STORIA 66

そんな僕に残されている事と言えば、母に願う想いを傾ける事位だった。

彼女に願う事位にしか僕には勇気が持てなかったんだ。

身内だから何を願っても許されると想い、いつかは必ずあなたの心を想う様に動かせる日が来るのだと想っている。

想いたかったんだ。

ずっとそばに居て、僕の感情に付き合って欲しいなんて言わない。

願う想いはそんな贅沢な物じゃない。

疲れて帰って来た時に見せてくれる一瞬の笑顔でもいい。

朝、目覚めた時に交わす"おはよう" の一言でも。

二人で取る食事に母親としての顔、仕草、そんな事でいい。

なのに手は届かない。

何処にでもある"日常" がこんなにも叶え難い。





職を失ってどの位経つのだろう。

併し、こんな状態に僕は何処かで自分の想い通りにシナリオが進んでいる事を実感している。

母は何一つ小言を翻さなくなった。

その日は突然訪れた。

どうしてだろうか。

僕のこんな無様な現状を目にしても、今までの様な酷い感情をこの心に焚き付けて来る事はもうない。

何も反応しない彼女の姿は意外な程だった。

それを好い事に僕は流れ動く時を想う様に操っていく。





職にも就かず母から責められる事もなく、自由気ままの受け身の立場で居る事はある意味、楽で心地の良い物だった様にも想う。

誰に邪魔される事もなく、心をいつも自分の居室に置いた様な感覚で居られる。

今在る自分の状況が決して良い物である筈がないけれど。

仕事を探そうと求人誌にこまめに目を通す事も度々あった。

けれど、それは自分の中に仕事を探そうとする意欲が少しは残っているのだという事を形式付ける為に起こしていた行動とも言える。

ただ形だけの物で実行に伴う事など全くない。

ぼんやりと募集要項を眺めているだけで一通り目は通すものの、間食をしながらページを捲る雑誌の様な感覚で空いた時間に間を持たせていた。

何処かで僕は面接を受けなければという想い以上に楽でいたかったんだ。

事故を起こして病室で受け身で居た一ヶ月に、自ら行動を起こす事に疲れてしまった自分が居た事も確かだ。

与えられる事に慣れた僕がそこには居て。

退院したあの日、お姉さんの言葉を切っ掛けに母にも他人にも素直な感情をぶつけたいと、世間からも家庭からも逃げず幸せになりたいと願う自分自身に出逢えたばかりだったのに。

母が僕の想いに止めを刺した。

予想通りだ、こんな展開は。

僕はこれからも起ち上がろうとする度にあなたの冷淡さに押さえ込められるのだろう。

だけど、今回は違っている。

僕が職を手放した事や、その心にとって煩わしい存在である筈の僕にあなたは飽くまで無口でいる。

それは何故なのだろうか。

僕の事なんてどうでも良くなったからなのか。

あれ程あなたが吐く毒舌に強く不満を抱いていた僕なのに、現実にこうして見向き一つされなくなるとその状況に満足しながらも、僅かな不快さが顔を露にする。

厳しく責められても、構われる事がなくても、気付かぬ内に僕は満たされない想いを抱いてしまっているのだから。








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