第24話 木

 慌ててハルの後を追ったレシオだったが、途中で姿を見失ってしまい、迷っていた。ハルの名を呼びながら、足が自然と進む場所へと走っていく。

 気が付くと、レシオはとある場所にたどり着いていた。


「……ここは確か……」


 目の前にそびえたつ大木を見上げ、レシオは誰となく呟いた。


 彼が手を広げても届かない、それほど太い幹の木だ。たしか春には、白く小さな花が無数に咲き、良い香りが辺り一面に広がる。レシオはこの香りが大好きだった。


 10年前、彼がこの木から落ちて大怪我をするまでは。


 ここは、10年前レシオが落ちて大怪我をした現場だった。その時の記憶が蘇り、焦りと恐怖の気持ちが心を満たす。時間が経っても、落ちた時の怖さは身体に刻み付けられているようだ。


 その時木の枝が動き、葉が数枚地上に落ちた。風もないのにと不思議に思ったレシオは、葉が落ちた辺りの枝の方を見上げた。そこにはあるはずのな人影が見えた。


「ハルっ!!」


 青い髪の男装した少女が、大木の枝に座っていた。レシオの声に反応し、青い瞳が地上にいる彼へと向けられた。


"この状況、どこかで見た事があるような……"


 自分の記憶にない懐かしい感覚が蘇り、レシオの心臓が早鐘を打つ。何かが引っかかっているのにそれが取れない、そんな思い通りにならない苛立ちが、彼の心を苛んだ。胸が苦しくなり、無意識のうちに手を胸の前に置いた。


 レシオは、無性にハルの近くに行きたくなった。いつもなら木に登ろうとすると、事故のトラウマによって恐怖を覚えるのだが、今は不思議と落ち着いてる。


 いや、トラウマの恐怖以上に、ハルに近づきたいという気持ちが勝っているのだ。

 そんな事を思いながら、レシオは太い幹に足をかけた。そして注意深く登りながら、頭上のハルに言葉をかけた。


「ハルっ!! お前の大切な思い出って……、約束って何なんだよ!!」


 胸の苦しみに耐えながら、レシオは尋ねた。ハルの話を思い出すたび、心が激しく揺さぶられる。ここまで心が反応しているのだ。今なら、自分がハルと会った事も、自分が記憶を失っているという事実も受け入れられる気がした。


 自分は間違いなく、大切な何かを忘れている。


 ハルは青い瞳を伏せると、口を開いた。


「僕は……、昔から極度の引っ込み思案で、家族以外とまともに話すことが出来なかった。その事を、曽祖母に相談したら、男装をして別の自分を演じてみてはと言われたんだ」


「男装を勧めるって……、どういうひい婆さんだよ……」


「まあ、今思えば僕も同じ感想を抱くだろうね」


 レシオの呆れた声に、同感だと小さく笑った。

 ハルの曽祖母――スタイラスには、男装の趣味がある。時折魔界の城にやってきては、男装した自分の姿で女中たちを口説きその反応を楽しむという、迷惑極まりない趣味を持っているのだ。


 相談した相手が悪かったとしか、言いようがない。しかし予想外にも、男装はハルに効果をもたらした。


「でも初めて男装して、今までとは違う姿になった時、不思議と誰とでも話せるようになってね。それがとても嬉しくて、それからずっと僕は男のなりをしてきてたんだ。その結果……、逆に男装しなければ、まともに人と話せなくなってしまったんだ」


 引っ込み思案を克服する為に始めた男装は、ハルに他人との自由な会話を与えてくれた。しかしそれに頼り過ぎた為、今では本来の姿で生活することが困難になってしまったのだ。


「だから10年前、僕は君だけに相談したんだ。男装をしなければまともに話すこともできない自分が、次期魔王となる不安をね」


「……ハルが……、次期魔王?」


「ああ、そうだ。これを持って生まれてきたから」


 そう言ってハルは左手の手袋を脱ぎ、手のひらをレシオに向けた。そこには、普通ならあるはずのない、薄い青色の宝石がはめ込まれていた。

 それを見た瞬間、レシオの肌が総毛だった。得体のしれない力が、その宝石から感じられたからだ。


 肌がチリチリする違和感に、レシオは魔界にたどり着いた時に魔力を感じたティンバーの言葉を思い出した。魔力に鈍感な彼が感じられるという事は、宝石から放たれる魔力が強大だという事を示している。


「魔王の証である『アディズの瞳』だ。これを持って生まれ、父から全ての力を受け継いだ時、僕は魔界を統べる王となる」


 そう言うハルの声は、とても暗かった。焦点の合わない、どこか空虚な瞳で魔王の証に視線を向けている。

 そして左手を握ってアディズの瞳を隠すと、自らの弱さをあざ笑うように、口元に薄い笑みを浮かべた。


「こんな僕が魔王になる事を、魔界の誰もが不安に思っていた。だけど……、君だけは違っていた。だから僕は、本当の姿で生きて行けるように、君に協力をお願いしたんだ。そして僕たちは……、一つ約束をした」


 ハルの視線が、上向きになった。レシオが、ハルのいる場所にたどり着いたからだ。かなり高い場所で、下を見ると高さに身体が自然と恐怖で竦む。


 レシオは幹につかまりながら、枝に座るハルを見下ろした。

 始め会った時は綺麗な男性だと思われた顔は、女性と知ってからそうとしか見えなくなっていた。


 二の腕の柔らかい感触、そしてあの夜見た艶かしい横顔が思い出される。


 そしてどこか懐かしいという気持ちが、そして胸がぎゅっと苦しくなる想いが、心を満たした。思い出せないのに、ハルの言葉が忘れてしまった、遠い昔の感情を確かに揺り動かしていた。


「約束って……、何だよ」


 レシオはゆっくりとハルに近づいた。彼の只ならぬ雰囲気に、ハルは思わず彼から距離を置いた。しかし彼は止まらない。


「分かんねえよ……、覚えてねえんだよ……。なのに……」


“この気持ちは、何なんだ!”


 最後の叫びは、声にならなかった。

 理解出来ない気持ち、覚えていない約束、大切な思い出、それらの答えを得ようと、彼の歩みは止まらない。そしてハルも彼から離れるため、身体を移動させていく。しかし枝は、先に行くほど細くなっているわけで……、


「わっ! わわわっ」


 身体の重みで枝がしなり、ハルの身体がぐらっと傾いた。慌ててバランスを取ろうとしたが、間に合わず細い身体が空中に投げ出される。

 レシオは咄嗟に走り出すと、ハルの身体を捕まえた。しかし勢い余って彼の身体も、枝から離れてしまった。


 二人の身体が地上に落下を始める。

 レシオは、落下の衝撃から彼女を守るべく、自分の身体で彼女の頭を抱きかかえると、そのまま全てに身を任せた。

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