第ⅩⅣ話 願望

 行く宛なんてどこにもなかった。

 帰る場所もたった今なくなった。

 だけど、動かなければ死に追いつかれてしまう。


 宮中から這々の体で抜け出したハクと祐娜姫は、追手が迫っているのを背中で感じながら影から影へと身を隠していた。

 どこに逃げているのかは本人達も分かっていない。この状況で助けを求められる相手など、当時のハクにはいなかった。


 終わりの見えない逃避行。

 それでもハクは祐娜姫という娘がいたため、苦しい思いをしながらも耐えていられたが祐娜姫は違った。

 人間として育てられてきた祐娜姫は自分と母親が何故逃げているのか、何故追われているのか、全く理解できていなかった。


 急に家から連れ出され、家族の一員だと思っていた家臣達に命を狙われている。

 碌な食べ物もなく、泥水を啜りながら当て所なく進んでいく。

 まだ幼い祐娜姫がそんな生活を続けて壊れないはずがなかった。


 精神的に追い詰められている娘を見てハクは全てを打ち明けることにした。

 『娘に嫌われたくない』というハクの臆病な心がそれまで口を閉ざさせていたが、いつまでも隠しておくわけにはいかない。

 そう思ったハクは自分が九尾の狐であること、安倍泰成に見破られ退治されかけたこと、九尾の血が半分流れている祐娜姫も退治の対象にされていること等を祐娜姫に説明した。


 だが、それは余計に祐娜姫を追い詰める材料になっただけだった。


 話を聞いた祐娜姫は全身を血が出る程掻きむしり始めた。まるで自分が人間でないことを否定したがっているように。

 

『違う、違う、違う、違う、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ』


 と繰り返し叫びながら祐娜姫は自分の体を傷つけていく。


 ハクも焦って止めようとしたが、半狂乱の祐娜姫は簡単には止まらない。

 仕方なくハクは祐娜姫を気絶させ、そのまま背負って再び逃走を始めた。


 とは言えただでさえ手負いの身、その上子供とはいえ人一人分の重りを抱えたまま逃げられるほど相手は甘くなかった。

 段々距離が縮まり、囲まれるのも時間の問題となった時、ハクは一つの決断をした。

 このまま二人とも捕まるくらいなら二手に分かれて追手を撹乱させよう、と。


 ハクは気絶している祐娜姫を山の奥深くに隠し、目隠し用の結界を張った。手早く三文字だけ記した手紙を添えて。

 そしてハクがその場を去ろうとした時、折り悪く祐娜姫が目を覚ました。

 外と遮断されている箱の中にいる自分と外にいるハク、その状況から祐娜姫は自分が置いていかれそうになっていることを理解した。

 

 祐娜姫は結界をドンドンと叩き、ハクを呼び止めようとする。泣きながらハクに縋ろうと必死に手を伸ばす。

 だがハクが足を止めることは無く、ちらりとだけ振り返り祐娜姫を一瞥するだけで終わった。

 そこで完全に二人は袖を分かつこととなった。


 その後のハクは祐娜姫がいる間は使えなかった隠形や幻覚を駆使して追手から一時逃げ切り、那須野の地に留まって体を癒やした。


 そしてハクは討伐された。

 夫の死に目に会うことも出来ない。

 娘の成長を見守る事も出来ない。

 様々な無念を宿したまま、玉藻の前としての生涯を終えた。


 しかし祐娜姫は、


「……人間も、妖怪も、男も、女も、とと様も、かか様も嫌いでございます。あの日からわたくしはこの世の全てを恨んで生きてきました。この世は醜悪で、おぞましく、生きる価値のある命なぞどこにもありません。母様と別れてから数年は頑張りましたが、駄目でした。もう私は、何もかもが憎くてたまらなくなりました」

「祐、祐娜ひ……」


 祐娜姫の独白が始まると、ハクを掴んでいた祐娜姫の手が少しだけ緩んだ。

 だがハクが祐娜姫の名を呼ぼうとすると、その名を呼び終える前に祐娜姫の手に力が戻った。


「く、ぁっ……」

「ですが! そのおかげで私は今日まで生きてこられました! 母様への復讐と世界への復讐を遂げるためだけに私はずっと生きてきました! どうですか母様、母様の願い通りでしょう!?」


 実際の所、ハクは祐娜姫が無事に人生を送っていけるだろうとは微塵も思っていなかった。

 十中八九大人になる前に殺されてしまうし、生きていけたとしても悲惨な人生を歩むことは目に見えていた。


 だとしてもハクは祐娜姫に『生きて』欲しかった。

 生きてさえいれば、いずれは自分みたいに幸せな瞬間だって訪れるはずだとハクは信じていた。


 現実で祐娜姫が生きているかは分からない。少なくとも千年間生き続けた可能性は限りなく低いだろう。

 その万が一があっても、自分と再会した時には今と同じように怨嗟の声をぶつけられるだろう。

 人一倍ではすまない憎しみや苦しみを背負っているだろう。

 


 それでも、ハクは自分の願いが間違っていたとは思わなかった。

 


 


 


 

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