11章15節

 ぼんやりと遠ざかっていく意識の中で、エスターは遠い日のことを思った。

 耳を、親愛と忠誠を捧げた人の声がよぎる。

『騎士というものは、形のことではないだろう? 世襲で与えられ、金銭でやり取りされる権利のことでもないはずだ。己の心がどうあるか、どう理念を実践するか、それこそが騎士の価値を決める。お前の価値もまたそうだ。お前自身がお前を価値のないものと見なすのは勝手だが、その命がある限り、償い、罪を覆すこともできよう。そうだろう? エスター』

 命惜しさに、我が身かわいさに、脅迫に屈して悪事に加担した。告発することも、主人を止めることもできずに、ただ言いなりになるばかりだった自分を叱責し、窮地から救い上げて名誉挽回の機会をくれた。この人ならば命を捧げても惜しくない。この人の行くところなら、どこへでもついていく、そう思って幾歳月。

 貴方も、ここで滅ぶのだろうか。自分たちが信じた民が選んだという、新しい王の手に掛かって。最後の騎士として、ここで滅んでいくのだろうか。

 自分たちの何が間違っていたのだろうか。判らない。でも――。

 共に逝けるのなら、この終わりもまた、いいと思えた。

「ベリンダ……貴女の言う通りでしたね……」

 声にならないその思念。それがエスターの、最期だった。

 一方、エスターに捨て身の一撃を食らわせたブレイリーも、遠くなっていく意識の中で、過去の記憶を甦らせていた。

 死の床に呼ばれたのは、息子であるセプタードと自分だけだった。彼らの剣の師は自分たち二人を見上げ、かすれた声で最期の言葉を告げた。

『カティスを、守れ……』

 遺言の意味は、セプタードと自分には判っていた。カティスの祖母が彼の家を訪ねてきたあの日――あの戸口で唇を噛み、真っ青な顔をしていた彼を見た時、自分たちの心は決まった。

 誰にも、奴を連れてはいかせない、と。

 誰にも、奴を私欲のために利用させはしない、と。

 そう思って、影で幾人もの人間を葬った。

 そして二年半前のあの日。

 噂を聞きつけた。カティスが風変わりな奴を拾って、レーゲンスベルグに戻ってきたと。だから自分たちは、見定めようと思ったのだ。そいつの正体を――そいつの企みを。

 事と次第によっては、カティスの目の届かないところで始末しようと思い、そして現れた奴を見た瞬間、悟った。

 それは直感としか言えない。だがその瞬間、判ってしまったのだ。

 ああ、こいつが、カティスを城に連れていくのだと。

 こいつはカティスを王にするために、ここに送り込まれてきたのだと。

 だが、一目見た瞬間、同時に感じてしまった。

 こんなの反則だ、と。

 こいつは殺せない。殺せはしない。

 なぜなら、彼はあまりにも似すぎていたのだ。運命を恨むより、周りを、環境を恨むより、己を責めてしまったあの幼い日のカティスに。

 泣き出しそうに目を見張り、だが泣くこともできずに佇んでいた、あの日のカティスに。

 傷ついているのだと悟った。そして、カティスと同じように傷ついていくのだと悟った。カティスが望まなかったように、彼もまたその道を望まないのに、同じように運命の道に取り込まれていくのだろうと悟った。

『ブレイリー!』

 声が耳に甦る。まるで小犬が尻尾を振るように、嬉しそうに自分を見上げるその笑顔。

 壊れてしまうだろう、その笑顔は――彼は。それが判っていても、何もできない。

 行かせたくなかった。守ってやりたかった。けれども、それは叶わない。

「何が……英雄だ……あいつらの、気も、知らないで…………」

 腕に感覚がない。おそらくもうこの手は使い物にならない。傭兵業ももはや廃業だろう。だがそれも、惜しいとは思わなかった。

 隻腕でも、皿運びくらいはできるだろうか。セプタードが雇ってくれないかな――そんなことを考えたブレイリーは、くつくつと小さく笑った。

 それだって、生き残ればの話だろうが、と残されたわずかな力で彼は笑う。

 目の前に、光が見えた。光り輝く玉座。至尊の御位につく人の姿。その愛しい影。

 見たい。その姿を――奴らが作る国を。

「ブレイリー、ブレイリー!」

 彼は光の中で、幼馴染みの声を、遠く遠く聞いた。



 ぱたん、と扉が閉まった音を聞き、フィリスは自分を見下ろしている男に、荒い呼吸で問いかけた。

「一つ、お聞きしてよろしいか?」

「……何だ?」

「どうして貴君は、王になろうと思われた?」

 誰もが聞きそうなことだったのに、今まで誰も聞かなかった問い。死にゆこうとする敵からの問いかけに、カティスは誠実な胸の内を明かす。

「正直、俺は自分がよい王になれるだなんて思ってない。頭は悪いし、学もない。政治のことも、国のことも何にも判っちゃいない。こんな俺が王になって、国民を幸せにできるんだろうか――正直そう思ったさ」

「それならば、どうして」

「だが、そこで考えたんだ。それじゃあ、幸せとは何だろうと。どうなることが民にとっては幸せなんだろうかと。考えに考えたんだが、結論は出なかった。裕福に暮らすことが幸せな奴もいるし、貧しくても清らかに生きることが幸せという奴もいる。名誉こそが幸せという奴だっているし、自ら汚名をかぶる奴だっている。働かなくても食えることが幸せだという奴もいるし、働くことで得られる充足こそが幸せだという奴もいる。結局、幸せの形は千差万別で、一つの考え方で量ることなんてできやしない。そこで悟ったんだよ。一人の王の――国の施策や方針で、民の全てを幸せにしてやることなんて、どだい無理なんだってことをな。多分、幸せにしてやろうなんて発想自体がおこがましいんじゃないか」

 小さなため息を、カティスはもらした。

「それじゃあ逆に、不幸とは何だろう、と考えた。これも簡単に答えが出る問題じゃない。千差万別な幸福があるように、それと同じだけの不幸がある。だが一つだけ、全ての人間にとってじゃないが、ほとんどの人間にとって不幸と感じられることがあるだろう、と思った」

「……それは?」

「死ぬことだ」

 きっぱりと、カティスは言った。

「人は必ず死ぬ。生き残ることだけが、価値のあることだとは言わないし、命を賭けて何かを成そうとする者の意志を、不幸だと決めつけられはしないことも判っている。けれども大概の者にとって、自分の人生が、生活が、望みが、病や事故や戦争で途中で打ち切られてしまうことを、幸福だとは思いはしないんじゃないか。俺はそう思う。ならば、俺が王になることで、たとえ何人かでもその不幸から遠ざけることができるのならば――内戦を回避して、不本意な死から民を一人でも遠ざけることができるのならば、俺が王になる意味もあるんじゃないかって、そう思ったんだよ」

 カティスの言葉に、フィリスはああ、と嘆息した。

 民のためを思ってきた。民のためならば、この命も差し出せると信じて。

 だが。

 観念と、覚悟の念が、胸いっぱいに広がる。

 勝てない。これでは、はなから勝てはしなかったのだ、自分たちは――。

「最期の願いを、聞いてもらえるか?」

「……何だ?」

「止めを刺して、もらえないだろうか。できることならば、レヴェルで」

 フィリスの懇願に、カティスは静かに頷く。

「……承知した」

 フィリスは満面に穏やかな笑みを浮かべ、そして。

 剣が床石を食む、鈍い音が響き渡った――。

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