第55話 最大のピンチ

「しかし、あっちの監督って何歳だっけ?瞬間判断能力がヤバいだろ」

「9回のは危なかったよねぇ。あれができると名将って呼ばれるのかな」

「何?あの『動くな!』ってやつ?あれ何だったの?」

 延長10回の攻撃の準備をしつつ、山崎と俺が話していると、この回のトップバッターの松野先輩が聞いてきた。確かに、分かりにくい状況だったかもな。事後じゃないと。


「俺がボールを転がした時、ピッチャーがダッシュしても良さそうな位置だったのに、向こうの監督が『キャッチャー行け!』とか指示出したらしいんですよ」

「うん?それで?」

 松野先輩が首を傾げる。ベンチの皆も意味がよく分かっていないようだった。どうやらあの場面での『罠』に、気づいたのは山崎だけで、現状で理解しているのも俺と山崎だけのようだ。給水ドリンクを受け取りつつ、俺は説明する。


「ありゃ、サッカーでいうところの『オフサイドトラップ』に近い罠、ですかね?」

「は?どういう事?」

 ドリンクを一気にあおってから、俺は続けた。


「確かにキャッチャーが捕球して、タッチに行った方が距離的には近かったかもしれません。ですが、山崎の走力がありすぎて、間に合わせるのは難しかった。そのため、倒れている俺を利用して山崎をアウトにしようとしたんですよ」

「――いや、意味がよく分からん」

 つまりですねぇ、と。新しいドリンクをもらってから続ける。


「俺は倒れていて、周囲の状況がよく分かりませんでした」

「うんうん」

「打者は打ったからには、すぐ走って1塁に行こうとします」

「そりゃそうだ」

「1塁に向かうライン上に、『スリーフットレーン』て、あるでしょ?」

「ああ、『1塁へ走る時に、走るレーン』な」

 そうそう。1塁線のファールゾーン側に引いてある細い枠ですよ。


「あれ基本的に『守備妨害をしないための走行位置』の枠ですよね」

「うんそれは知ってる。キャッチャーの送球とかを妨害しないためのもんだな」

 その通り。その原則的な部分が問題なんですよ。


「ピッチャーの投球から、キャッチャーの捕球までは、『打撃優先』なので、打者の打撃行為を妨害する行為に厳しい取り決めがあります。ですが、打撃成立直後からは、『守備優先』になります。スリーフットレーンの走行は、基本的にフェアゾーンの捕球や送球を妨害しないためにあって、ファールゾーンのキャッチ等を守備側が行っている場合、野手を避けてスリーフットレーンの内側を走ったりしなくてはなりません。要は『守備を妨害しない事』が守られていればいいんです」

「ああうん。そうだよな」

 ふんふん、と頷く皆。


「ではもしも、ボールをキャッチしようとしていたキャッチャー、もしくはタッチのためにホームへ戻ろうとしていたキャッチャーに、俺が飛び出して接触していたら?」

「「「――守備、妨害」」」

 そういう事なのよねぇ、と。山崎がドリンクを飲みながら言う。


「あの時、悟はどこに誰が立っているか分からない状態にあった。ボールは運が良くも悪くも、1塁線に近い場所だったから、うっかりだろうが何だろうが、起き上がるなり走って、キャッチャーに接触、もしくはその守備行動ラインを妨害しようものなら、即座に守備妨害が成立していたわ。打撃直後の姿勢は打者の責任じゃないけど、あの時点では起き上がって走り出すだけで広義の守備妨害の成立も可能性が高かった。あくまで偶然だけど、アウトを取るのには絶妙な状況だった、というわけよ」


「ちなみに、俺がやったのはスクイズに該当しますから、この場合の守備妨害は『3塁走者への守備妨害』が適用されます。ルール上、アウトになるのは俺ではなく、3塁走者である山崎という事になり、得点が成立しません。解釈によって3塁走者がアウトにならない可能性もありますが、最低でもランナーの差し戻しは発生しますね」

 ここまで話したところで、皆のリアクションが止まった。俺と山崎がドリンクを飲む、ゴクゴクという音だけが響く。


「ええと……つまり、向こうの、東郷監督、だっけ?……そこまで瞬時に判断して、キャッチャーに捕球指示を出したと?タッチが間に合わないと見て、守備妨害トラップでスクイズ走者の山崎をアウトにする事を目論んだという事?」

 松野先輩が、1塁の関東総合ベンチをチラ見しながら言った。


「位置関係から判断した、という可能性があります」

「ウチの平塚先生もあのレベルになれるかなぁー」

「無理無理無理無理むり」

 俺と山崎の言葉に、マスコミ的には名将とか人格者とか言われている、我等が顧問監督教師が高速で首を横に振っていた。でも先生、きっと数学教師だから計算能力スゲーとか、絶対に言われてますよ。きっと。


「なにあの監督こわい」「つよい」

「あっちの監督、野球コンピューターでも脳内にあるのか」

「脳内ニューロンに野球専門回路があっても不思議ではないな」

「で、走りながら同様の判断ができる山崎って何なの」

「コイツも脳内野球回路とか持ってるんじゃねーのか」

 弘高野球部員の言葉に、やだー、褒められちゃったー、でへへ、と笑う山崎。ああうん、確かに褒められてはいるんだけど。何か方向性が違いませんかねえ。


「ともかく、もうちょい頑張ろうか。ここからは1点を取った方が勝つ。そして……向こうには悪いけど、持久戦なら、ウチに有利。ちょっと粘れば、ウチの粘り勝ちはありうる」

「どんな論拠?根拠?」

「そりゃあもちろん、迂闊に勝負できない打者2名の存在よ!あっちの切り札はもう封じたも同然!早けりゃ11回までには勝負がつくはずだし、でなきゃ13回で沈んでもらうわ!!」

 1点を争う同点状態での延長戦で、ホームランバッター2名が近い打順で入る弘高が有利と言いたいわけか。……普通に点を取れる可能性もある。そして打ち取られた場合でも、11回にはまた山崎から打順が回る可能性がある。そして……延長13回からは、無死1、2塁から開始されるタイブレークが発生する。


「……なるほど。それで8番9番の打撃が鍵になると」

「そーいう事よ」

 えー?と、古市先輩と前田が声を上げる。まだ分かってないのかな。


「10回は6番から開始だから別に古市先輩に限りませんけど、誰か1人でも出塁すれば、11回に山崎から開始できるでしょ?9回みたいな嫌がらせじみた戦法が使えます。で、状況にもよりますけど、13回は山崎から開始か、その直前から打順が回る可能性がある。特に13回のタイブレークで誰か1人でも出塁して、満塁になって山崎に打順が回れば……」

「……押し出しか、勝負かの選択を迫れると」「嫌過ぎるな」

 そういう事ですよ。俺は付け加える。


「山崎から開始しても、満塁で俺に回りますよ」

「「嫌がらせか」」

 ルールだから仕方ないじゃん。文句は高野連と夏の暑さとか、その他諸々に言って欲しい。あと、わざと出塁させて打順の調整とかを試みようものなら、下手すりゃその時点で勝負が決まる。どれを取ってもリスキーだ。粘るだけウチが有利になる根拠だな。

 関東総合としては、あと3回のうちに最低でも1点、勝つためには2点を入れないと、非常に困った状態になる……可能性が高い。あくまで可能性の話だから断言はできないが。もちろん、ウチの抑えのエースピッチャーがバンバン打たれて得点されればこんな計算は成り立たないわけだが。


「キャプテン……あと1回か2回流したら、全力で押し切りますよ。ふひひ」

「……お、おう」

 山崎が山田キャプテンに死刑宣告のような言葉を掛けている。獲物が射程圏内に入って眼光が野獣の如き鋭さを帯びてきた我等がチームの暴れん坊を、関東総合の打線が打ち砕けるようなイメージが全く沸かない。

 山崎は基本的に能力が高い選手である事は間違いないが、その本質は気分屋だ。いい気分でノリまくったり、感情が高ぶった時の方が集中力が増す。そして現在、山崎が一番危険な状態になりつつあると、俺は感じている。簡単に言えばヒャッハー状態だ。


「この延長戦は、実質的に投手戦。さあ、見せてやるぞ。最強の敵を」

 ふははははは。などと笑う山崎。初戦に続いて、魔王降臨みたいな事を言ってやがる。


 このままいけば、確かに詰め将棋のような展開になる可能性が高い。さて、本当にそうなるのか。そしてそうなった場合、最後に関東総合の選ぶ選択肢とは、どのようなものか。俺は当事者の一員でありながら、傍観者のような気分で1塁ベンチを眺め見たのだった。


※※※※※※※※※※※※※※※


 1塁側、関東総合ベンチにて。

 東郷監督は腕を組んだまま、3塁側ベンチを見ていた。


 ――――山崎は並の選手ではない。それどころか、選手以上の視野を持っている。スクイズの走者なぞホームベース以外は見ていないのが普通なのに、あの状況で守備妨害を取られる危険性を、打撃走者に注意する余裕があった。あれはただの選手という枠を超えた、まるで――――


「……選手監督。か。あっちには監督が2人いるという事か」

 まったく、厄介な事だ。と、東郷監督は思う。そして現状、非常に厄介な事に、取れる作戦がほぼ手詰まり状態になっている。


 ――――基本的な総合能力としては、ウチのチームの方が上だ。しかし、現在は延長戦で持久戦のようにも見えるが、本質的には瞬間火力での短期決戦の様相を呈している。弘前高校の打線は決定力を山崎・北島の2人に頼っているため、逃げの戦法を取れば弘前の得点チャンスはかなり潰せる。しかし、山崎が投手として体力充分な期間は、関東総合の打線としても得点するのが難しい。そして、弘前高校の出塁率を助けるルールとして、延長13回以降のタイブレークルールがある。このまま回が進めば、おそらくは13回の表が関東総合としては鬼門となるだろう。そして、その裏を凌ぐところに活路が残される……いちばんいいのは、この回で得点してサヨナラ勝ちする事なんだが――――


 そうは問屋が卸さん、と言うところだよなぁ、と。東郷監督は1塁側ベンチで休憩する女子選手を見て唸る。厳しい問屋だ、まったく。と。


※※※※※※※※※※※※※※※


 その後。

 ある意味では想定の範囲内で。

 ある部分では関東総合の理想通りに。

 そして最終的には弘前の思惑通りに状況は進んだ。


 10回、11回、12回と、お互いに無得点で。

 弘前高校の自力出塁は1人も許さず、11回には9番の前田と1番の山崎を敬遠した上で最小限の打者数で打ち取り、続く12回も4番の北島(俺だ)を敬遠した上で残りを打ち取り。

 そしてタイブレーク適用の延長13回。8番打者から始まった弘前の攻撃。ついに8番の古市先輩が出塁に成功した。9番の前田は内野フライ打ち上げでアウトになったが、残りの走者はすべて残塁。


 山崎が、ネクストバッターサークルから、ゆっくりと歩き出す。


 ワンアウト満塁で、打者は山崎。相手チームの俺が言うのも何だが、関東総合高校は、この試合最大のピンチを迎えた。

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