第121話、緋色の魔女
十五年前……。
森の中にある、古びた一軒家。
そこに、水の入った桶を持った小さな黒髪の愛らしい女の子が入り込んでいく。
五歳程度の見た目だが、しっかりとした足取りだ。
「……母よ、終わったぞ」
大きな瓶に水を入れ、小さな体で何往復もしたにも関わらず一息吐く事なく声をかけた。
「そうか、ヒルデは仕事が早くて助かる。なら次は……………薪割りか?」
「今日の当番は母だ。昨日は代わってやっただろ」
水汲みを終えたヒルデガルトと、
スレンダーな身体に、露出度の高い装いをした黒髪の女。
「フゥ〜……、細かい事は気にするな。それに、その……アレだ。昨日から腰が悪くなってしまってな」
「年に何回腰を壊せば気が済むんだ。さっさと行ってこい」
「……融通の効かん子だ、お前は」
煙管を置き、外へ出ようと腰を上げる。
そして扉を開け……。
「……あぁ、言い忘れていた」
「……なんだ」
「身体に悪いから、お前はソレには触るなよ。大人ぶっても良いことは無いぞ」
煙管に伸びていたヒルデガルトの手が、ゆっくりと引かれる。
「ふっ、じきにもっと良い物をやる。我慢しておけ」
「良いもの?」
訝しげな表情の小さな顔が、母の背へと向く。
「薪割りを終える間に茶の支度でもしていろ。薪割りで疲れた母を労わるように心を込めるんだぞ。いいな」
優しい眼差しで娘へ振り返る。
「母の腕力なら数分で終わるだろ。自分で淹れろ」
「……ふん、空気の読めんやつめ」
渋々出て行く母“グレース”の背を見送り、……湯を沸かす準備を始めた。
………
……
…
「……ん?」
何か作業中のグレースに代わり、昼食の支度を始めていたヒルデガルトが外の気配に気付く。
「…………」
無言で扉へと向かうヒルデガルト。
ここを訪れる者は限られる。
実際、ヒルデガルトは母親以外では一人としか会った事はない。
「おや、ヒルデちゃん。お出迎えありがとうね」
「マローナ……そいつは誰だ」
一週間に一度程度の間隔でこの家を訪れる、グレース達の存在を知る唯一の老婆マローナ。
だが、今回は一人ではなく中年男性を連れていた。
「こいつは息子さ。あたしも歳だからね。次の村長としてグレースに挨拶だよ。……ほらっ、何してんだい! ヒルデちゃんにも挨拶しな!」
「あ、あぁ。……こんにちは、お嬢ちゃん。僕はロレンツォだよ、よろしくね」
眼鏡をかけた気の良さそうな見た目のロレンツォだが、ヒルデガルトは初めて目にする男という生物に警戒心を露わにする。
「…………」
「マローナ、来たか。……………もしかして、そいつが新しい村長か?」
煙管を吹かすグレースが、ヒルデガルトの背後から姿を見せた。
「…………」
何とも言えない顔付きとなったグレースに、ロレンツォは目を奪われ固まっている。
「すまないね、グレース……。言いたい事は分かるんだよ。けど……あたしゃ、やっぱりこいつの嫁が信用出来ないんだ。男だけどまだ歳を食ったこいつの方が良いだろう」
「そうか……」
どことなく不安になるグレースとマローナの会話。
「……?」
この時のヒルデガルトには、二人の考えが何一つ分からなかった。
それから家に入り、緊張しきりのロレンツォの自己紹介や注意事項の伝達を行い、
「…………」
「……母よ、どうかしたのか?」
普段と微かに様子が違って見えるグレースの姿に、ヒルデガルトが堪らず訊ねる。
「……いや……………明日は、マローナの言っていた魔物を狩りにいく。ついでに山菜も採るから一緒に行くぞ」
「……分かった」
言い辛いのか、隠しているのか、誤魔化しているのか……。
何にせよ母親のこのような姿は見た事がない。
ヒルデガルトには、これ以上追求する事は出来なかった。
「お前は早く寝ろ。母はまだやる事が残っている」
「私だってまだやる事がある。……母はマローナの持って来た酒を呑むだけだろ」
自分のコップに水を入れ、何かの準備をするヒルデガルト。
「お前にも蜂蜜を持って来てくれたんだから同じだ。……飲み過ぎるなよ、朝に後悔するぞ」
「どっちがだ。頭が痛くて出掛けられないなどと言うなよ」
「ふん、言うようになったじゃないか」
蜂蜜水と酒を飲み、いつもより夜更かしをする。
テーブルに灯りは無く月明かりだけが頼りの室内で、向かい合った母と娘は他愛無い戯れ合いのような会話を重ねる。
いつものような、幸せな一時を過ごしていた。
♢♢♢
翌日、朝早くからヒルデガルトを連れたグレースが無防備な装備で森の中を歩いていく。
普段通りの装いに、山菜やキノコなどを入れる籠のみ。
木漏れ日を受けつつ、気持ちのいい朝の散歩であった。
「ほら、そこにも食べられるキノコがあるぞ」
「……分かってた。声を出すから母が見付けたようになっているだけだ。私の方がずっと前から分かってた」
「なんだ、そうだったか」
「わざわざ口に出す必要が無かったから言わなかっただけだ」
「わ、分かった分かったっ。母が悪かった……」
山菜やキノコなどを採り、あれが食べられる、あれは食べられないなどの会話もそこそこに。
しかし突如として空気が変わる。
「…………」
「でかいな。確かに村の者達では倒せないだろう。何故このような個体がこのような森にいるんだろうな」
標的はすぐに見つかった。
唖然とするヒルデガルトが目にしたのは……。
「…………」
小山のような巨大な体を地に放り投げ、外敵に警戒する事なく悠々とイビキをかいて眠るトロール。
村の農作物を散々食い散らかして満腹なのか、ヒルデガルト達の気配にも起きる気配もない。
「ヒルデ、下がっていろ。面倒だから一撃で葬る」
「……出来る訳ない」
母の服を力一杯握り締めて離さないヒルデガルトに、グレースは暫し意外そうに見詰めた後、微笑みながら彼女の手を解いていく。
「……出来るに決まっているだろ。心配するな。これなどよりも強力な魔物を何度も倒して来た。この程度の魔物に失敗などしない」
「…………」
しゃがみ込み、目線を合わせて安心させる母に……納得がいかないまでも渋々背後の木の後ろへ下がる。
「娘を心配させてはならんな。手早く終わらせよう」
嬉しそうに独り言を漏らすグレースが、手を翳す。
「――〈
手の上に紅い魔力が集まっていき、それは紅色の丸い水晶へと変わる。
そして、この結晶は……燃える。
「グゥわぅ!?」
突如として発生した身を焦がす熱風に、トロールが跳ね起きる。
太陽のように煌く、渦巻く炎の球体。
「受け継がれる“緋”は、何よりも強く何よりも気高い」
言霊の如き呟きの後に、無造作に振り下ろされた炎の結晶。
結晶の物理的衝撃と焼き尽くす灼熱の業火。
2つの特性を併せ持つ凶悪な魔術が、トロールへとぶつけられる。
――大森林に、爆炎が上がる。
巨大なトロールが吹き飛びながら派手に燃え上がる。
爆炎に巨体が呑まれ、なす術なく悲鳴も掻き消されて焼失する。
やがてすぐに紅蓮の炎は霧散していき……。
「…………」
跡形も無く焼き尽くされたトロールに、ヒルデガルトは言葉も無い。
熱波に当てられて火照る幼きヒルデガルトの顔は、恋するように赤らんでいた。
「まぁ、こんなものだ。我等の血統は、この魔術を代々引き継ぐ。お前にもやがて使えるようになるだろう」
「ホントか? いつだ」
目を輝かせて駆け寄り訊ねるヒルデガルトに、グレースは微笑ましさと共に頭を撫でる。
「……その内だ。お前にも分かる時が必ず来る。私のように。先祖達のように」
優しい手付きで撫で、言い聞かせる。
「だからそれはいつだと訊いている。誤魔化さず具体的に教えろ」
「……私は、お前のそう言う聡いところは厄介だと思う」
玩具をねだる子供らしい姿に胸の高鳴っていたグレースだが、やはりヒルデガルトはヒルデガルトであった。
「お前は甘えん坊の癖して賢いから手に負えん」
「ふん、甘えた事などない。子供扱いするな」
「馬鹿者、お前は子供だ」
2人並び、山の幸を採りながら仲良く家を目指す。
親子でもあり、姉妹のようでもあり、時に友のようでもある2人は共にいるだけで満たされていた。
「……あいつ来てるぞ」
「来てるな……。ヒルデ、先に入っていろ」
「……分かった」
家に戻れば、そこにはロレンツォの姿があった。
家の前でウロウロし、グレース達を待っている風であった。
「……っ、グレースさん!」
「ここには一週間に一回だと伝えた筈だ。切迫する用でもない限りな」
マローナの時と違い、冷たい対応をするグレース。
「よ、用ならあります! 最近、ここら辺に国の兵が目撃されているのです!」
「っ、……そうか」
予想外の報に眉間に皺が寄る。
「……話は分かった。悪いがマローナとの打ち合わせ通りに、知らぬ存ぜぬを通してくれ」
「勿論です!」
「あと、トロールは駆除しておいた。村に戻って安心させてやれ」
そう言うや否や、早々に会話を切り上げ踵を返した。
「ではな」
「あっ、ちょ、ちょっと――」
呼び止めるロレンツォの声も無視して、グレースは家へ戻る。
「……………ふぅ、困ったものだ」
扉越しに項垂れて去っていくロレンツォの気配を察し、溜め息を漏らして嘆く。
「何がだ。あの男が嫌いなのか?」
「嫌いではない。友の息子だからな。しかしな……困ったものなのだ。あ〜困った困った」
「……だから何がだ」
「いいから、お前は摘んで来た山菜の下拵えをしておけ。食べたくないからと、キノコや野菜も捨てたりするなよ」
「……ふん」
秘密の多い母に不貞腐れた顔をするも、言われた通り厨房へ向かう。
これ以上、母の困り顔を見たくはなかった。
♢♢♢
しかし、ロレンツォはその四日後にまたグレースの元を訪れた。
「…………」
「……お、お裾分けを持って来たんだよ」
母を困らせるロレンツォに、ヒルデガルトはキツい眼差しで睨み付ける。
生まれ持った大きな魔力と幼児と思えない威圧感に、ロレンツォもたじたじとなる。
「マローナはどうした」
「こ、今回は僕だけなんだよ」
「お裾分けは礼を言う。気を付けて帰れ」
お裾分けと言う野菜を受け取り、玄関先で追い返す。
「あの、グレースさんは……」
「お裾分けは礼を言う。気を付けて帰れ」
「…………」
見た事もない程に愛らしい見た目の幼女だが、圧倒的な魔力が滲み始めるヒルデガルトに反論など出来よう筈もない。
「……そ、それじゃあね。……はぁ」
去っていくロレンツォが見えなくなったのを確認し、
「……ふん」
家へと戻る。
「聞いていたぞ」
「…………」
煙管片手に腕組みをしたグレースが、苦笑いで待っていた。
「また心配をかけてしまっていたか。……すまなかったな」
「……あいつが嫌いなだけだ」
頭を撫でられつつも、機嫌の悪い顔を装う。
「次にマローナが来た時にははっきり伝えておこう。そうするべきだったようだ」
「…………」
「お前も覚えておけ。魔女と言っても様々だが、私達の魔女としての血統で受け継ぐのは、強大な魔力と〈緋晶〉だけではない。……優れた容姿もだ」
良い事の筈なのに悲しそうに言うグレースに、ヒルデガルトは小首を傾げる。
「男を魅了し、女を嫉妬させる。お前の考えている事は分かるが、何事も度が過ぎれば災いを招く」
自分達の容姿が常軌を逸して魅力的だと言っているにも関わらず、嘆いているように語るグレース。
「国や権力者は私達の美貌や能力を狙い、逃げた先でも男女の争いの原因となる。先祖の者達は、大体がそうした問題故に散っていった」
「…………」
「お前は私より私の母に似ている。将来はさぞかし美しくなるだろう」
髪や頬を撫で、グレースはヒルデガルトの未来を憂う。
「願わくば、お前の未来が明るいものでありますように……」
「…………」
額と額を合わせ、ただ一心に娘の幸せを願う。
………
……
…
後日、マローナと共にロレンツォがグレース家を訪れた。
「……あんたって奴は……情け無くて言葉もでないよっ」
グレースとマローナ、そしてロレンツォの3人でテーブルを囲み話し合う。
「神父様の前で誓った事を忘れたのかいっ!! あんたにゃ嫁がいるだろうに!! この大バカ息子!! 恥を知れっ!!」
家の外の窓から覗くヒルデガルトが微かに跳ねる。
いつも優しいマローナの激昂に、目を見開いて驚く。
「ぼ、僕はただ、ここに篭りきりなグレースさんが心配で……」
「この期に及んで……っ」
激怒で顔を真っ赤にするマローナに、ロレンツォは俯くばかりだ。
「マローナ、これでも飲んで落ち着け。帰りの体力が無くなるぞ」
「はぁ……はぁ……」
怒り冷めやらぬマローナへ、グレースが薫り豊かな紅茶を出す。
「……はぁ。グレース、あたしが間違ってた。本当に大馬鹿だった……。男は絶対に止めとくべきだったよ」
息も絶え絶えに、グレースへと謝罪する。
「気にするな。たまたま息子の好みだったのだろう。だがロレンツォ。私は先に逝った夫一筋だ。それはこの先もずっと変わらない」
「っ……」
はっきりと拒絶の意思を現したグレースに、ロレンツォの胸は締め付けられる。
言われるまでもなく自覚していた。
自分はグレースの虜となっているのだ。
「これで分かっただろ。あんたなんかお呼びじゃないんだよ。あんた、もしグレース達の生活を脅かしてみな。……親子の縁を切るからね!!」
「っ、そんな!?」
マローナの予想を超える怒声に、ロレンツォだけでなくグレースも驚きを現す。
「ま、マローナ、そこまで言わなくても」
「あたしゃ本気だよ」
決意を現す確固たる意思を宿した視線で断言するマローナに、グレースも口を塞がれる。
マローナの脳裏に過ぎるのは、幼い頃からの記憶。
まだグレースがマローナの母の友人だった頃からの思い出。
「グレース、あたしゃ安心して死にたいだけさ。こんなババアになるまで生きても、悔いなんざ残したくないのさ。あと気がかりなのは、やっぱりあんた達だけなんだよ」
「……マローナ」
いつもと同じ、頼り甲斐のあるマローナ。
湧き上がる感情を噛み締めるように、グレースは目を閉じて必死に涙を堪える。
「……お前には分からんだろうね! グレースがどれだけ苦労して来たか!!」
涙を流して息子に説くマローナ。
親友の苦労や苦悩、嘆きや悲痛を、少しでも伝えたいと……それだけだ。
「予めあれだけ説明しておいたのに……。……ッ! ああっ、情け無い!」
「…………」
項垂れるロレンツォが何を思うのか、それは本人以外には誰にも分からなかった。
………
……
…
疲労著しいマローナを置いて、ロレンツォだけが森を後にした。
体力の回復を図るマローナは、グレース邸にて暫し旧友との茶会に浸る。
「……うぇっ、ぐ、グレース、あんたは……。ヒルデちゃんに淹れさせてばかりだから、また腕が落ちちゃってるじゃないか」
「そ、そうか? ……そんなに悪くないと思うが」
「まぁた一から教えなきゃいけないね。全く、あんたは……。大雑把なんだよ、やる事が」
自分の淹れた紅茶を一口飲んだマローナのお小言に、グレースは怯え気味だ。
「……あ〜はっはっ。変わらないねぇ、グレースは」
「そう言うマローナだって、昔からそのままじゃないか……。料理などは叱られなかった試しがない」
「当たり前だよ、あんたは! ヒルデちゃんの口に入るもんだよ!? あの時のあんたの料理を食わせる訳にはいかないよ! また暫くは一から習い直しだ! 覚悟しな!」
「……ふん」
「膨れたっていけないよ! 観念しな!」
「…………」
初めて見る子供っぽい二人に、ヒルデガルトが呆然とする。
「……ん? おや、ヒルデちゃん。ごめんねぇ〜、待たせちゃったねぇ」
「……私は叱れないぞ」
叱咤を予め牽制するヒルデガルト。
「……ぷっ、アーッハッハッハ! ヒルデちゃんを叱りゃあしないよ!」
「全く、可愛いやつだ、お前は」
「こんなにいい子は見た事ないよ!」
和やかな時間を、女三人で過ごす。
それから数日間、マローナは連日グレース邸に通い詰め、料理を教えた。
グレースの腕前はほんの少しずつ上がっていく。
だが、それはマローナの合格を勝ち取るには程遠い。
「……はぁ、こりゃまた明日も同じので再挑戦だね」
グレースのスープを飲んだマローナが、嘆息混じりに告げた。
「やれやれ……」
「こっちのセリフだよ!! 貴重な香辛料をこんなにドバドバ使ってあんたはもぅ……」
「私は作れるからいいだろ……。香辛料についての文句はやめてもらおうか。魔女をなめないでもらおうか」
「美味しけりゃ目も瞑るけどね! 味が濃くて仕方ないんだよ!」
「…………」
むすっとして黙り込むグレース。
「おい、マローナ。私のはどうだ」
「おや、ヒルデちゃんのを一番に食べさせてくれるのかい?」
テーブルで試食をしていたマローナの服を引っ張ったヒルデガルトが、皿を差し出す。
「ま、また肉だけの炒め物かい?」
真っ茶色な料理。確かに美味しそうではあるが、シンプルに過ぎる品であった。
「これが一番美味しいに決まってる。母に言ってやれ。母は計算も出来ないみたいなんだ。野菜もキノコも混ぜてしまって、結果一日に食べる肉の数を減らしてる事に気付いてない」
「そ、そんな風に母の事を思っていたのか……?」
ヒルデガルトの毎日の食事への不満に驚愕するグレース。
「アッハッハ! あんたが野菜を美味しく料理できりゃあ、ヒルデちゃんの考え方も変わるよ! 努力しな!」
「……ふん」
楽しい時間を過ごす。
いつものように。
母と娘、たまにマローナを加えて楽しく……。
「マローナ、無理してないか?」
日も落ちつつある時刻、玄関からマローナを見送る。
「……死んだ後は退屈だって言うじゃないか。少しくらいはあっちに持って行く思い出を作ったっていいだろ?」
「縁起でもない事を言うな……」
「安心しな。あんたがまともな料理を作れるまで、意地でもくたばったりゃあしないよ」
「……あぁ、そうだな」
若き日と何ら変わらない溌剌とした友の雰囲気に、グレースも穏やかな笑みを浮かべた。
「…………」
マローナが去って暫くした夜、月明かりを頼りにグレースが静かに酒を飲む。
マローナがいたせいか、はしゃぎ気味であったヒルデガルトは既に就寝し、一人でグラスを傾けていた。
「……っ」
酒を注ごうとする手が止まる。
「…………」
目を閉じる。
苦痛を堪えるように強く……。
……やがて、月を遮る雲が通り過ぎた頃合いに目を開く。
そして席を立ち、寝室の娘の元へ歩み寄る。
「……ヒルデ、起きてくれ」
幸せそうに眠る天使のような娘の頬を数度撫でてから、小さく肩を揺すって起こす。
「う〜ん……なんだ、腰は揉まないぞ」
「腰を壊した訳ではない、お前は全く……」
言葉とは裏腹に、底抜けに優しげなグレースの微笑み。
グレースは、ヒルデガルトを柔らかな手付きで抱き上げる。
「……? どうした?」
「魔女の話をしようと思ってな」
明かり射し込む窓へ歩み、腕の中のヒルデガルトへ語る。
今する話では無いと怪訝に思うヒルデガルトだが、母親の穏やかに過ぎる表情に反論する言葉が出ない。
「お前も知っての通り、私やお前は……最も魅力的な容姿に到達した時点で老化が止まる。容姿があまり変わらないエルフに似ているし、一生美しいままと言えば聞こえはいいが、他者から見れば歳を取らないと言うのはとても都合の良い事なのだ。女としても、戦力としても……」
「…………」
他の人間を知らないヒルデガルトには、自分の容姿のレベルが理解出来ない。
だが、グレースの言葉を聞けば聞く程、自然と危機感が募っていくようであった。
「特に権力者にとっては、どのような犠牲を払っても手に入れたい存在なのだ」
「権力者……?」
「そうだ。私の母は、帝国から私を逃すためにその身を犠牲にした」
「っ…………」
いつもグレースが自慢げに語る、自分にとっては祖母にあたる存在。
「今、結界の中に大勢の者が踏み入った」
「えっ……だ、誰だ?」
「帝国兵だろう。ここへ迷わず踏み入れるのは、渡してあった護符を持つ者だけだ。ロレンツォが私達の事を喋ったか、あいつの嫁か……。……マローナかもしれないな」
「っ……!? う、嘘だ!!」
あれだけグレースと仲の良かったマローナが……、自分にあれだけ優しかったマローナがと、ヒルデガルトが叫んだ。
「外の世界は残酷だ。人の感情などすぐに変わってしまう。覚えておくんだ。……善があれば、悪がある。誰もが醜い部分を抱えて生きている」
「そんな……」
弱々しく意気消沈するヒルデガルトにも、尚も柔らかく語りかける。
「……本当は、もっと時間をかけて教えてやりたかった」
髪を撫で、頬を撫でる。
精一杯の愛を捧ぐように。
撫でる手を止めないまま、グレースは居間ある地下への扉へ歩んでいく。
「……お前は寂しがり屋だから心配だ」
「母……?」
純真な目で自分を見上げるヒルデガルトを一度強く抱き締め……、……暫くしてから地下に作ってあった僅かなスペースへ下ろす。
「きのこや野菜もきちんと食べるんだぞ?」
「何を言っている……?」
辛抱堪らず寂しげになってしまう表情で、娘へ告げる。
「ヒルデガルト……お別れだ」
「っ……!?」
言っている意味が分からない。
理解したくもない。
だが、グレースはヒルデガルトを撫でる手を止めず、続けた。
「帝国兵は私が必ず始末する。母がそうしてくれたように……。必ずお前を守ってみせよう」
「…………」
ヒルデガルトの小さな手が、グレースの裾を掴む。
強く、思い切り……。
「……ダメだ」
「ヒルデ……」
離してなるものかと、グレースを見上げて言う。
「母は寝汚いから私がいないとダメだ」
「……そうかもな」
「母は紅茶をいれるのが下手だから、わたしがいないとダメだ」
涙が流れ落ちる。
「……そうだな」
「ダメなんだ……。……母には私がいないとダメなんだっ!!」
ヒルデガルトが叫ぶ。
母の決意を何としてでも崩そうと、堪え切れない涙のままに。
「……その通りだ。お前の言う通りだ」
「うぅ……っ」
目元の潤むグレース。
「お前がいないとダメだ。お前が生きてないと、……私はダメなんだ」
腰元から取り出した蝶の髪飾りを、ヒルデガルトの髪へ刺す。
「な、なんだ……?」
「少し早めの誕生日プレゼントだ。似合っているぞ。お前以上に可愛い者などいない。本当だ」
「母よりか……?」
「あぁ。私やお前の祖母よりもだ」
「っ……とうぜんだっ」
涙を乱暴に袖で拭うヒルデガルト。
「っ……!?」
「……すまない。未熟な母を許せ」
袖を離した視界に、一輪の花が翳されていた。
それは、よく眠れない夜に母が摘んできてくれた睡眠草。
「っ、は、母……」
「ヒルデ、愛している……」
両手で撫で付けるグレースの手を掴むヒルデガルト。
「誰よりもお前を愛している……」
「い、いやだ……いやだっ……」
額に口付けをして、最後の愛を囁く。
「愛しているぞ……。これまでも、これからも。永遠にだ……」
「は、は……………」
涙を流して眠りにつく我が子を見守り、遂に一筋の雫を溢してしまう。
――どうか……どうか強く生きてくれ、私の愛するヒルデガルト……。
……震える手で地下への扉を閉じ、涙を落としながら防護魔術で封をする。
「…………」
そして外へと歩み出る。
扉を出た先に見えたのは、遠くから近付いて来る篝火。
いつか見た憎き灯火。
「……すまない、アルフレッド。お前が私と腹にいたヒルデガルトを逃してくれたと言うのに、私と来たら……」
五年前、帝国兵から自分達を逃す為に犠牲となった夫を思う。
目の前で強大極まる帝国兵が、同行や脅迫を口にするもそれどころではない。
そんな事に構う時間はない。
「……マローナが無理をしていなければいいのだが……」
お節介な親友を思う。
紅き魔力が迸る。
かつてない力強さで、森林を紅く照らす。
グレースの背に、紅の怪物が現れた。
「母よ、私の娘は美しくなるぞ……」
夜空を見上げ、三十五年前に自分を逃してくれた母へ告げた。
「そちらで存分に語ってやる。待っていてくれ……」
眼前まで迫っていた帝国兵が騒つく。
「全てを、我が娘ヒルデガルトへ捧げるッッ!!」
大きく手を広げ、誇らしげに最後の魔術を解き放つ。
「――〈
灼熱の燃える結晶が、森林を覆った。
腕組みをして凛々しく立ちはだかるグレースの身ごと、何もかもを紅蓮の業火で呑み込んでいく。
大軍で押し寄せた帝国兵など、易々と燃やし尽くし、一匹も残してなるものかと尚も広がる。
そして……。
……ヒルデガルトよ……どうか幸せに……。
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