後編 川

 いつの間にか太陽が昇り切り、辺りはすっかり明るくなった。森の中では蝉の合唱が響き、地上を覆う恐ろしい熱が私の腐敗した身体を更に腐らせる。このままでは、私は目的を果たす前に原形をとどめなくなり、密林に骨を転がし、地面に泥を広げるだけの骸となるだろう。

 一日中森の中を歩き回っても風景に変化はない。ただ同じような茶色い木と、青い葉と、黒い泥が広がっている。お蔭様で私の靴下は擦り切れ、穴が空き、変色した足がところどころに見え始めた。

 蝉の歌に混じって水の音が聞こえた。水を必要とする身体ではないが、音の方向へ足が向いた。私は生前、泳ぐことが好きだった。小さな頃から得意で、両親や先生からよく褒められた。思い出に惹かれるように、記憶に誘われるように進んだ。

 川があった。美しい透明の水が流れる浅い川。対岸まで歩いても膝までしか濡れないであろう深さ。視界の果てから視界の果てまで伸びている。川辺の砂利の道を歩いて川を覗き込むと、可愛い魚達が元気に泳ぐ姿と、悍ましい私の姿が写った。


「酷い」


 母が羨ましいと言った黒い髪は血に塗れ、幼い頃父に撫でられた頭は変形し、友達が綺麗と言ってくれた身体は穴だらけ、血を制服に吸い取られた身体は真っ白だ。


「まだ途中だよ」


 声。高くも低くもなく、大きくも小さくもない声。私は視線を前方へ向ける。川の対岸にある大きな木にもたれ、三角座りをしている骨が声の主だった。


「僕の経験ではこれからもっと酷くなる」


 骨に言われてしまえば納得するしかない。ただ、その前に確認しておくべきことがある。


「あなたは誰?」


 私の問いに、骨は両腕を仰々しく上げた。


「僕は君の先輩さ。君の将来の姿さ」


 骨は立ち上がり、頼りない足取りで歩き、川の水面に自分を映した。


「面白いだろう。この姿になれば誰も見分けがつかない。僕は君の知り合いかもしれないし、面識のない人間かもしれない。僕は人の行く末さ」


 奇妙な言い回しをする骨である。しかし、私は骨の言うことにさほど興味がなかった。私には時間がない。身体が彼のように朽ちる前に、まだ私が私だと認識できる間に復讐を果たす。見知らぬ骨ではなく私が復讐したのだと知らしめるのだ。


「ねぇ、この森を出たいのだけれど」


 私の言葉に骨は首を横に振った。成る程、人の身体とはこのようにして曲がるのかと勉強になる。その知識を生かす場はもう永遠にないけれど。


「無理さ」


 骨は言った。私は直ぐに


「なんでよ」


 と返した。


「君は終わったんだ。御覧」


 骨は私を指さした。白い指先を追って、私は自分の身体を眺める。


「わかってる! でも、許せないの!」


 私は両手の拳を握って叫んだ。わかってる。私は死んだ。左胸に手を当てても心臓の音は聞こえないし、呼吸もしていない。ついでにお腹の中は空っぽだし、脳みそだって文字通り致命的に歪んでいる。私はもう家族に会えない。学校にも行けない。恋もできず、結婚もできず、子供もできない。


「死だ」


 骨は心底残念そうに溜め息を吐いた。


「君は腐り、僕と同じ骨になって、ただ転がるだけの存在になる。悔しいだろうけれど、それが現実なのさ」


 そんな理不尽なことが許されるの?


「許されてしまうのさ」


 諦めよう、と骨は言った。

 私は膝を折り、砂利の上に寝転んだ。私の腐敗した身体に小石がめり込む。反発する力さえ失った身体は太陽の光を浴びて更に酷くなる。

 骨は私を説得し終えると再び元の位置に戻り、私と同じ体勢をとった。私は笑った。笑いながら呟いた。


「あなた、なんなの?」


 骨は私の問いに答えることなく動かなくなった。

 それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。私はとても長い間、ただ空を眺めていた。太陽が世界を照らし、青い空に白い雲が流れる。そのうち沈み、月の光が灰色の雲を映し出す。時には曇天が空を覆い、激しい雨が降った。増水した川が私の身体を流しても、私は抵抗することなく流された。

 自分の身体の行方も、形も知らず、時が過ぎるのを感じ続けた。

 そうして、起きているのか、眠っているのかも判別できない状態を過ごし続けて、ある時、声が聞こえた。今までどんな音が聞こえても反応する気にもならなかった私が、その時だけは意識を向けた。久しぶりに自分の意志で音の鳴る方向へ顔を向けると、腐敗する身体で歩き回った懐かしいあの日と同じ光景があった。壮大な森があって、美しい川があって、その対岸に男が立っていた。どこかで見覚えのある男だった。


「息子はどこだ」


 男は振り絞るような声で呟いた。独り言だった。森の中で砂利の地面に膝をついて苦しそうに嘆いている。ああ、あなたには子供ができたのか。私は起き上がり、いつかの骨の格好を真似た。木にもたれ、三角座りをした。


「子供を探しているの?」


 私が声を掛けると男は驚いて顔を上げた。男の顔は私が最期に見た頃から随分と老けていたが大きくは変わらなかった。男は外見上、傷を負っているようには見えなかったが死んだのだろうと予測できた。


「そうです! 俺の息子がいるはずなんです!」


 男は必死に、最後の望みを繋ぐように私へ語り掛けた。私は骨の腕を伸ばして川の果てを指さした。


「子供は向こうにいるよ」


 男の瞳が輝いた。私は忠告する。


「子供を思うなら諦めちゃ駄目。子供は向こうにいるから。果てであなたを待っているから。進み続けなさい」


 男は私に感謝して、私が指示した方向へと進み始めた。

 私は子供が森にいないことを知っていた。彼は私の言葉を信じて、脚が腐り、身体を失い、骨となり、塵と化しても歩き続けるだろう。私は彼を知っていた。彼は欲しいものを手に入れるためなら人の命だって奪うのだ。

 私が顔を横に向けると骨が転がっていた。骨は両腕を広げて地面に寝転がり、空を見上げていた。あの時の骨だと私は理解した。


「ほら、空が綺麗だよ」


 骨が言うから、私も寝転がって空を見上げた。誰でもなくなった私達。世界の一部に溶け込んだ私。


「本当に綺麗」


 そして、再び時間に身を任せるのだ。


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骸の御返し 森川月日 @radio08

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