第42話 見知らぬ大洋
まだ幾らも日が昇らない内にアスバルゴは店を出て、波止場へ向かう。ここ最近の彼の日課である。
事は数日前彼の元へ一通の手紙が届いたことに起因する。古い友人から定期的に届くその手紙は、始まりこそ額面通りだったが、その後に続く内容には軽い驚きを覚えさせられた。
拝啓 アスバルゴ殿
如何お過ごしでしょうか。
私の方は寄る年波には勝てずこの頃めっきり体力も衰えました。昔そちらであなたと散々やんちゃしていたのが夢のようです。
ところでこの度愚息の方がそちらの国にお邪魔することに相成りました。
以前あなたと教国を回っている頃に拾った子の方です。今ではもうすっかり大人になり親の私の手を離れて自立しております。今回は上の子の代役として教国の方に行って貰うことになりました。
この前の手紙で伝えました通り上の子を捜すことも目的の一つですので、どうぞ気に掛けてやってください。
海の近くで夜は冷えるでしょうが、どうぞお体を大事にしてください。またいつの日か会えることを夢見ております。
ドン・ファン
彼の実子である上の息子が書置きっきり残して此方の大陸に渡ったことは以前届いた手紙を読んで知っていた。しかし昔拾った子供がもうそんな年になっているとは。年を取ったとは常々思っていたが、改めて人が一人前に育つ年月が経過したと知ると思うものがある。確かホアンという名を付けたんだったか。
思えば、自分がファンと旅をしたのは数十年も前である。アスバルゴ自身もすっかり身体が衰え、今ではしがない自分の店から出て来るのがやっとだ。
ファンは向こうの国で中々に成功したらしい。当時から彼の頭の明晰さには驚かされたものである。アスバルゴは記憶力だけは誰にも負けないと自負していたがファンの前ではすっかりであった。それでいて人間は出来ていたのだから上手くやれたのも頷ける。まぁ多少性格が悪いところはあったのだが。
ふと自分達の時代の終わりを感じる。ファンも今の調子ではそう長くもあるまいし、それは自身も同様である。これからの時代の中心に立つのは新たな世代の若い人々だろう。アスバルゴ自身ひっきりなしに動き回っていた若い頃には自分達の生きているのが一つの時代だなんて思いもしなかった。その頃はここら一帯には何もなく、アスバルゴが他の皆と共に作り上げた結果みすぼらしいものの今の街の姿に辿り着いたのだ。
これから時代を作る人々もまさか自分が一時代の当事者だなんて思いもしないだろう。だが事実そうやって人の歴史は紡がれてきたのだ。
何も偉くなれ、名を上げようというのではない。ファンは向こうでは随分と名を上げたようであるが、アスバルゴ自身はそうでもない唯人である。時代とはただ単に、時を同じくして生を享受した一人一人の生命活動の集合なのだ。言ってしまえば善行をしようが、悪行をしようが、偉業をなそうが、無為に過ごそうが生きているだけで一時代を作ることは出来る。
幾つもの小路を潜り抜け海へ出ると朝日に照らされた海面がキラキラと眩しい。いつもように暫く海を眺める。
アスバルゴはこの海の向こうへ渡ったことはない。ずっとこちら側で波を見て過ごしてきた。だがファンがやって来たようにこの海に接しているだけで様々なことが起こる。海とは不思議なものだ。こうして今もアスバルゴの前に無限の可能性を示しながらこの大洋は揺蕩っている。
陽の光で波止場周辺の地面が暖まり、往来する人の数が増える。海の彼方には本日一番乗りであろうか、真っ白く美しい船が姿を見せていた。
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