STORIA 8
「……風邪?」
蘭が心配そうに僕の額に手を添える。
「今日はもう早く休まなきゃね」
「……平気だよ」
「両親は仕事で出張なの。兄も今日は遅くまで帰って来ないし。だからゆっくり休んで」
どの位眠っていたのだろう。
蘭の幸福に安心したのか、すっかり夢の中に居た様だ。
時計の針に目を遣ると六、七時間が経過していた。
もう深夜だ。
だけど一晩明かしたのだろうかと錯覚を起こしてしまう程、今この瞬間だけは体が落ち着きを取り戻している。
それだけ彼女の言葉に安堵を抱いていたんだ。
視野が辺りに慣れ始めてくると、さっきまでの居心地が幻の様に消え失せ嫌な記憶ばかりが甦って来る。
僕の隣に居ない蘭をなんとなく探しに行きたくなって、ふらつく体を起こし部屋を出た。
どうしてこんな些細な事で不安になるんだろう。
体が熱い。
どんどん体温が上がってきているみたいだ。
何だか自分の体を支えているのもやっとで……。
微かに呼気を乱しながら爪先を靴底へ差し込んだ。
玄関の扉の先の空気に指先が凍り付く。
叩き付ける様な滴は白い結晶に姿を変えていた。
今年、最初の雪だ。
儚く美しい冬景色がさっきよりずっと強く体の熱を奪い去っていく。
雪の袂に佇む心は映像を繰り返す昼間の出来事に再び苦しめられていた。
母の冷たい感情に、想い出したくもない職場の顔。
僕を庇った素振りをして内心では何を考えているのか分からない女性店員の本音。
僕は必要以上に気苦労ばかりをしていて、同じ立場で居ながらも特別扱いを受けている、そんな彼女の現実を何故か今とても悔しく想っている。
要領良く、その場を渡る事で簡単に都合のいい展開を手にしている。
ああいう人間はいつだって近道を選ぶ事しかしない訳で。
幸福だって得意の狭賢さで手中に収めてしまうんだろう。
望む物は全て想い通りだ。
彼女の様に世渡り上手な人は幾らでも居る筈だ。
じゃあ僕は……?
僕は何の為にこんな苦しい想いをしているの。
夢中を彷徨う様な足取りで雪の粒の向こう側にぼんやりと蘭の姿が浮かび上がる。
僕はもう立って居られずその場にしゃがみ込んでしまった。
僕の代わりに肘で弾いた傘立てが声を上げる。
「冬!? 何してるの、駄目だよ。寝てなきゃ。体、悪化しちゃうわ」
蘭が手に抱えていた荷物を放り出し僕のそばに駆け寄った。
僕は熱に押し潰され項垂れた体で彼女の元に躙り寄る。
彼女の腕の中で全てを投げ出し熟える。
ジーンズに触れた雪が瞬く間に骨まで浸透していった。
「どうしたの……」
そう言って蘭は優しい両手で僕の顔を自分の胸に引き寄せ労る。
不確かな呼吸。
定まらぬ視点。
彼女の体だけを頼りに。
運航を終え夜明けを待つ空の便の替わりに、除雪がされた路傍を数台の車体が行き交う。
一台の車が激しいブレーキ音を鳴らし、キ─……ンと耳底を突き抜くその音は僕の中で拉かれ延々と谺していた。
全ての白さを呑み込んだ闇の世界は今の僕にとって淋しい物以外の何でもなかった。
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