悪夢の震源

悪夢①

     *



 僕は時々、悪夢を見る。

 その夢は、穢鳶えように追われて、僕があの少女と一緒に焔脈に飛び込んだ、あの瞬間から始まることが多い。


 当時の記憶が鮮明に再生されていく。

 今まさに「生」を喪うかも知れない緊迫感と、一連の作戦失敗により多数の死者が出ていたことへの絶望感。

 その2つの感情の激しいせめぎ合いが僕の意識を埋め尽くしている。

 恐らくその副作用として、僕には全てがスローモーションに見えていた。まるで性能の足りない脳みそが処理落ちを起こしているかのように。



 焔中渡航では、運ぶ人が運ばれる人よりも先に飛び込むものだ。

 だから、彼女と僕は並列と言うよりも直列になって、僕が先に焔脈へ飛び込んだ。

 飛び込みながら背後を振り返った時、僕を見つめる1対の少女の瞳が確かにそこにあった。


 彼女が付いて来たことを認めて、僕は前方の焔素の海へと向き直った。

 頭の方は妙に駆け足で回転しているのに、筋肉の反応はじれったい。

 粘度の高いどろりとした焔素の感触がつま先まで呑み込むように浸透するのに、だいたい1秒間。僕の全身が焔脈に潜り切った。

 後ろの少女も潜り切ったであろうタイミングで、僕はもう一度背後を振り返った。


 そこに少女の姿はなかった。


 え? と僕は眼をしばたたいたが、見間違いではない。

 既に彼女はそこにいなかった。あるのはその事実だけだった。

――ああ、そうか。焔脈に潜り切る寸前に穢鳶えように捕まって引きずり出されてしまったのか、と思い至り、僕は愕然とした。


 このままおめおめ帰っていいのか。誰ひとり――僕を助けてくれた人さえ踏み台にするような真似をして。例え間に合わなかったとしてもすぐに戻るべきだ、と僕の中の一方が叫ぶ。

 でも、もう一方では冷静沈着に戻るべきでない理由が淡々と計上されていく。その最たるものは、穢鳶えようによって外に引きずり出されたということは、彼女は既に穢鳶えように触れられているということ。その時点で彼女はもう生きてはいまい。

 よしんば、ただ飛び込む直前にコケただけだとしても、穢鳶えように捕まるかどうかのタイミングで焔脈に飛び込んだことを考えれば結末は変わらない。そうであるなら、今から取って返して外の穢鳶えようを撃退したところで、それは僕にとってもヒトにとってももはや何の勝利も意味しない。


 しばしの逡巡を経て、僕はお城へ戻ることに決めた。

 彼女の死は確実で、今更引き返したとしても僕の自己満足以上の意味はない。もう全ての勝負は終わっている、僕はお城へ帰るべきだ、と。自分に言い聞かせるように、僕はそう胸の中で唱えた。


 そこで、やはり僕は告白しないといけないと思う。

 その判断を――消えた彼女をそのまま見捨てて自分だけが帰城するという判断を下した時、内心僕は「ほっとした」ことを。「安堵」したことを。「これで危険の方には行かなくていいのだ」と思ってしまったことを。

 その判断と降ってわいた感情を正当化するための言い訳を並べることはできても、否定する言葉は思い浮かばないことを。



 そうして僕らが飛び込んできたあの澪の方から、進行方向へと向き直ったその時。

 僕の眼前いっぱいに、彼女の顔があった。

 ここから先は記憶の再生ではなく、悪夢の幕開けだ。そこにいたはずのない彼女は、何か愉快だとでも言うように笑みを浮かべ、その口をカタカタと動かして僕に言う。


 せっかく仲良くなれたのに

 あなたを信じて、助けてあげたのに。

 あなたはさっさと逃げるのね。

 自分ひとりだけ。


 彼女の浮かべている笑みが、僕への純真な好意や親しみでないこともすぐに気づいた。

 彼女が発する言葉もそうだ。

 前頭筋からオトガイ筋に至る表情筋の調和が織り成す、一見知的で柔和な彼女の笑顔の中で、その眼だけは全く笑っていない。

 それこそ、彼女が焔脈に飛び込もうとした最期の一瞬に、僕と眼が合った時のそれだと気づく。

 彼女の最期の眼差し。一足先に焔脈へ飛び込んだ僕に追いすがろうとする、切迫した眼差し。

 その眼差しで、彼女は僕に「どうして?」と問い詰める。


 どうして?

 どうして?

 どうして私は見捨てられたの?


 やがて、彼女の不気味な笑顔の腐敗が始まる。

 吐き気をもよおす腐臭が立ち込め、柔らかそうだった頬はみるみるどす黒く乾き始め、きれいな髪もぱらぱらと抜け落ち始める。しなびた皮と肉の内側からはぽろぽろと蛆が溢れ出し、“彼女”がどろどろと溶けていく様子は、生物と物質の深い谷間に自由落下していくよう。

 恐ろしいことに、そんな姿になってもその眼球だけは、生物的作用としての腐敗プロセスとは無縁のように形を保ったまま、突き刺すように僕だけを睨みつけている。



 わかっている。

 彼女がこうなってしまったのは、僕のせいだと。彼女が死ぬとは、こういうことなのだと。

 僕が助けられなかったから、彼女は誰にも看取られず、葬られることもなく、その亡骸はこうして城外のどこかの荒野にさらされたまま醜く腐敗していく。

 彼女の言う通り、僕は彼女を「見捨てた」。焔脈に飛び込む時だって、僕が先に飛び込まず、一緒に飛び込んでいれば。せめて手を握りながら飛び込んだだけでも、あるいは間に合ったかも知れないのに。


 この悪夢に現れる彼女も、そのことをわかっている。

 だから、彼女の肉がほとんど腐り落ちても、その眼が僕を睨みつけ、ケタケタと嘲るように嗤い、「どうして?」の問い掛けを止めることはない。僕が答える言葉を持たないことをわかっていながら執拗に尋ねるのは、憎悪と敵意故に他ならない。


 もう許してください、と僕は許しを請う。

 仕方がなかったんだ、と言い訳もする。

 本当は君と一緒に帰りたかった、それだけは本当なんだ、と泣き言を並べてもみる。


 けれど何を言っても、彼女の眼は絶対にそこから動かない。

 その眼はずっと僕を見つめている。ずっと僕を追いかける。

 悪夢の中である限り、舞台や場面が変わってもそう。

 この悪夢が始まれば、誰かと話していてふとその背後に眼を遣った時も、自分の事務所で歯を磨いていてふと鏡を見た時も、エレベーターなどの密室に逃げて一息ついてからふと顔を上げた時も、些細な空間に彼女の眼差しは現れて、僕を責め立てる。

 そうして何時間、何日悪夢の中であがいたかわからなくなってきた頃に、彼女は決まって一言だけを残して悪夢を終幕させる。



――憶病者。



 そこで僕は眼が覚める。

 息がすっかりあがっていて、額や首にはじっとりとした汗が浮かんでいる。

 さすがにもう一度眠る気になれないし、部屋の暗がりに良からぬモノが見えるかも知れないという恐怖から、僕は部屋の電気を灯して朝まで時間を潰すことになる。

 例えば、本を読んだ。罪の物語、罰の物語、贖罪の物語、救済の物語。そういった本を、自分を慰めるように。


 夢の中の彼女は、“僕”の後悔と罪悪感が生み出した幻影なのだろうか。

 それとも、“彼女”からの復讐なのだろうか。

 残念ながら、本がその答えを教えてくれることはない。そう気づく度に、僕はこの問題は他の誰でもなく、自分自身で蹴りをつけるべき話であることを確認するのだった。



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