変わらないこと(4)
ちょうどスープが完成した時に、七海が学校から帰宅した。いつもと変わらない様子で、「お母さん、ただいまー。おやつあるー?」と元気な声で。
美穂は、スーパーでスナック菓子をいくつか買っていた。「いつもの棚にあるわよ」というと、七海はごそごそと棚を探り始め、ポテトチップスの袋を取り出し、ボリボリと食べ始めた。
本当に、何も変わらない様子だった。美穂は、なるべく深刻にならないように切り出した。
「そういえば、宿泊学習の出欠表だけどさ、お母さん間違えて欠席に丸つけちゃってた?行っちゃダメって意味じゃないからね」
お菓子の咀嚼音が、小さくなった気がした。七海は、飲み込んだ後、答えた。
「うん、でも、もう出しちゃったし。別にいいよ」
また袋から新しいポテトチップスを口に入れる。ボリボリと音が聞こえた。
「大丈夫よ。先生から連絡があってね、出席って伝えておいたからね」
七海の手が止まった。
美穂の方を振り返り、泣きそうな顔で言った。
「なんで勝手なことするの?」
美穂は、状況がつかめず、「どうしたの?」と聞いた。
「私、宿泊学習なんて行きたくない」
「どうして?何か嫌なことでもあるの?」
「だって、ボランティアなんてしたくないし」
「学校の行事の一環でしょ。そんなに本気でやらないわよ。摩耶ちゃんとお泊まり会と思えばいいのよ。ね?」
摩耶ちゃんは、七海の親友だ。家が近所で、入学式からずっと仲がいい。
「嫌なものは嫌!お母さん、先生に言って断って。私は絶対に行かないから」
部屋にこもろうとする七海を、美穂は慌てて追いかけた。
「七海、どうしたの?ボランティアの何がそんなに嫌なの?お母さん、先生に言ってあげるから。七海がやらないで済むようにするから」
ドア越しに七海に声をかける。中から返事はない。
「入るわよ?」
やはり、返事はない。
美穂は、そっとドアを開けた。
七海は、ドアに背を向けて、勉強机に向かっていた。
「七海?」
美穂は、七海に近づいた。
そして、息を飲んだ。
七海は、声を押し殺して泣いていた。
机の上には、『裏切り者』と書かれたノートが置いてあった。
「何、これ?」
「お母さん、私、もう学校に行きたくないよ」
七海は美穂に抱きつくと、嗚咽まじりにこの二週間で起きた出来事を話した。
きっかけは、七海の受験だった。サンクチュア女子中学は高校までエスカレートに上がれる名門女子中学校で、美穂もかつては生徒だった。七海に受験の話をしたら、快諾してくれた。暖司にも相談して、七海の受験は決定していた。
学校に去年卒業した中学生が遊びにきて、中学生活について友達と話を聞き、帰り道摩耶ちゃんと中学校の話になった。
なんの部活に入る?中学校って勉強大変なんだね。ななちゃんと同じクラスがいいなあ。
無邪気に話す摩耶ちゃんに七海は胸が痛くなって、中学受験の話をした。摩耶ちゃんなら応援してくれると思った。
しかし、摩耶ちゃんは驚いた顔をしたあと、「そんなのひどいよ。私ななちゃんしか友達いないのに。裏切り者」と相当に怒った。七海が何度謝っても聞く耳を持たず、散々に避難した。
そのまま摩耶ちゃんと別れた。七海にとっての地獄はここから始まった。
翌日、朝からいつもの待ち合わせ場所に行っても摩耶ちゃんはいなかった。七海は、摩耶ちゃんの家に行ったら、もう学校に行ったことを摩耶ちゃんのお母さんに伝えられ、まだ怒っているのだと悟った。会ったらまた謝ろうと決心して学校へ向かった。
教室に着くと、摩耶ちゃんは、別の友達のところにいた。四、五人で集まって盛り上がっている。七海は、摩耶ちゃんに近づいて、話しかけようとした。
その時、摩耶ちゃんと一緒にいた友達から「よく話しかけられるね」と言われた。摩耶ちゃんは、七海の方を見ようとせず、周りの友達の七海を見る目は、敵意そのものだった。
七海は、怖くて何も言えず、その場を逃げるように去った。背後で笑い声がした。
七海は、一人ぼっちになった。摩耶ちゃんは、七海が受験することを一緒の中学校に行って同じ部活に入ろうねと約束したことを自分に何の相談もなく破ったと、七海を悪者のように話すことで、周りを味方につけた。
その仲間はずれが、いまでも続いているのだという。
「私、どうすればいいのかわからなかったの。何度否定しても、誰も信じてくれない」
七海は、しばらく美穂に抱きついたまま泣き続けた。
美穂からすると、摩耶ちゃんは、いままで七海について回るような子だった。少しぽっちゃりとした体型で、大人しく、自己主張をあまりしない子という印象だった。
七海は、反対に、活発で、クラスの友達と溶け込むのも早かった。でも、摩耶ちゃんを一番の友達と思う気持ちは変わらないようで、いまでも摩耶ちゃんとの話をすることが多かった。
美穂は、ただただ、七海の頭を撫でてあげることしかできなかった。
「いま七海は?」
暖司が心配そうな声で訊く。
「泣き疲れて寝てるわ」
そうか、と暖司は思いつめた顔をする。
「それで、私考えたの」美穂は、ティッシュで涙と鼻を拭いた。「やっぱり、家族でベトナムに行くのがいいかも」
暖司が虚をつかれたような顔をする。
「どうかしら?」暖司が迷っているのがわかった。美穂は、追い打ちをかける。
七海の話を聞いて、美穂は、一刻も早くこの地区から去らなければ、と思った。嫌な環境から距離を置くのは逃げたわけでも恥ずかしいことでもない。中学受験まであと一年以上ある。いつ終わるかもわからないいじめに七海が耐える必要はないと思った。
暖司は、なかなか返事をしなかった。考えを固めているように見えた。
「君の気持ちはわかったよ。七海を転校させたいという思いもね。僕は、できれば七海にはそんないじめっ子に負けずに学校に通い続けてもらいたいと思っている。社会に出たら、どんなに嫌な奴とでも人間関係を築かなければならない。でも、七海はまだ小学生で、大きな傷を負わせてしまうのはかわいそうだ。しかし、ここでベトナムに行くのは、違う気がするんだ。七海が受験に前向きだとは僕も知らなかったんだ」
「じゃあ、どうするっていうの?せっかくベトナムに家族で行こうって私が提案しているのに」
「まあ、落ち着けよ」
「なんだって、落ち着いてられると思うの?あなたの考えが全く見えないわ」
暖司は、困ったなあ、って顔をして、小さく息を吸うと息を吐くように言った。
「家を買おうと思っているんだ」
「は?」
美穂は、暖司の顔にクギ付けになった。暖司は、話を続けた。
「これは、いま七海の話を聞く前から考えていたことなんだ。実は、ベトナムに行ったあと、また東京に戻ってこられる保証はどこにもないんだ。だから、東京に家を買って拠点を作った方が、僕は単身赴任としてどこへ行っても会社から交通費が支給されるから、東京に帰りやすい。それに、その方法をとれば、君は東京で働けるだろ?」
暖司は、美穂の言ったことをきちんと考えてくれていた。
「ありがとう。意地を張ってしまってごめんなさい」
暖司は、「僕の方こそ、ごめん」と優しく微笑んだ。
冷戦が終わった。
喧嘩の終わりは、いつも驚くほどあっけない。
暖司は、「でもね」と話の続きをする。
「いい家を見つけたんだけど、七海には少し我慢してもらわなければならないんだ。北千住に新しく建つマンションで、来年の五月に建つ予定でね。七海がいじめにあっていることは知らなかったから、来年でもいいと思ったが、君はどう思う?」
「新しいマンションを買うのは賛成よ。どうしても、転校するのは不可能なのかしら?引越し先の近くの小学校に通えるなら、早くから行っていた方が七海も馴染めると思うの」
「そうだね」暖司は何度か反芻するように頷いた。「引越し以外での転校が可能か調べてみるよ。北千住なら、この家からでも十分に通えるしね」
美穂は、調べごとが苦手だった。スマホを持ってはいるが、検索ツールはもちろん、LINEと電話とアラーム以外の機能を使用することは滅多になかった。だから、暖司に任せることにした。
「それと、一度その北千住のマンションを見に行かないか?今週末からモデルルームが始まるみたいなんだ」
「いいわね。七海には私から話をしておくわ」
暖司は「よろしく」と言って、すっかり冷めたはずのスープを飲み干した。
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