後編 鈍感でも
「よし、これぐらいかな。ちょっと離れてて」
旭が下がったのを見て、由美はオーブンを開けた。りんごの匂いがカウンター中に広がった。
「アップルパイ。いろいろ考えたけどこれが一番かなって」
「すっごく美味しそう! 早く食べたい」
「ふふっ、どうぞ召し上がれ」
由美はウエスタンドアを開けて、旭の隣の椅子に腰を下ろした。手にはフォークとナイフを持っていた。小皿に切り分けて、旭の前に差し出した。
「はい、召し上がれ」
「いただきます」
旭は両手を合わせて、フォークを手にして口に運んだ。由美はこの様子を見ているだけでも満足していた。
「……おいしい。めちゃめちゃおいしい!」
「ほんとに?」
「本当だよ。食べてみてよ」
旭はもう一切れ小皿に取り、フォークとともに由美に渡した。
「え……」
「どうしたの? 早く食べないと冷めちゃうよ?」
「……私は別に、気にしなくはないんだけどね。その……」
由美はフォークの先を指さした。
さすがに察しの悪い旭も、これには気づいた。
「あ」
でも、由美は自分が気づいたときから、やることは決めていた。
「はむっ」
「ああ、え、ええ!?」
「……おいしい」
「……」
妙な空気が流れた。急激に顔がカーッとなった由美は、
「……今のは見なかったことにして」
と顔の下の方を覆いながら言った。
「え、そんなこと言われても」
「いい?」
「は、はい……」
由美の潤んだな目に、旭は頷くしかなかった
「じゃあこれ、食べきって。小さいサイズなんだから、食べられるでしょ?」
「え、でもそれ……」
旭はフォークを指してもごもご言った。
「私もやったんだから……男子なんだからこういうときぐらい男らしくしなさいよ……」
由美は恥ずかしそうに顔をそらした。旭は戸惑いながらも覚悟を決め、
「……はむっ」
思い切ってフォークを口に運んだ。
***
そしてすぐに皿は空っぽになった。
「ごちそうさまでした」
「……お粗末様でした」
「きょ、今日はありがとう。それじゃ」
「そうじゃないでしょ……」
「え、ご、ごめん」
「悪気がないってことはわかってた。でも、ね……私じゃなかったら勘違いされたり、離れていっちゃうよ?」
「気をつけます……」
「でも、ねぇ。こんなことされちゃったら……」
「ど、どうか命だけは」
おどおどする旭を、由美は面白がりつつも、胸の奥がキュっとしめられるような思いで見ていた。
「そんなことしないよ……じゃあ、営業時間中でも、休みの日でもいいから、これからもここに来て、たまに話そ。君が常連客になってくれたらいい。それが条件」
「それだけでいいの? 僕しか得してないけど」
「いいの」
それに私は話せるだけで得してるんだから。
由美はその言葉をのみこんだ。
「おいしかったよ。ありがとう」
旭ははにかんだ。
「……ありがとう」
由美はうつむいて言った。胸がどんどんしめられて、苦しい。由美には、彼が自分にとってどういう存在なのかがはっきりしていなかった。はっきりさせたい気持ちはあったけど、友達という言葉で片づけていいものではないことだけわかっていた。
「じゃあ、また明日」
「うん……」
「……花田さん? え、どうしたの?」
由美は思わず涙を流していた。
(あれ、なんで私泣いているんだろ……)
旭はどうしたらいいのか本当にわからなくなってしまった。
(やっぱり、俺は誰ともかかわらないほうがいいのかな。きっと海音もこんなふうに傷つけてしまう日がいつか来ちゃうのかな……)
「倉田くんは何も悪くない……泣いちゃう私が悪いから、もう帰って」
由美は精一杯の笑顔を作ろうとしてそう言った。でも自分の顔がそうなっていないと思うと、由美はうつむくしかなかった。
「……」
「もういいから早く……えっ」
旭は由美の背中に手を回した。
「え、ちょっ、ちょっと倉田くん?」
「泣き止むまで、ずっとこうしとく。聞いたことがあるんだ。泣いている人は、ハグしたら落ち着くって。悲しさが和らいで、安らかな気持ちになるって。だから、落ち着いて」
「……君はどうして優しいのかな。どうしてこんなに歩調が合うんだろうね。会ってから長い時を過ごしたこともなくて、ちゃんと話すようになってから、まだ二十四時間も経ってないのに、どうして誰よりも落ち着けるんだろう」
由美は、心の中にせき止めた言葉を一気に外に出すしかなかった。
「こんなに感情を誰かに向けるのは初めてだけど、それが花田さんでよかったと思う」
「そっか。じゃあもう泣き止んだから離してくれる?」
由美は旭から顔をそらして、水の中からやっとの思いで出てきたかのように深呼吸した。そして、顔を赤くしながら、彼と向き合って笑った。
「え、あ、本当だ」
旭は近くに寄せた笑顔を見て安心し、由美を離した。
「……ありがと」
「汗だくだけど、大丈夫?」
「汗っかきだから。だめだった?」
「いいや、そんなのは関係ないよ」
二人の間には、アップルパイより甘く、コーヒーより深い空気が流れていた。
喫茶「花田屋」へようこそ! 時津彼方 @g2-kurupan
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