光と確かな憎悪を浮かべて、一際低い声で言葉を捻りだした。


「アイツ等は俺だけじゃなくてコハルやヨルも襲う。それが何より赦せない。くだらない盗賊連中と一緒の外道だ」


 彼が湖の精霊だということは、水を自由自在に扱うマナを見れば一目瞭然な事実だ。けれども、スズネはその事実を疑いたい衝動に駆られていた。

 シンヤの中に存在する憎悪や怒りと言った感情はあまりにも純度が高く、激しく燃え盛っている。轟々と音を立てながら炎上するそれを感じ取ると、炎とは正反対の性質を持つ水を扱うとは、到底思えない。

 シンヤはそれっきり黙り込むと、再び林檎を齧りだした。その場に落ちた沈黙の中に、瑞々しい咀嚼音だけが浮かんでいた。

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