想到のコラテラル

文長こすと

序章 ある才媛に問い掛けを

序-1

――シンカー……、<シンカー>!

 仕事上の通り名を呼ばれながら、僕は小さな手に胸ぐらを掴まれ揺さぶられていたことに気づいた。

 自分のまぶたがわずかに開いて、朧気ながらも空が見えた。その手前に、迫真の形相で僕の顔を覗き込む少女――と言っても同い年ぐらいだが――がぼやけて見えた。少しずつ視界の焦点が合いだすにつれて、(あぁ、見覚えのある顔だ)と他人事のように思った。


 落ち着け、そんなに叫ばなくても聞こえている。

 そう答えようとしたが、少女の形相は僕に落ち着くことを許さなかった。

「立って! いつまで寝ている! “装知”して、今すぐに!」

 そのまま巴投げされるかと思うほどの勢いで、僕は上体を引き起こされた。

 どうやら僕は今まで気絶していて、今すぐここから逃げなければまずいことになるようだ


 が、まるで身体の力が入らない。僕の身体に欠損や損傷はないようだが、どこかを負傷しているのかもしれない。

 やや力の入る片足をつっかえ棒のようにして、彼女に寄りかかり、僕はようやく自重を支えることができた。そこまでひと仕事だったのに、彼女はせっかちにも僕の肩を抱いたまま猫のように走り出そうとした。



 ちょっと待ってくれ、どうしてそんなに必死なんだ。

 そう尋ねそうになるが、すんでのところで思い留まった。

 第一に、彼女は貴重な科学者だった。幼少の頃から知性と才能を認められ、僕と歳も違わないのにもう立派に大人たちと肩を並べていて、組織の中でもきちんと自立している。これからの人類の希望となるはずの人的リソースだ。身分も立場も背負うものも、僕とは雲泥の差がある人なのだ。

 だから、僕はせめて彼女だけでもきちんと僕らの「お城」まで連れて帰らねばならない。


――いや、それだって、ただのビジネスライクなお題目に過ぎない。彼女に関してもっと大切なことがある。

 彼女は以前、妹がいると言っていた。

 両親を失くした身としてその妹をどれほど大切に想っているか、どれだけその妹には才気があって将来有望なのか、そしてその最愛の妹を「お城」に残して出征した決断がどれほど悩ましいことだったか。そういう話を、こちらから尋ねてもないのに静かに、熱心に語ってくれたことを思い出した。

 きっと、それこそ彼女が僕を急き立てる、最も根本的な理由なのだ。


 そう、彼女にはこんなところで無様に死ぬわけにはいかない確固たる動機があり、またそんな死に様に値する人間ではなかった。



 そういう彼女に引きずられるような二人三脚が始まるにつれて、一端の男としてせめて足だけは動かさねばいう意識がようやく働き始める。仕事再開だ、僕も働かねばならない。

 鳥のように首を振って辺りを見渡すと、すぐに絶望が訪れた。飴色に沈んだ夕暮れの荒野の中で、びくともしない倒木みたいに身体がごろんと30、いや50は折り重なって倒れている。風はなく、音もない。彼女と僕以外に立って歩く者もいない。


 まるで戦場みたいだ、と僕は思った。

「まるで」というのは、僕はせいぜいフィルムやフォトグラフの中の、伝聞的でバーチャルなものとしてしか戦場を――戦争を知らないから。

 国家やそれに準ずる集団間における武力を伴う衝突、という意味での「戦争」はとうに絶滅していた。単純明快な理由だ。今日における人類の総人口とそれを支えるか細いインフラが、戦争などという贅沢をもはや許さなくなったのだ。今となっては、古代中世における専制君主の威容に満ちた戦記物語も、近代における列強国間の破滅的な国家総力戦も、文明崩壊前の旧社会に蔓延していた”ディール”と信仰とテクノロジーが入れ子になって輻輳する地域紛争・テロ掃討も、既に頭のぼけ始めた老人が滔々と語っては若者をうんざりさせる類の昔話でしかない。

 だから僕には戦場が何たるかは究極のところわからないけれども、それは恐らくこんな風に無造作に骸を散らしたようなものなのだろう。



 ただ、それにしては遺体はどれも精巧な銅像みたいにきれいに見えた。血も流さず、涙も出ず、その顔が苦悶に歪むこともなく、寝ている間に「たましい」だけがふっと連れ去られたかのように彼らは死んでいた。僕がフィルムとフォトグラフで知る限りの戦場は、もっと血反吐にまみれた凄惨な現場であるはずだけど、目の前の光景は不気味なぐらいに静かで大人しい。こう言って差し支えなければ、その遺体と死に顔は、むしろ穏やかで美しかった。


 あれらの遺体が美しいことの理由(つまりは死因だ)は誰でもわかる。彼らは“奴ら”に食べられて失命したのだ。“奴ら”にやられると、皆ああして死ぬ。残酷だった。と言うのは、あたかもほんの一滴の蜜だけをすすられて、残りの莫大なフィジカルを無残に廃棄されたかのように見えるから。

 傷もなければ、苦痛を感じた様子も伺えない。では、彼らは一体何を食べられて死んでしまったのだろうか。まさか、本当に「たましい」とでも? そんな宗教じみた話は馬鹿げている。どうせ食べられて死ぬのなら、徹底的に血肉をしゃぶり尽くされ骸骨だけにされた方が、まだ生物として納得できる気がしてならない。



 そんな思索が頭をよぎりながら、おもむろに僕は背後を振り返る。

 50歩ぐらい先のところに、その“奴”が――両翼を広げた巨大な鳥の影のような、一塊の黒煙が漂っていた。いや、それは一見すると黒い煙のように見えるというだけで、ただの煙などではない。

 怒り、無力感、畏怖、強がり――それらの感情をたっぷり込めて、我々が“穢鳶えよう”と呼ぶ正体不明の化物だ。

 奴らこそがこの周囲の数十の遺体を生み出した元凶、そしてかつて緻密な社会システムを築いていた旧文明を崩壊に追いやった元凶だ。あれに物理的な攻撃は一切効かない。触れたら最後、僕も遺体の仲間入りだ。唯一対抗できるとすれば、それは「焔術」という特殊な技芸を使用する他ない。

 その穢鳶えようは翼をかざして滑空するのようにゆらゆらと虚空を回頭し、流動的に姿をくねらせながら、最後に生き残った僕たち2人がどこへ逃げようとしているかを伺っているように見えた。



 同時に、胸の奥からまた別の憤りが沸々とこみ上げる。

 嗚呼、何という無様。

 僕は奥歯を食いしばる。事前のブリーフィングでは明らかにこんな話ではなかった。


 ほんの半日前まで、僕らの1個分隊の任務は、この場所に駐屯することで先行した前線部隊の退却路を確保することだった。僕は人員や資材の輸送担当のひとりとしてそこにいた。後方待機だから、作戦が順調であれば特に何でもない役目のはずだった。しかし、作戦は順調にはいかなかった。確保した縦深の先から、巨大な鉄槌を振り押されて釘の先がひしゃげるように前線が押し戻され、気づけば僕のいるこの場所がほぼ最前線になっていた。

 僕のそばには同じ輸送担当として頼れる上司や同僚が複数いたけれど、彼ら彼女らは前線から命からがら撤退してきた兵の一群を、後方までピストン輸送していったばかりだった。急襲されたのは、折悪しくもちょうどローテーションの谷間で輸送担当が若輩者の僕ひとり、あとは退避待ちの戦意なき兵士たちと、何やら調査目的で帯同していたあの少女を含む一団の、約50名でこの地に留まっていた一瞬だった。

 50人もの人数を一度に輸送できる技量は、当時の僕にはなかった。だからせめて救える人数だけでも運ぼうとしたのだけど、仮に50人の内の20人だけを運ぶとしたら、置き去りにされる残り30人は実質的に見殺しだ。「50人全員死ぬよりマシだろ」と僕が叫んだところで、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる兵士たちにそんな割り切りの良い論理が響くはずもない。

 説得する時間もないまま混乱は頂点に達し、挙句揉み合いに発展して誰かに殴られたか倒されたかしたあたりから記憶がない。


 そして、彼女に叩き起こされた時にはこの惨状だ。確かに、援軍を待つ時間もなければ、時間稼ぎができるだけの戦力もない。


 逃げなければ。


 寝ぼけた脳髄が、それをようやく理解した。

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