第 三 章 3
胸にズシンときて、あたしは浅い息をついた。
「それ、いつ?」
「寒かったから……おまえが怪我して、三ヶ月くらい後だったかなぁ」
ふいに監督が顔をしかめる。
「なのにあいつよ、俺には関係ないってほざいて帰らねぇんだよ」
停滞を極める田舎を森屋は
「
そんなの、森屋が飲むわけがない。
「それで、
「森屋にそんなこと言ったの監督」
あたしは半笑いで言った。レースだけが人生だなんてのたまう男が、受け入れるどころか、ふざけんなぐらい返しそうだ。森屋のそういうところは監督も知っていたはずだ。
「なにも言わなかったよ。暗い顔して、どこ見てるんだかわかんねぇ目をしてたな」
「…………それ、本当?」
思わず
「それでな、実篤、チームを辞めるって言うんだよ。レース辞めるのか訊いたら、そうじゃねぇって。じゃあなんでチーム辞めるんだって
森屋がなにかをやらかす度に、パドックを謝って回ったのは監督だ。
「それで結局、チームだけ辞めて、レースは続けたの?」
監督は頷いて、ただ、と続ける。
「レースに
あたしは思わず首を傾げて、監督が苦笑いする。
「首を傾げたくなるよな。工具や機材を処分するなんてレース辞める以外ねぇもんな。レース続けるんだか辞めるんだか、はっきりしねぇんだよ。それから顔を見せなくなって、気にはしていたけど、俺も実篤の面倒ばっか見てるわけにもいかんからな……」
監督のつぶらな瞳が
「あの日のことはよく憶えてるよ。都筑サーキットからうちに連絡が入ってな。すぐに病院に行って……よく眠ってるみたいっていうだろ。ほんと、そんな感じだった」
あたしは
「実篤の親父さん、秋田から飛んで来てな、その日の夕方には東京にいたよ。親父さん、実篤にそっくりなんだよ。実篤が年取ったら、ああなるな」
監督は微笑んで、静かに表情を消す。
「親父さん、礼儀正しくて、無神経な人だったな」
「無神経?」
「あぁ。実篤がバイク乗ってることも、サーキットで死んだことも恥みたいに言ってた。愚息が迷惑かけて申し訳ないって、嫌味なくらい何度も頭を下げられたよ。こっちはそのバイクで飯食ってるのにな。バイク嫌いなんだろうな」
「監督、テラス席行く? あそこならタバコ吸えるよ」
しきりに口元を触っているのを見てあたしは言った。監督は首を小刻みに振って続ける。
「
社長は、鼻の下をつまみグシュグシュとやる。
「
あたしは後ろめたさを感じていた。監督はちゃんと悲しんでいる。悲しんでいる監督にこんなことを訊くのは
「監督は、どう思う?」
「どうって、なにを?」
「……森屋の噂。知ってる?」
ふんと鼻を鳴らし、監督は首を大きく横に振った。
「わかんねえよ、俺には。……ただチーム辞めたり機材処分したり、身辺整理みたいなことをしていたのは確かだよ」
もうそれ以上訊くことはできなくて、あたしは口を噤む。
「まったくあの野郎は、いなくなってからも迷惑かけんじゃねぇよなぁ」
監督は呆れ口調で言いながら、お尻を浮かせて財布を取り出す。
「墓参りしたいって言えば、場所くらいは教えてくれるだろう」
そう言って差し出したのは、秋田県の住所が書かれたメモだった。
「実篤に、会いに行くんだろ?」
あたしは、少し考えて、
「わかんない」
故人に会いに行くという感覚が、あたしには今ひとつわからない。
あたしは無宗教で、魂とかあの世とかもあまり信じていない。気持ちの問題だってことはわかっているつもりだけど、墓石と対面してもしょうがないと思ってしまう。
というのは理由の半分で、実を言うとあたしはお墓が苦手だった。
あたしが8歳の時だ。社長の母親、あたしのおばあちゃんが亡くなった。
おばあちゃんは老いてなおかくしゃくとした人で、幼いあたしと一緒に駆け回って遊んでくれた。「なんでおめぇは自分の娘にやさしくできねぇんだ!」って、唯一社長を叱れる人で、いつだって味方になってくれた。あたしが堪えられなくなった時はおばあちゃんに抱きついた。包み込むようにぎゅーっと抱きしめてくれる。日向とお線香の匂い。そこには、心が溶けてしまうようなやすらぎがあった。
大好きだった。
あの日、おばあちゃんは突然、苦悶の表情で胸を押さえ、そのまま意識を失い病院に担ぎ込まれた。一命を取り留めたが別人のように衰えてしまい、三ヶ月後に亡くなった。
火葬が終わり、骨壺にお骨入れる段になって、火葬場の職員が『収まらないので失礼させていただきます』と平坦な声で言い、箸でザクザクとおばあちゃんの骨を突き崩し、骨壺に詰め込みだした。
息を呑んだ。首筋から湧き上がる恐怖に、幼かったあたしは火がついたよう泣き叫んだ。
あれ以来、火葬はもちろん、葬式もお墓も苦手だ。
おばあちゃんのことは今でも大好きだ。毎日仏壇に向かって手を合わせている。でもそれは宗教的な意味合いより、おばあちゃんのやさしい面影を思い浮かべるためにしている。墓参りはおばあちゃんに会いに行くというより、掃除をしに行っている。
今のあたしが、森屋の墓参りをしたところでなんの感慨も覚えないだろうし――
「そもそもあたしね、あいつがもうこの世にいないなんて、実感とか、全然ないんだよね」
苦笑いしたつもりだったけど、監督は眉根を寄せ、悲しげな顔をされてしまう。
あたし、今どんな顔をしているんだろう。
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