STORIA 48

今夜も向かいのベッドから僕を癒やす優しい歌声は聴こえて来ない。

淋しい。

穏やかな眠りを誘うあの音色が、最近では当然の事の様になってしまっていたから。

僕は独り心を巻き戻す。

体に染み付く音を何度も想い出しては、懐かしい記憶を辿っていた。




その日の晩は唸る様な風の声が妙に耳元でざわついていた。

どれだけ寝返りを打っても意識だけは変わらず、はっきりとしている。

風の中に右京さんの呼吸が速くなる。

喘鳴の様な何とも言えない奇妙な喉の音は、秒毎に激しさを増していた。

この間も右京さんのこんな状態を目にしていたけれど、今回はまるで別物みたいだ。

それは素人の僕から見ても明らかに容態の深刻さを訴え掛けている。

僕は彼女のそばに寄り、いつかの様にその手を静かに握り締めた。

右京さんは苦しそうに息を切らし僕の手を掴み返す。

眉雪を歪め放さない様に強い力で。

その手を放そうにも、僕の力じゃ到底敵う物ではなかった。

彼女の指先は痙攣を伴って僕に縋り付いている。

これがあなたの最期の想いかも知れない……。




僕は彼女の体温から伝わる真実に怯え、枕元のナースコールボタンを手に取った。

当然この様子を伝える為に。

僕の手を放れた彼女の掌が何処に意識があるのか分からない様な心で、胸元の上に何度も手を伸ばす。

彼女の掌が苦悩の中にも、それでも生きる事を貫き通したいのだと全身を震わせ闘っている。

だけど無理なんだ。

結局、行く先は目に見えている。




声が聴こえる。

重く深い痛みを負った彼女の喉の奥底から。

そうして僕の心にも、"君の願いは届かない" と悲説を投げ掛けている。

もがいても、助けを求めても、願う方向とは別に逆戻りしていく有り様はまるでこうなる事を宿命だと決定付けているかの様だった。

そして、それは僕の未来も同様なんだ。

なのに右京さんは唯一、動かす事の出来る指先に命を繋ぐ事を諦めてはいない。

想えば僕もいつだってそうだった。

望めば未だ少しでも可能性があると、信じていれば必ず誰か一人でも僕の事を必要としてくれる人に出逢えるって。

彼女の想いの様に幸福の扉を開けたいと、手を伸ばし願い続けて来たけれど。

けれど、僕は弱いから……。

右京さん、あなただってそうだ。

強く願う心は弱さの証。

僕には見える、あなたを待つ死の扉が。




信じられないかな……。

僕はこの瞬間あなたの死に憧れさえしているんだ。

だって死は全ての物事を解決へと導いてくれるたった一つの緒。

このベッドに横たわる姿があなたではなく僕だったなら、こんな風に指先に未練を託す事もきっとない。

時の赴くままに死を迎え入れて見せる。

生きて感じる僅かな傷の積み重なりに耐える事よりも、深い病に見舞われ遂げる最期の方がずっと美しい。

現実の傷みから遁れたいと願う僕の心には「死の重み」さえ幸福に映る。




右京さんの激しく加速していた呼吸は次第にゆっくりと下降線を辿り始めていた。






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