episode 8 海藤慎二

【国立生物科学研究センターから、国家機密レベルのあるモノが脱走してから二時間後、午後五時】



「うへっ、今日はやけに冷えねぇか?」

 5月の下旬。もう少しで毎年恒例のうっとおしい『梅雨の季節』だ。


 

 例年なら、この時期はもう夜でもそう寒くはない…はずなんだが。さっき携帯ラジオから聞こえてきた天気予報によると、今夜に限っては3月上旬並みの気温に戻ってしまうそうだ。最近新聞を読んでいても、世の中おかしくなっちまったんじゃねぇか?と思うような事件ばっかりだが、世の中がおかしいと気候までおかしくなるのかね?

 ここ東京のど真ん中は下手に高層ビルが密集して立ち並んでいるせいか、風を防ぐどころか、不自然極まりない強風をオレの体に吹き付けてくる。入り組んだビルの隙間に、変に風力を増す効果でもあるのかい?

 寒さと雨。このふたつは、飢えと病気の次に、オレたちホームレスの一番の敵なのだ。



 オレは、いつも決まった時間に廃棄される期限切れのコンビニ弁当を得るべく、寒い中体を押してまで出張ってきたのだが、すでに他の仲間たちに取り尽くされていた。

「ったく、寒いわメシにはありつけねぇわ……踏んだり蹴ったりだな」

 そう独り言で悪態をついてみても、腹が減っている現実が変わるわけでもないので、余計虚しさが増すだけだ。分かっていてもつい口に出してしまうあたり、オレは人間として未熟なんだろうな。

 腹が減ると、夜寝るのもなかなか寝付けないんだよ。この寒さだから、段ボール程度の寒さ凌ぎじゃ下手したら凍死するぜ? 



 え、なぜホームレスになったのか、だって? そりゃあ…会社で大失態を犯したってことと、オレばかりが悪いと思えず上司とやり合った、っていうことが引き金さ。不幸中の幸いと言おうか、女房子どもがいなかったから、不幸になるのはオレだけでよかった。

 あと、組織のしがらみとか上下関係とか、空気読むとか。それが嫌でしょうがなかった。

 もちろん、世の中の社会人は多くがそれをこらえて、食って行くために頑張っているのは分かっている。だからオレの悩みは贅沢なんだってことも。

 ま、だから認めるしかないのさ。オレは人より弱いし、ダメな人間なんだってな。

 とにかく、ホームレスになりゃ『自由』が手に入ると思ってしまったのさ。起きたい時に起き、寝たい時に寝る。組織のしがらみとか上下関係からも開放されると……

  


 皮肉なことに、ホームレス社会の中にも『格差社会』というものはあった。

 ホームレスになったその日、「さぁ、今日から自由だ!」と希望に胸をふくらませたその日のうちに、オレの希望は露と消えた。「お前見かけねぇな。新入りか?」と別のホームレスに声をかけられたのだ。

 何でも、このあたりは源さんのシマ(縄張り)で、その『源さん』というリーダーに挨拶をして、公園に住もうが高架下だろうが、『登録』を済ませねばならないと聞かされた。で、登録されるとシマの住人として認められて『仕事』を回してもらえる代わりに、収入の三割を源さんに治めるのだそうだ。

 場所によってはその「登録」が強制で、従わない者はひどい目に遭わされる地区もあると聞く。幸いこの場所は、登録をしないでいるとひどい目に遭わされるということはないが、ただ色々『不利』ではある。しがらみに巻き込まれず、上納金を治める必要もないことと引き換えに、『守ってもらえない』。

 現に今、廃棄のコンビニ弁当の回収に遅れを取った。源さんのグループは組織立って動いており、そんなやつらを出し抜くことはなかなかできない。



 同じホームレスでも、源さんのようにあらゆる家財道具を備えた御殿のようなビニールハウスに住み、ある程度の収入を得て優雅に(?)暮らす者もいれば、オレのようにホームレスにはなったが要領が悪く、ひどい生活を強いられる一方の者もいる。

 ホームレスの内部でさえ、縄張りや階級、といったものがあるのが現実だ。

 せっかく社会からドロップアウトしたのに、その行き着いた先が結局 『社会と相似形』 である世界だという現実に、ホームレスは絶望するのだ。

 まぁ、そんなことを今更愚痴っても仕方がない。

 明日こそはもうちょっと早めに弁当探しに来よう…そう自分を慰めながらオレは自身のねぐらであるK公園へと足を向けた。



 東京都C区のほぼ中央に位置するこの公園は、規模としてはかなり広い。

 公衆便所の水道で顔を洗ったオレは、いつもの習慣となっていた儀式をするべく、便所からそう遠くないところにある小さな祠 (ほこら)の前に立った。

 その中に鎮座する小さなお地蔵様を前に、オレは手をパンパンと鳴らして拝む。

「お地蔵さま、どうか明日にはうまい残飯にありつけますように!」

 何、同じ願い事をするならもっとレベルの高い願い事にすればいいのに、だって?

 おいおい、それは余計なお世話ってもんだぜ。オレにはな、その日その日の食い物のこと以上の関心事なんてゼンゼンないんだからしょうがない。

 すべての運に見放されついに天涯孤独の身の上となってからというもの、オレはいつもこの公園のこのお地蔵様に一日一回、こうして願をかけているのさ。

 運よく、賞味期限切れたての幕の内弁当がゲットできた時などは、おかずを半分お地蔵様に供えて祝ったもんだよ。まぁ、そんなものを供えられてお地蔵様が果たして喜んだかどうかは怪しいが……な。

「さてと」

 公園の中央の小高い丘のような所に、屋根の付いたベンチがある。壁こそないが、ベンチの足元に寝転がれば風は何とかしのげる。オレそこへ向かうべく、公園の遊歩道を歩いていった。



 夜空の月が、異様に近く感じられた。

「あれ。お月様って、こんなに大きく見えるものだったっけ?」

 見事な満月だった。日頃きちんと見もしないのに、たまたま見たからそう思うだけかもしれないが、それにしても見え方が鮮やか過ぎる。まるで、3Dメガネを通して見た映像のように、月の部分だけが夜空から浮き上がって見える。

「くわばらくわばら。何か不吉なことの前触れじゃなきゃいいけどな!」

 地蔵様に毎日手を合わせるようなオレだから、この時そんな発想をしたのかもしれないが……皮肉にもこの予感は的中してしまうことになる。



 街灯の明かりも届かない遊歩道の草むらの影に、赤い光があった。漆黒の闇の中で、そこだけがかすかに淡い、それでいて毒々しい赤色の光が明滅していた。

「……何だ? ありゃ」

 オレは赤い光の正体を確かめようと、その草むらに歩み寄った。3メートル手前あたりに来ると、急にその辺りの潅木や雑草がざわざわと揺れた。

 風か? いや違う。何かが動いて、草むらを揺らしたのだ。

 そう思った瞬間、赤い光が消えた。そして、茂みからニューッと人間の長い足が生えるように出てきた。履いているのはヒールのようだったし、スラッとしたキレイな足の感じからして、成人女性の足だと思われた。

 果たして、もう片方の足、腕、頭、胴体…と順番に女の体のパーツが次々と草むらの中から現れた。そしてついにその全身を現した女性は、あっ気にとられているオレの前に立ちはだかった。



 20代と思われる、若い女性。

 赤いヒール・白のワイシャツに黒のタイトスカート。見た目職業はOLっぽい。

 その上からベージュのハーフコートを羽織っており、髪の毛は腰までありそうな黒のロングヘア。不思議なことに、彼女は目が不自由なのか何なのか分からないが、目を閉じたまま開けようとしない。

「ちょっとネエちゃん、さっきここで何か赤く光っとったみたいやけど……?」

 言ってしまってから、オレは声をかけたことを後悔した。



「ケケケケケケケケ」



 おおよそ人間らしくない、薄気味悪い笑い声が女の口から漏れ聞こえてくる。女は数歩歩いてオレの真正面に立つと、それまでずっと閉じていた目をカッと開いた。

「ひいいいいいっ」

 オレは女の目に射すくめられて、背筋が凍りついた。そして次の瞬間、ありったけの勇気を振り絞って女の前から全力で駆け出していた。

 なぜならその女性の目は——

 真っ赤に光っていたからである。まるで、吸血鬼のように。




 ~episode 9へ続く~

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る