第78話 平塚監督の指導結果

 5月のゴールデンウィーク、飛び石連休の最終日。いつもの訓練の午前の部を終えた1年部員が昼食を終えて、山崎と俺の前に整列している。そんな1年生を前に、山崎が涼しげな笑顔で語り出した。


「おめでとう、諸君。君達は弘高野球部員として、必要な力を身に付けた」


 微動だにせず、山崎の声を聞く1年生部員。足腰の強化とともに身に付けたバランス感覚、そして空気を読む能力。この合宿によって身につけられた能力のすべてを駆使した、見事な整列である。


「どんなスポーツ、あるいは武術であろうとも。まず最初に必要とされるのは『腕力』そして『体力』。まず力ありき、という所から始まる。そしてその力の許す限りの技術を身に付ける。基本的にはこの繰り返しを行い、最終的には技を使うために力を適切に使い、力を十全に発揮するための技を操る事となる。そして近代のスポーツ訓練において見落とされがちになるのが、『力を伸ばし、発揮するための精神力』というもの。これは力を、技を身に付けるための根幹となるもの。根性だとか、ガッツだとか言うものも、これに含まれる」


 山崎の訓話のような言葉を、不動の直立で聞く1年生達。


「諸君らは、心が弱かった。紅白試合での固い体の動き、視線の一つに至るまで、その一つ一つが如実に物語っていた。諸君らは技術の不足以前に、自分の体と心を支配下に置き、自由に扱えるだけの精神力が無かった」


 新入部員歓迎会での試合内容を思い出したのか、わずかに顔を強張らせる1年生。それぞれに思い当たるところがあるのだろう。


「普段の練習での技術を5割も発揮できれば、充分に心の強い選手だと言う指揮官もいる。諸君らは技術力が低い。他校の野球部に推薦やスカウトで入った中学野球の実力者と比べれば、はるかに下の実力だろう。だが、そんな『実力者』出身の選手であっても、高校野球、とりわけ夏の甲子園への切符がかかった試合では、心理的な重圧によって普段の実力は出しづらいものだ。監督やトレーナーが『選手のメンタルに問題があった』などとコメントする事も、しばしば見受けられる。だが、肉体を鍛えるのと同様に、精神を鍛える訓練を行っている所は少ない。精神力が重要だと言うにも関わらず、すべては選手任せにしている事がほとんどだ……しかし、諸君らは違う」


 整列する1年を、ゆっくり見渡す山崎。


「諸君らには、不足している体力、筋力、技術力を補完するとともに、精神力を鍛えるための訓練を施した。……肉体を鍛える速度には、生理的、物理的な限界がある。だが、精神力を鍛える速度に限っては、肉体のそれを上回る。状況と素質次第では、一夜で格段の成長を見せる事も可能だ。……そして諸君らは、この連休中の特訓によって、以前とは比べ物にならない強靭な精神力を身に付けた。もう、以前のように観衆の視線に恐怖を感じる事はないだろう。もう、以前のように、バッターボックスに立っただけで体が硬直する事もないだろう。もう、以前のように、打球に足がすくむ事もないだろう。もう――――試合を楽しむ余裕がない、などという事はないはずだ!!」


 山崎は一際声を張り上げ、後ろ手に組んでいた手を大きく広げた。


「私は諸君らに聞いた!!『野球は好きか?』……と!!諸君らは答えた!!『好きだ!!』と、そう答えた!!そう、野球は楽しい!!我々はただ『好きだから』『楽しいから』こそ野球をしたいと思ったのだ!!その根源こそが、最も尊く大きな力だ!!我々は高校野球を楽しむために、ここに生きている!!けして怯え、怖れるためではない!!ボールを追いかけ、走り、投げ、受け止め、バットで打ち、必死に塁へと走りこむ!!結果だけではなく、その行為一つ一つに喜びを感じるからこそ、グラブを、バットを手にしてグラウンドに立つのだ!!」


 山崎の声を聞く毎に、1年生の体に気力が満ちていくのを感じる。


「野球を楽しもう!!得点をリードする高揚感は格別だ!!野球はどんな時も楽しい!!大量点差をひっくり返し、逆転するのは人生のドラマだ!!試合をするのは楽しい!!勝とうと負けようと、仲間との連帯感を高める、何よりも充実した空間だ!!トーナメントを勝ち進むのは楽しい!!勝てば勝つだけ、今までに見たことも無いライバルが目の前に現れてくれる――!!つまらない心理的重圧で体を縛られるな!!心も、体も!!すべては自分のものだ!!野球のプレーに下らない悔いなど残すな!!――諸君らは体力の限界という感覚を知った。本当に全力を出すという感覚を知った。今までの人生では知らなかった、本物を学んだのだ!!全力で野球をプレイし、その全てを楽しめ!!連続する『今この瞬間』……それを楽しむ者こそが、もっとも強く、豊かに、人生を生きる者なのだ!!諸君らは今日この時より、本物の高校球児となった!!さあ、ともに楽しもう!!二度とない高校野球の人生を!!」

『『『うおおおおおおおお―――――――!!!!』』』


 振り上げた山崎の拳に続き、1年生の拳と歓声が天へと突き上げられた。皆の大きな歓声が澄んだ山の空気を震わせ、木々の葉がざわめく。今ここに、新1年の新兵訓練は終わりを迎え、新たな山崎軍団が産声を上げたのだ――――


 ――俺はというと、何とか1年生の皆に遅れないように「おおー」と声を出すので精一杯だった。毎度毎度思うのだが、ここぞという時の山崎のアジテーション演説はどうかしていると思う。空気感というかテンポというか、何かよくわからない波に乗せられて、声を向けられている人間は何故か不思議にテンションを上げてしまうのだ……こいつ、本当に新興宗教とかそういうのを起業したりしないよな?ネオ野球教団とか、おっぱい教団とか。いや後者なら俺も少し入団?入信?を考えなくもないけど。

 ともかく特訓を終えた1年生集団と俺達訓練教官は、迎えに来た平塚先生のマイクロバスに乗り、久しぶりの野球部専用グラウンドへと戻ったのだった。いよいよもって、この連休合宿も終わりという事である。ごく普通の日常生活への復帰だ。



※※※※※※※※※※※※※※※


 ほぼ10日ぶりに、野球部専用グラウンドへと入る。

 連休初日からこの最終日まで、このグラウンドを使用していたのは2年と3年のみだったので……もっとも俺と山崎の2人は1年生の教導官だったので1年生と同じ状況だが……何だか久しぶり、という感覚だ。


「さあ、久しぶりのグラウンドよ。どんな感じかな?」

 山崎が整列する1年生に問いかける。


「……新鮮です」「何だか、とっても、明るく見えます……」

「美しい……」「野球の世界……」「野球場の空気……」

「胸がいっぱいです」「泣きそうです」「すばらしい……」

「世界はこんなにも、美しかったんですね……」「一つ、悟りを得ました」


 1年部員それぞれが、感無量、という言葉を口にしていた。


 晩には文明圏である学校敷地内に戻り、食事を摂って眠ってはいたものの、野球部員としての訓練は、ネットも整備されたグラウンドも何もない、山間の自然空間での体力トレーニングと基礎練習のみが続いていた生活……そして久しぶりに野球というものを身近に感じられる場所に戻ってきた事で、ようやく『俺達は野球部員なんだ』という事を再確認できたのかも知れない。

 野球の世界はこんなにも、理性と文明の香りに満ちているのだ、と。猛り狂った野生動物が襲撃してきたり、それを棍棒で殴り殺せる野人の縄張り争いが発生するような、野蛮な空間ではない。紳士的なルールに守られた、競技スポーツを行うための、文明的かつ理性的な空間。知性と情熱によって整備された、計算された競技場。それが我々の立っている、野球場という場所なのだと。


「野球に感謝を。グラウンドに、野球場に感謝を。ありがとうございます」

「「「ありがとうございます!!」」」


 山崎に続き、1年生が大きな声で感謝の言葉を口にする。


「このグラウンドも、備品のボールの1個1個にいたるまで、我々の活動を応援してくれている弘前高校野球部ファンの皆様方の支援の賜物。その一つ一つに感謝を。ありがとうございます」

「「「ありがとうございます!!」」」


 感謝の言葉がグラウンドに響く。


「あたし達は幸せよ。辛いことなんて無い。練習はキツいけど楽しい!!キツいと感じる度に強くなるんだもの!!そして、どんなピンチも人生劇場のクライマックスシーン!!さあ、あたし達のドラマが始まるわ!!ありがとう野球!!」

「「ありがとう!!」」「「ありがとう!!」」「「ありがとう!!」」


 だいぶ教育が浸透しているなあ。


「さぁーて。合宿の仕上げに、紅白戦といきますか――!!」

「「「やったぁ――――!!」」」


 大きな歓声を上げる新生山崎軍団を後に、俺は紅白戦のチーム分け等を打ち合わせすべく、松野キャプテンと平塚監督の所へと向かった。『この合宿でずいぶん変わったけどアイツら大丈夫なの?』とか小さな声で聞かれたりもしたが、それについては事務作業のやり取りで気づかないフリを決め込んだ。肉体的には健康そのもののはずだし、精神が健常なのかどうかは、主観によって決まるものだろうからコメントする事はできない。できないのだ。

 まあいずれにせよ。精神的な重圧に負けず試合で野球を楽しめる精神を身に付けたというのなら、それはとても良い事なのだろう。弘前高校野球部のスタイルは、楽しく野球をする事、なのだから。彼らは弘高野球部員らしくなった。ただ、それだけ。


 そして新入部員歓迎会の日と同じく先輩後輩の混合チームでチーム分けをすると、俺達は合宿最終日を飾る紅白試合を始めた。



※※※※※※※※※※※※※※※


 合宿を締めくくる紅白戦。それは、新入部員歓迎会の時のそれとは、大きく違ったものになっていた。皆が声を出し、互いに声を掛け合い、柔軟に身体を動かし、全力でプレーをする。打撃が、走塁がうまくいった時は大いに喜び歓声を上げ、全身で喜びを表現する。プレーがうまくいかなかった時は悔しがりながらも次こそは、と気合いを入れる。うまくいった時もいかなかった時も互いに指摘を入れ、上級生からの指導を受ける。

 1年生の誰もが、プレーひとつに落ち込んだり、フェンス外からの視線に萎縮したり、歓声や野次に身体を固くする事はなく。全力で野球をプレーして、今ここで野球ができる事に喜びを感じていた。そして観客もそんな1年生の変化を感じ取ったのか、試合終盤になる頃には、どんなプレーにも応援の声が送られ、声援が上がるようになっていた。

 選手も観客も、皆が野球を楽しむ空間。そんな楽しく優しい平和な世界。そんな世界が、この弘前高校野球部専用グラウンドに出来上がっていたのだ。


 ――ただ、一部の観客は平和で楽しくとはいかなかった。それはもちろん、定期偵察を行っている他校の情報収集担当の野球部員である。


「1年の動きが明らかに違うぞ……」

「動きから固さが消えた。精神的な余裕があるな……」

「外野の奴の返球速度は?」

「少しだけ速くなってる。けど、問題は走力の方だ」

「塁に出た奴の全員が、塁間走力が上がってる」

「公式の平均速度は出てる。もっと速い奴もいたぞ」

「相当に下半身を鍛えてきたな。反射神経も良くなってるのか?」

「キャッチと送球時のエラーがゼロになってるだろ!!そこが問題だ」

「打撃は大したこと無いだろ」

「いや、当てるだけなら上手くなってる」

「あれだけ走れりゃバントの特訓させるだけでも使えるぞ」

「走塁と犠打の担当か?誰が入りそうだ?」

「あのデカい女子かなり足速くなかったか?何秒出してた?」

「トータルで見れば、守備力重視の強化か……」

「点を取るのは2、3年に任せても問題ないからな」

「1年をカモにするのは難しくなってきたかな」

「先頭打者なら、まだカモれる。守備はバックアップ次第か」

「夏までに連携がどこまで上手くなるかだが。どいつが入るんだ?」

「1年のデータも順次更新していかねーとな……」


 紅白戦の後、複数の偵察集団がフェンス外で団子状になって情報交換会みたいなものを行っていた。弘前高校は観客に関するレギュレーションとか暗黙の了解みたいなものも無いから(今までの実績が無いためだ)偵察部隊という名の観客も、ほぼやりたい放題である。作業と通行の邪魔にならなければ、特に咎めるような事もしないからだ。学校のメイン敷地外に専用グラウンドが存在するという事も理由なのだろうが。


 どのみち、弘高野球部は県下では特級の要注意ライバルチームに認定されているのだし、偵察に関してはお互い様な所があるので仕方が無い。しかし、何やら『弘高包囲網』的なグループ形成がされつつあるような雰囲気は……いかがなものか。明星とかの他の強豪高も、こんな感じなのだろうか。


※※※※※※※※※※※※※※※


『1年部員の動きが随分と良くなっていましたが、何か特別な練習を?』

「試合でリラックスできるような、メンタルトレーニングを少々」

『メンタルトレーニングですか!!それはどんな?!』

「個人指導もありますので、あまり簡単には……」

『ざっくりとで構いませんよ!!少しだけでも!!』

「先輩からの技術指導とともに、心構えなどをですね。指導員には人望もありますし」

『KYコンビですね……技術面もかなり上がっているように見えましたが』

「基礎技術の徹底を。これも指導員の二人から直接学んでいます。他は体力強化を」

『体力強化には、どんなトレーニングを?』

「丘の斜面を利用したジョギングのようなものです。森が近い環境でしたから、森林浴による代謝能力の上昇も、若干ですが見込めたかもしれません」

『『『ほおおおおおお』』』


 いつものように、平塚先生が嘘をつかず適当に(適切に)取材記者の対応をしていた。去年からこちら、いちばんメンタルが強化されたのは平塚先生のような気がしなくもない。もはやどんな突発インタビューでも笑顔で応対できる強さを身に着けていると思える。


『二人とも調子は良さそうだね。1年生の成長具合はどう?』

「素直に真面目に練習を頑張っています。どんどん技術は上がっています」

「練習意欲があるのが一番です。次は連携の訓練を積ませたいですね」

 もちろん俺たちも取材に対して、外面のいいコメントを返していた。


『今回の合宿で、いちばん心に残った事は?』

「皆で食べた、お鍋ですね!!お肉おいしかったです!!」

「また食べたいですね」

 タダで猪肉を腹いっぱい食える機会はそうそう無いからなあ。


 今回の合宿における1年生の課題は、メンタルの強化と体力の強化。どちらが主目的なのかは良くわからない内容の訓練ではあったが、野球部最強のメンタル強度を持つ山崎によって鍛えられた1年生の精神力は、他の一般的な公立高校の2、3年生の比ではないだろう。他校との練習試合を実際にしてみないと分からないが、少しくらい殺気立った程度の私学であれば、互角には渡り合えると思う。

 野球を純粋に、気楽に楽しめる事の幸福さ、そこから生まれる強さを本当の意味で知る事になるのは、まだこれからの事かもしれない。しかし、彼らは確実に強くなった。そしてこれからもまた、一つ一つ強くなっていく。そうあって欲しいと思う。そう思いながら後片付けと整備を行っている、1年生を見る。


「へへー」「ふへへー」

 整備の手を止めて、観客の方に手を振っている1年を見つけた。中島と……田辺か。


「さっそく緩んでるなぁ。勘違いは早めに矯正しておくか」

 シメとこう、と小さくつぶやく山崎。


 日々これ修行である。そして一つ一つ悟りを得るものだ。少なくとも俺は幼少の頃からそれらを学び悟ってきた。油断大敵、とりあえず彼らにはそれを知ってもらおう。慢心と油断は日常から生まれている、という事を。


「ミーティング少し長めだから、仕事はキッチリ、素早くね!!」

「「「はいっっ!!!!」」」


 この後、練習が終わった後の【先輩から伝える事】という趣旨のミーティングは、1時間ほどかかった。ちなみにマネージャー3人は監督が車で送迎するため先に帰ったので、選手のみのミーティングだった。

 ――翌日から1年のみならず、2年3年も一層真面目に練習に取り組むようになった。その様子を見た取材記者は、それぞれに平塚監督の指導術を褒めちぎり、弘前高校はやはり甲子園出場の有力候補だという内容の記事を上げる事になるのだが。前日のミーティングで何が語られたのか、知る者は誰もいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る