第85話 やさしくなった

 春、

 桜の木に囲まれたカフェテラスに、サクラはいた。


 あの日から8か月が過ぎた。東京の街はかつての姿を取り戻している。


 いや、かつての姿ではない。なんだか、災害の前よりも元気な街に見える。


 街行く人を眺めながら、チラッと時計に目を送る。

「もうそろそろかな」


 少しお腹が目立ち始めたサクラは、ゆったりサイズのワンピースで、友人を待っていた。

 

「サクちゃーーーーん!!!」

 女性の大きな声。


「あ! クマちゃーーーん!!」

 サクラも負けじと大きな声で手を振り返す。


 春の陽気が心地よいカフェテラスの、せっかくの雰囲気をぶち壊すような大きな声。少し前の東京なら、周囲の客がイヤな視線を向けてくるであろうこのシーンだったが、今日はそんなことはなかった。


 周りを見渡す熊田さん。

「なんか、みんな優しくなったよね」


「うん」

「お腹、ちょっと目立ってきたね」

「うん!」


 今日は、この夏に刊行予定の新たな書籍の打合せだった。


 熊田さんの手には、少し大きめの封筒。

「奥様、先生の本の表紙案をお持ちしましたよ」


「やだあ、何それ」

「ええーー、だって先生だしぃ」

「似合わないでしょー」


 熊田さんは、すっと封筒をさし出した。 

「そう? じゃあ九門さんでいいや。あ、でもサクちゃんもいまは九門さんか。じゃあ何て呼べばいいの?」


 サクラは封筒を受け取った。

「うーん、大地君でいいんじゃない?」


「でもサクちゃん、アタシが大地君って言うとちょっと嫌な顔するもん」

「ええーー、しないよーーー」

「ああー、自分で気づいてないんだ」

「しないもん」

「ふふふ」


 九門大地は、熊田さんたち編集者から「先生」と呼ばれるようになっていた。


 鬼面ライターの正体は、世間には依然として秘密のままだが、彼女たちだけはその正体を知っている。1年の休職後、大きな迷惑をかけたと九門がお詫びに行った際に告白していたのだ。


 みんな大きな驚きとともにその告白を聞いたが、数名は「やっぱり」と言った。そのうちのひとりは、熊田さんだった。


 いま、編集部のメンバーと九門は、同じ会社に勤める同僚でありながら、編集者と作家の間柄でもあるという、ちょっと奇妙な関係に。


 九門の処女作「書籍版 異世界バスケ」は爆発的な売上を記録し、昨年度のベストセラーとなった。


 そして今夏、2作目となる書籍が世に放たれる。当然ながら、編集部チームの気合いは相当なものとなっている。


「絶対に大ヒットさせるんだから」

「うん、頑張って」


「でも、ホントに凄い人だよねえ、九門さんって」

「そんなことないよ」 

「いいなあ、サクちゃんは」

「ん?」

「ふふふ、アタシもいい人見つけなきゃ」

「うん」


 そして熊田さんは、口をとんがらせた。

「でも、せっかく表紙の見本が出来たのに、バスケの練習があるから今日は時間がないって……。優先順位がよく分からないわ」


 サクラは笑った。

「ふふふ、それが大地君じゃけん」


「あ、岡山弁」

「あ」


 ふたりは、また笑った。


「中、見てもいい?」

「うん、いいよ」


 ベストセラー作家・九門大地の2作目は、ひとりの編集者がラノベを書き始め、そして最後に世界を救うというストーリー。知る人が見れば自叙伝のようにも見えるフィクション作品である。


 同作品のタイトルは、サクラが考え、熊田さんが採用したそうだ。


 九門は「恥ずかしい」と何度も反対したが、最終的には熊田さんが寄り切ったらしい。


 封筒を開け、表紙見本を眺めるサクラ。

「わぁ~、私が撮った写真だあ」


 表紙には、九門がキーボードを叩く背中の画。サクラがいつぞやこっそり撮った写真だった。


「サクちゃんがいつも眺めていた背中なんだよね」

「うん」

「いい表紙でしょ?」

「うん!」


 

「あ、桜…」

 熊田さんが手のひらを上に向けた。


「わぁ」 

 サクラも同じように手を広げた。 



 桜の花びらが1枚、表紙見本の上に落ちてきた。

 

 サクラがそれをさっと払う。


 そこにはこんなタイトルが書かれていた。



「僕のラノベは世界を救う」


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