第77話 折れない程度に叩いて伸ばす

「さて、1年の皆さん。少しは体力もついてきたわね?」

「「「はいっ!!!!」」」

 笑顔で声をかける山崎に、整列した1年生から、元気の良い返事が返ってくる。


「今日から合宿の始まりです。皆さんには、この合宿中で弘高野球部として『大切なもの』を身に付けていただきます」

「「「はいっ!!!!」」」

 またも良い返事が返ってきた。そんな1年生部員を前に、山崎は「うふふ」と笑いながら、先程にも増して可愛らしい笑顔を見せる。


「では、あなた達に足りないもの、それは何だと思いますか?答えは一つじゃないので、思いついたものを答えてみてください。では、清水さん」

「……野球の技術と、体力だと思います」

 山崎に指名されて清水さんは、少しだけ迷ったようだったが、元気良く答える。


「そうね。それは足りないわね。君はどう思う?芹沢くん」

「……技術と、筋力でしょうか」

 ふんふん、と頷く山崎。


「そうね。それも足りないわね。では君はどう思う?一休さん」

「……やはり技術と、身体能力ではないでしょうか」

 安藤くんにだけアダ名で呼びかける山崎。答えを聞いて、ふーん。と、少しだけ唸って。山崎はこう言った。


「全部正解よ。でも、もっと重要なものが足りない。薄いものがある」

「「「………………」」」

 次の言葉を待つ1年生を見回すと、山崎はこう言った。


「――どんな時でも、野球を楽しめる【精神力】ね。言い換えれば、【野球をプレイできる事に対する感謝の気持ち】とか【神経の図太さ】と言えるもの。まあ、不屈の根性とか、底抜けなお気楽さ、みたいなものでもいいんだけど。とにかく、あなた達はメンタルが弱い。とてもとても弱い」

「「「………………!!!!」」」

 大部分の1年生部員が、図星を突かれたように体を強張らせる。山崎は続けた。


「技術だけを鍛えても、あなた達が夏の地区大会までに、他校の優秀選手と同等の技術力を身に付ける事は難しいというか、まず無理。あなた達は中学野球ではレギュラー選抜にも引っかからないような連中がほとんど。技術はもちろん上がるわよ?でも、どれだけ効率よく鍛えられても、他の学校で下地ありきで必死に頑張っている連中には追いつかない。少なくとも、初戦までには到底無理。……でも、実力差をもう少しだけ縮める方法がある。それが、メンタルを鍛えるという事。なぜだか解るかな?ではもう一度、一休さん」

「……試合で発揮できる力が上がる……という事でしょうか」

 安藤の答えを聞いて、うんうん、と頷く山崎。


「そうよ。どんな選手であれ、試合となれば緊張や置かれた状況などの精神的な影響から、練習時であれば発揮できる力よりも、発揮できる力が落ちるもの。これが名門校の2年生、3年生とかの、場数を踏んだ人間、大舞台を経験した人間になればなるほど、練習時の実力に近くなる。発揮できる力は練習で培ったものだけなんだけど、それを発揮できなければ宝の持ち腐れよね?逆に、実力が少々低くても、練習で得た力を十全に発揮できれば、発揮できない人間との実力差は小さくなる。君達にはね、重圧を受けた時に自信となって自分を支える支柱、のようなもの……中学時代の実績も、他の全てを代償にして積み重ねてきたような、血反吐を吐くような努力も、何も無いから心が弱いんだと思う。あたしは君達の過去を知らないけれど、君達が平和な生活を送ってきた普通の一般人レベルの苦痛しか知らない、という事だけは分かるわ」

「「「………………」」」

 そろそろ危険なワードが混ざってきたが、それに気づいた人間は何人いるのか。


「こういっちゃ何だけど、ウチの県下の高校野球レベルは、全国屈指という程じゃないわ。強い高校もあるにはあるけれど、鉄拳制裁ありきの前時代的な軍隊教育みたいな学校は、まあ、今はもう殆ど残ってないんじゃないかな。先輩後輩の上下関係だけはハッキリしていると思うけど。……だから、君達にはこの合宿中で、『いつもよりちょっと厳しい』『肉体的な限界を本当にギリギリまで攻める訓練』を行ってもらうわ。それにより、普段の生活、ならびに『紳士的であれ』という事を前提としたルールで固められた野球というスポーツを楽しむという喜び、周りの環境への感謝の気持ちを、本当の意味で実感できるようになって欲しいの。それができれば、君達の試合での実力は、今よりも格段に上がる。今回の合宿は、技術と体力の向上もあるけれど、精神力の強化が主目的よ」

「「「…………」」」

 気持ち顔を強張らせる1年生。と、一休さんこと安藤が、スッと手を挙げる。


「はい、一休さん。質問かな?いいわよ」

「はい。この環境は、その『精神修養』のためのもの、でしょうか」


 安藤が言うのは、現在の我々……『1年生と教育係の2名だけ』が置かれている立地条件の事だろう。早朝から平塚先生の運転するミニバスに乗せられて移動した、山あいの奥にある、人気の無いキャンプ場のような場所。春先からは利用する者のいない、地元民が冬場に使うだけの小さなスキー場。近辺には民家の一つも無いところだ。叫び声を上げても、誰も助けには来ない。


「そうよぉ」

「食料と飲料を置いて、監督が帰ってしまったのも、そのためでしょうか」

 監督は我々を置いて帰ってしまっている。食料と飲料、雑事をこなすための土木工具や雑貨だけを残して。


「心配しなくても、夕方には帰ってきてくれるわ。夕食と宿泊は学校だから」

「それまでは何があっても帰れない、という事ですね」

 こくりと頷く山崎。


「合宿の参加は、ここに参加している皆の『本人の意思』によって確認されているわね?ちゃんと書面にも残してもらったけど?今更やめるとか言わないわよね?」

「……了解しています」

 逃げられない環境に連れてこられた、という事実に。何人かの咽がゴクリと鳴った。

「ああ、【訓練】を始める前に、ちょっと見て欲しいものがあるのよ」

 山崎は自身の背後に立てられている、人の身長ほどの高さの杭を振り向く。


 俺は無言で山崎に近づくと、手にしていた、竹刀ほどの太さの真っ直ぐな、椿の木の枝を手渡した。乾燥されておらず、水分を含んだ椿の丸棒。脂分と水分が多い椿の丸木は、粘りが強く簡単には折れない頑丈さがある。その丸棒を独特の構え――『蜻蛉の構え』と呼ばれる八双の構え、正確に言うと去年の甲子園で見せた薬丸ではなく、東郷流の蜻蛉の構えを取り、山崎は大きく息を吸い込んだ。


『キィィィエエエエエエエアァァァアアア―――――――――ッ!!!!!!!』


 叫び声とともに打ち出される左右の袈裟切りの連打が、杭の両面を交互に打ち据える。高さからすれば、人の側頭部か鎖骨の辺りか。目にも留まらぬ勢い、というのはこの事かという速度の――およそ素人には反応不可能な高速連打が、吸い込んだ息が吐き出されきるまでの間に何十発も浴びせられる。猿叫と呼ばれるような聞き取り困難な気合いの声は本来は薬丸のものだが、コイツの剣術は色々と混ざっている謎技術だ。細かい事を気にしても意味は無い。問題なのは実力だからだ。

 連打が終わり、山崎が肩で息をつきながら振り返った時。左右のほとんど同じ場所へと渾身の打撃を浴びせられた杭の左右の打撃面からは、白い煙が上がっていた。もちろん手に持った椿の丸棒からも。打撃部分はどちらもすっかり皮が削り取られて無くなっている。


「「「――――――」」」

 目を剥き、声もなく直立する1年生部員。


「――もちろん、こんな事を練習させる訳じゃないから、そこは安心してね」

 額に汗を浮かべつつ、笑顔を見せる山崎。もちろん1年生からのリアクションは無い。


「でもさ」

 口元だけは笑顔のままで。山崎の目だけが光った。ように感じた。


「ちょっとくらい訓練がキツイからって、逃げようとするような事はしないよね?ああ、ちなみにそこの北島先輩も、似たような事はできるから」


 1年生の視線がいくつか、チラリと俺に向けられる。明らかに恐怖が混じった視線だ。

 いや、俺はここまでの戦闘能力は無いよ?あと、山崎ほど怖い先輩でもないからね?あえて口には出さないけど。もちろん口に出さないのは、余計な事を口にしたら最後、俺がどうなるか分からないからだけど。


「もう一つ。これからあなた達は【限界を知る訓練】をしてもらいますが、けっして死ぬような事はさせません。肉体の能力を超えたような事を強要して、潰すような事はしない。最低限の運動能力は身に付けさせたし、健康管理もしているし、前日から今朝までの食事内容、水分摂取量などの数字も大よそ把握しています。――――なので、あたしが【やれ】と命じた事は、必ずできるので【絶対に実行】しなさい。あなた達の肉体能力は、あたしが一番理解しています。弱音を吐くのは一切無駄と心得るように」

「「「………………」」」

 顔を強張らせ、体を硬直させて直立する1年生。


『――返事ィ!!!!』

「「「は、はいぃっ!!!!」」」

 山崎の声に一瞬遅れて、勢いよく返事を返す1年集団。


『よし、それでは坂道登攀走!!上の平らになっている所まで走って上れ!!』

「「「はいいいっっっ!!!!」」」

 丈の低い青草の生えるスキー場を駆け上り始める。


『手を抜かず走れ走れ!!蹴り飛ばすぞ!!ケツを二つ三つ割られたいか!!』

「「「ひいぃ――――」」」

 山崎が1年を追い始める。俺も続いた。


 こうして、後に【新兵訓練】という通り名で呼ばれる事になる、新入部員の体力・精神力強化訓練は始まったのだった。……いちおう夜には文明社会に帰してもらえるし、鉄拳制裁的な事はしない、はずだから。軍事教練とは違うと思う……のだが……。

 脱走の機会は初日の夜だぞ、お前ら。その期を逃したら、おそらくは逃げる余裕も、精神力も残されてはいないはずだ。最後まで頑張るか、最初にドロップアウトするかの二択。色々な意味で頑張れよ…………



※※※※※※※※※※※※※※※


『『『――いただきます!!』』』

「「「……いただき……ます……」」」

 部員全員が揃って、夕食を取る。


 1年生は少し元気が無いが、事前に山崎から『食事を取らないと明日は死ぬわよ』と言われており、規定量は必ず食べるように言われているため、ゆっくりではあるが食べ始め……胃腸が落ち着いてきた頃には、飢えた餓鬼のように食事を口に詰め込み始めた。配膳を手伝っているマネージャーが引く程度には。

 いちおう食事前にはシャワーを浴びているので、食事が終わればもう寝るだけである。本当は自由時間が設定されているのだが、馬鹿話や遊びに割くだけの余力が残っている者はほとんど居ないだろう。布団を敷いて潜り込むだけの力しか残っていない者ばかりだ。ようやく訪れた、安息の時。そして、脱走して逃げるのであれば最後のチャンス。


「入るわよ――」

 そんな時。男子部屋に山崎が入ってきた。


「「「ひっっ」」」

 反射的に身構える1年生。そしてコイツ何をやってきたんだ、という目で山崎と俺を見る2年3年の仲間。やめろそんな目で見るな、と言いたい。


「安藤くんと、芹沢くん。ちょっと来なさい」

「「「…………」」」

 何をされるのか、と戦々恐々とする2人。そして、こいつら何をしたんだ、という目で2人を見る残り7人の1年男子。


「はい、ここ。うつ伏せになって寝て」

「……はい」

 いちばん端っこの布団の上に、一休さんこと安藤が寝る。


「動いちゃダメよ。あと力を抜いてね」

 そう言うと、山崎は安藤の背中に馬乗りに乗った。


「……ふっ?!」

 安藤がほんの少しだけ声を出す。


「「「………………!!」」」

 男子一同が息を呑む中、山崎は安藤の首筋から順に、掌と指を使って圧をかけ、筋肉を揉みこんでいった。マッサージだ。


「先輩方もよく見ておいてね。マッサージのやり方。あんまり力を入れちゃダメだから。軽くやるだけでも効果はあるからねー。あと揉み過ぎると痛めるから絶対に力任せにしないように。軽く振動を与えるようなつもりで。踏んだりするのは素人は危険だから絶対にやらないように」


 そう言いながら、背中と腕に軽く圧をかけて振動を与え、上半身を一通り終えると今度は自分の向きを前後逆にして安藤の足を曲げ、両腕で挟んでゆっくりと曲げ、背中の筋を柔らかく伸ばした後、掌で順に振動を与えていく。


「どうだった?痛くなかったと思うんだけど。あ、そのまま寝てていいからね」

「……大変……結構で、ございました」

 うつ伏せのままの安藤が、はふぅ、とか息をつきながら答える。山崎が掛け布団を安藤にかけてやる。


「ハイ次、芹沢くん、隣の布団に寝なさい」

「はっ、ひゃい!!」

 うつ伏せに寝る芹沢。腰のあたりに乗る山崎。「ふひゅっ」とか言いつつ軽く悶える芹沢。


「痛かったら言うのよ。暴れないように」

「ふひゃい」

 その後、指圧や掌圧での振動に合わせて、ひゃう、ほへぇ、はあああ、とか時々言う芹沢に対し、ちょっと君、肩の柔軟性が足りないなぁ、とか言いつつ全身のマッサージを終える山崎。


「さてと」

「「「…………!!」」」

 芹沢から立ち上がり、掛け布団をかけた山崎が、他の面々に向き直る。


「あとは悟の指導で、他の1年もマッサージしておいて下さい」

「「「………………!!!!」」」

 山崎は部屋を出て行った。


 ――次の瞬間、ざざぁ、という音を立て、まるで這いずり寄る高速ゾンビのようにして、1年男子が安藤と芹沢の周りに集まる。確か疲労困憊してロクに動けない筈じゃなかったかな、こいつ等。


「おい待て起きろ安藤」「ちょっと感想を聞かせろよ」

「どんな感じだったんだよ芹沢」「ずるいぞ」

「柔らかかったの?固かったの?」「寝てんじゃねえよ」

「おしえてよぉおお」「おっぱい当たってなかった?」

 口々に質問のようなものを浴びせる1年生達。


「――そうそう。……って、何やってんの」

「「「ひゃぁ――」」」

 不意に山崎が戻ってきて戸を開け、驚く1年生。


「なに女子みたいな悲鳴を。1年は恋バナとかしないでマッサージ受けたら寝なさい。睡眠を充分に取らないと、筋肉の修復はできないわよ」

「――あ、寝たままですみません。山崎先輩。質問をよろしいでしょうか」

 安藤が顔だけを横に向け、山崎に質問しようとしている。


「何かしら?」

「私達2人をマッサージの見本に選んだのは、体格的な理由でしょうか?」


 山崎は即座に答える。


「違うわ。あなた達2人は今日の訓練で、本当に限界近い攻めができてたからね。あたしがちゃんとマッサージしないと、疲れが取れないと判断しただけよ。あとは筋や関節の確認も兼ねてたわね。残りの連中はそこまででもなかったから、簡単でいいでしょ」

「得心いたしました。有難う御座います」


 じゃあ、あたしは清水さんの面倒見るから。先輩達も早く寝てくださいねー、と言うと、山崎は再び部屋を出て行き――少し待っても、もう戻っては来なかった。


「……そんな……」「いちばん疲れていた、から……?」

「……体を限界まで追い込んだ、ご褒美か……?!」

 愕然とした声を出す、何人かの後輩達。呆然とする連中に、現実を教えてやる事にする。


「ほれ、ボーッとしてないで、順にうつ伏せになって寝ろ。俺達がマッサージをしてやる」

「わああああん」「山崎先輩がいいよぉ」「あんまりだああ」

 泣き言を言う1年生を皆で引きずり、あるいは吊り上げて布団に転がし、有無を言わせずにマッサージをしていく。


「せめて……芹沢、安藤!!どんな感じだったか、教えてくれよぉぉ」

 俺が背中の筋を伸ばしてやっていると、中島が何か言っていた。往生際の悪い奴だ。


「……ふふっ」「意味の無い事です」

 2人から余裕のような、笑いを含んだ声が聞こえる。なにぃぃ、と言う声が中島から。こいつ山崎の言う通り、まだまだ精神的な余裕があるな。


「俺にはそんな表現力は無いよ」

「仏の教えの奥義を説明するようなものです。南無」

 おう、さすが一休。達磨大師の逸話かな。


「まあ一言で言えば、山崎先輩は私生活はズボラかも?って事かな」

「確かに。自分の能力に自信があるためか、隙があるというか、無頓着というか」

 然り然り。と、同じ修行を経て悟りを得たかのような会話をする2人。


「ど、どおいう事なんだ芹沢!!安藤!!」

「ふふふ」「ふふふふ」

 中島の声に、笑い声だけで答えない2人。


「――お前は観察力が足りないな、中島」

 2人に代わって、俺が答える。


「あいつ体操着の下は『薄手のシャツだけ』だったぞ」

「――――!!」


 そういう所、隙だらけというか、無頓着だからな。面倒臭がりというか。まあ足のマッサージとかをしている時は体を密着させたりしていたから、色々と当たったんだろう。あとは単に尻の圧力が筋肉痛に効いて気持ちよかったとか。別段羨ましくないぞ。ほんとだぞ。

 その後、何かとぐずりがちな中島にサービスの足ツボマッサージを追加してやって悶絶させると、俺達は早く寝た。昨日までの練習とのギャップのため、余裕が無かったという事もある。なお、2年3年の部員は、ごく普通に専用グラウンドで練習をしていた。取材記者達には、1年生の行方は適当に監督が誤魔化していたという。



※※※※※※※※※※※※※※※


『手抜きをした奴は尻を蹴り上げるぞ!!走れ走れ!!』

「「「うおおおおおお!!!!」」」

 1年生が全力で坂を駆け上っていく。


『ゆっくりと、負荷をかけてやるように!!早すぎる奴は追加だ!!』

「「「――しっ!!――しっ!!」」」

 1年生が教えられた体勢とタイミングで、腕立てをする。


『おらあああ走れ走れ走れ!!あと2周したら給水させてやる!!いけぇ!!』

「「「がはあああああああ」」」

 山崎が追い倒し、倒れる限界まで坂道登攀ダッシュを繰り返す。


 筋肉を順番に使い、疲労の様子を見て全身をローテーションで鍛える。筋力を使い切ったら、給水と栄養補給、休憩の後にキャッチボールや軽い素振りとティーバッティング、動体視力訓練などの器用さを上げるための訓練を少しだけ行う。そしてまた追いまくる。

 根性だけを身に付けさせるための、理不尽なだけの訓練はしない。無意識に手心を加えようとする甘さを削り、今の限界を出し尽くさせるために追う。実際、給水も軽食も適度にさせており、回復は適度に行っている。ただ、それを延々と続けるだけなのだ。


 無尽蔵なのではないか、と思える山崎の体力で倒れるまで追われるのは、肉体的な負荷はもちろんの事、精神的な負荷も相当なものがあると思うが。それでも1年生は必死で体を追い込んでいる。気力を振り絞り、文字通り倒れるまで体を使う。

 それでも1年生のやる気は程ほどに維持されている。山崎への怖れもあるだろうが、2日目の夜に芹沢と中島が山崎マッサージの対象となり、マッサージのサービスが初日だけではないと知った事は、多少関係していると思う。山崎は小さな声で「ちょろい」とか言っていたような気がするが。


 なお、清水さんは山崎のマッサージを連日受けているそうで、男子連中から「ずるい」と言われていたが。清水さんに言わせると、それは自分が毎日限界まで体を酷使しているのだから、おかしい事ではない。との事だった。ぎぎぎ、という歯軋りの音が1年男子の何人かから聞こえたのは気のせいではないだろう。まだ半分くらいは山崎マッサージを未経験だからな。


 いくらキツイ訓練でも、本当に死を実感するところまで追われる訳でもない、と知れば空気も少し緩んでくる。だが、合宿3日目の夕方に猪が出てきて騒ぎになり、その猪を山崎が棒と石で殴り殺した挙句、近くの湧き水で冷やしながら肉に変えた事により、再び引き締まった空気に戻った。まあ、返り血で斑に練習着を染めた姿とか見れば汗も凍る思いだっただろうよ。あれは本当に怖い。

 その後、山崎は返り血を沢の水で洗い、練習着が乾くまでの間は下着の透ける薄手の上下で過ごしていた。だが、エロい視線を山崎に向ける1年は一人もいなかった。下手な視線を向ければ血塗れの棒が振り下ろされるのではないか――という恐怖感があったのだろうか。


 それでも就寝前にマッサージを受けた奴は、「やっぱイイわぁ」とか言ってた。ちょろい。あと、猪肉の味噌煮は普通においしかった。また出ないかな。


※※※※※※※※※※※※※※※


 訓練開始後、4日目の朝。


「今日から坂道登攀走は、これをつけて行ってもらいます」

「「「………………」」」

 山崎が手に持っているのは、顔への密着性が高い、防塵性の高いマスク。どこかで見た事があるな、こういう訓練。酸素摂取量が減る状態を意図的に作り出し、心肺機能を向上させるための訓練。高地訓練とか、そういうやつだ。


「順次、これをつけて行うトレーニングを増やします」

「「「………………」」」

 無言で立つ1年生。


「ちゃんと管理してあげるわ。限界まで追い込んで少しずつ体力を増やし、増えただけの負荷を与えて、さらに上の段階へ押し上げてあげる。楽にはさせない。うれしいでしょ?」

「「「ありがとうございます!!!!」」」

 ちゃんと返事ができるようになってきた。山崎軍団の配下となりつつある。


 そしてトレーニングは続いた。徐々に負荷を増やし、背後から追う迫力を増しながら。


『返事ィ!!』

「「「はいっ!!!!」」」

 大きな声で、勢い良く返事をすべし。


『苦しくなどない!!こんなものは、寮生活の野球奴隷連中に比べれば、生温く幸せな訓練だ!!貴様らの幸福に感謝をし、体が動かなくなるまで動かせ!!感謝しろ!!』

「「「ありがとう、ございます!!!!」」」

 常に教官には感謝の念を抱くべし。


『足が動く間は限界じゃない!!地面を舐めてからがスタートだ!!走れぇ!!』

「「「はいっ!!!!」」」

 もうダメだ、と思えるうちはまだ余裕がある。それを自覚すべし。


『貴様らはもう初日の貴様らではない!!甘えた考えは捨てろ!!』

「「「はいっ!!!!」」」

 少しずつ増える負荷は成長の喜び。負荷が増える事は喜びである。


『何をサボってる!!立ち木になりたい奴は前に出ろ!!』

「「「ひぃ――――っ!!!!」」」

 教官が椿の枝を手にしたらキレる直前である。猪にされるぞ。とにかく走れ。


 文明から完全に隔絶される事なく、栄養と疲労を管理され、特訓の非日常を日中に味わい、平穏の日常を夜に取り戻し、わずかな飴で気力を繋ぎながら、鞭に追われる生活を続け。何が日常なのか良く分からない状態のまま――1年生は、合宿の日々を続けた。


※※※※※※※※※※※※※※※


 山崎に言わせると、1年生への訓練は充分に手加減されたものなのだ、という。本物の軍隊であれば本当に死ぬような思いをさせられる、らしいし。ただ、それをやると身体能力の向上に失敗して痩せてしまったりする事もあり、短期間の納期で体を作るのには向いていないのだとか。目に見える暴力を見せつつも、実際には暴力を振るわない精神的重圧の掛け方も、昨今の一部のスポーツ強豪校のやり方を参考にしただけで、別段おかしい事はしていない、などとのたまっていた。

 だからといって、イザとなれば簡単に人を殺せる実力の剣術を見せたり、その力を振るって野生の猪を屠殺する現場を見せて『来るときが来れば躊躇しない人間だ』という事を教えてしまっている以上、圧のかかり方は半端な暴力系先輩の比ではないと思うが。


 しかし、それでもこれだけは言える。


 ウチにイジメはありません。皆が仲良くやっています。あと、先輩は気分にムラがあるけど優しいです。本当です。道具の管理も整備も皆でやるし、疲れた時にはマッサージだってしてくれます。だから大丈夫です。何も問題ありません。訴えられるような事は何もしていないのです。同意を最初に確認してあるしね。


「大丈夫よ。連中の精神はだいぶ矯正したし。心は強くなってるから」

「俺の心を読むな」


 ウチの鬼軍曹は、教育能力だけではない。戦闘能力、野球能力に関しても遥かに格上の生物である。その事実を思い知らせ、従わせて訓練をこなす事によって、彼らの心は確実に強くなった。この訓練によって、彼らには心の支柱、寄る辺となる自信がひとつ、生まれたはずだ。


【 どんな強豪校にも、山崎先輩だけは居ない 】

 ――と。


 野生の猪を棒切れと石ころで殴り殺す先輩に、殺気を込めて追い回される事を思えば、多少の重圧など、大した事ではないはず――そう、心に刻まれたはずだ。

 いつか彼らが、何かの重圧で心が折れそうになった時、その事を思い出してもらえればいいんじゃないかな、これはきっといい話だ。などと。そう、無理やりに思う事にした俺だった。

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