4章-2

 そこで待てと言われたら、犬ではないが待つしかない。胸に手を当てて祈りを捧げる彼を、僕は少し離れたところで直立して待つ。


 あの老紳士シュア・スピアードは、僕と関わりのある2人の少女の叔父だった。

 2人の少女のひとりは、スァラ・スピアード。5年前に僕を助けたまま行方不明になってしまった、科学者の少女。

 もうひとりは、その妹ラフテル・スピアード。他ならぬ、今僕の事務所にいる<プレッピー>その人だ。


 2人を産んだ両親は2人が幼い頃に早逝してしまい、彼女たちを引き取ったのが叔父のシュア氏だという。そうした不幸があったとは言え、このシュア氏も含めてスピアード一家は60階あたりに住まうやんごとなき殿上人。将来も立場も約束された高貴な生活の下、スァラは飛び級で学才を発揮したし、ラフテルはそのスァラが「才覚に恵まれている」と口にするほどで、絵に描いたような富裕層と言える。


 常識的に考えれば、60階に住むスピアード姉妹の人生と、5階やそこらを根城にしている僕の人生は交わるはずのないものだ。少なくとも、階層に区切られたお城の中の社会で生きている限りは。

 しかし、お城の外へ人々を駆り出した征察事業がそのくびきを打ち破った。スァラは研究の一環として、僕は輸送担当者として、共に階層で言うところの“0階”とも言うべき、砂とようだらけの汚染された地べたに立って互いに肩を並べた。

 こう言うとむずがゆさを感じてしまうが、僕とスァラはまさに「征察事業のおかげ」で出会えたと言ってよかった。


 ところが、まるで高利貸しが落とし前をつけに来たように、僕とスァラを引き合わせた征察事業の幕引きは、スァラとの死別という形で訪れた。

 スァラを助けられなかったあの日、たったひとりで帰城した僕は、その報告と謝罪のためにこのシュア・スピアード氏を訪れることに決めた。誰かに「そうしろ」と言われたわけではなかったけれど、ただ衝動的にそうすべきだと思った。

 と言っても、僕の出自と立場で軽々しく60階まで上がれるはずもない。だから訃報を聞かせるためだけにシュア氏にわざわざ20階くんだりまで降りて来てもらうという、今思えばひどく身の程知らずなお願いもした。

 そんな情けない呼びかけにも関わらず、シュア氏はきちんと20階まで来てくれた。

 そして、僕の報告を聞いて、殴りも罵りもうろたえもせず、ただ「君だけでも無事でよかった」と言って、肩を抱いてくれたのだった。


――てっきり僕は罰されるものだと思っていた。顔の形が変わるぐらい殴られることも、半殺しにされることも覚悟していたし、そうでもされなければ自分の犯したことは清算されないと思っていた。

 けれどシュア氏から受けた仕打ちは全くそうではなく。まるで眼に映る全てが僕をだまくらかしているような、妙な浮遊感に包まれたあの感覚を、僕は忘れない。優しくされるのがかえって辛いとはこういうことなのかと、その時初めて学んだ。


 シュア氏のそういう態度は、少し後になってラフテルが僕の事務所に転がり込んで来た時にも見られた。どうもラフテルは家出同然に飛び出してきたらしく、叔父には言うなと口留めされた。けれども、社会常識的に考えて若い娘さんが仕事場に転がり込んできたことに、むっつり鼻の下を伸ばして黙っているわけにもいかない。それがあのスァラ・スピアードの実妹となれば尚更だった。

 僕は再びシュア氏にこっそり連絡を取って、下階層までお越し頂いた。事情を説明すると、その時もシュア氏はすんなりと僕がラフテルを引き受けることを承諾してくれた。

 揉めずによかった、と安堵した気持ちもないわけではなかったが、どうして何の文句もなく彼女を僕に任せる決断ができたのかが理解できなかった。疑ってかかろうと思えば、僕がラフテルを拐わかした可能性だって否定できない状況だったと言うのに。



 そんな具合で、率直に言うと僕はこの老紳士が不気味だった。

 僕が彼の立場なら、自身の兄の忘れ形見である2人の才色兼備の姪の内、1人を救えず、1人をいつの間にか手下にしてしまった“ボトムズ”の運び屋の小僧など、殺してもお釣りが来るほど嫌悪するに違いない。

 果たして、姪たちを心底愛している人が、こんなにも僕を責めないものだろうか。

 この老紳士のそういう生やさしい振る舞いは、ただ純粋に彼の温厚さ故と見なしてよいのだろうか。

 それがはっきりしないところが、不気味に感じてしまう所以だった。



 彼の黙祷が終わった後、墓地の隅のちょっとした段に並んで腰かけると、シュア氏の方から口を開いた。

「ラフテルは、元気かね」

「ええ、はい、それはもう。仕事も一生懸命に取り組んでくれています。僕がこう言うのも何ですが、ただの運び屋なんかで収まるにはもったいないと思います」

「あのが我が家を飛び出してもう2年になるか。顔を見せに来ることも、1本の便りもない。不孝者め」

 シュア氏は微笑みながら毒づいた。「しかし、便りのないのが良い便りということだな。何かあれば、君からも連絡があるだろうし」

「たまには里帰りするよう、お伝えしておきます」

「いやいや、年寄りの小言を真面目に受け止めんでいい。期待せずに待っておくさ」


「……先ほど僕がここに来るのは仕事の前だと申し上げましたが、また明日から僕とラフテルは外へ出ます」

 僕は半分謝罪するように言った。上階層に暮らすシュア氏からすれば、お城の外に出ることがどれほど危険かを大げさなぐらいに受け止めるだろうから。

 そして、最悪の場合にはラフテルが里帰りする機会も金輪際なくなってしまう恐れがあるから。

「ラフテルも、もう何度も城外に出ているのか」と彼は尋ねた。

「今度ので12、3回目だったかと思いますが、慣れてきましたね。とは言っても、慣れたから安全とも言えないのが我々の仕事です」

「今度の案件とやらは、うまく行きそうなのか」

「それは何とも……」

 僕は口ごもった。具体の内容については部外者のシュア氏に漏らしてよい話ではない。「まぁ、外に出る以上はどんな案件だろうと安全は約束されませんから」

 一般論でお茶を濁しにかかった僕に、シュア氏は思わぬ切り返しを寄越した。


「“黒狼”が動くという話を聞いたが」

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