11章9節

 明けの刻、アルベルティーヌ市内の宿営。そこでは予想通りの騒動が巻き起こっていた。

「殿下、おやめください!」

「御身に何かございましたら、それで全てが終わってしまいます!」

「会戦と今回は、わけが違います。殿下自ら剣を取って戦わなければならない理由が、どこにありましょう!」

 ほとんど涙ながらに訴えかける側近や諸侯の言葉を全て無視し、カティスは身支度を整える。

 王子として名乗りを上げてから、何度か衣服を変えたが、今日選んだのは母が用意したあの服。緑の上下と白のマント。それが一番、城に赴く今日の気分にしっくりと来た。

 重量がかえって負担になるから、甲冑は身につけない。革の肩当てと胸当てをつけて、革手袋をはめる。

 剣帯にレヴェルをつないで、天幕の外に出ると、自分のところ以上に騒ぎになっているであろう場所を訪れる。

「閣下、貴方様が先遣部隊に同行するなど、無茶です!」

「殿下ならまだしも、一体閣下が赴かれて、それで何の意味があるというのですか」

「会戦にも参加されなかった閣下が、一体どうして突撃隊になど加わらなければならないというのです、お考え直し下さい!」

「……ああ、やかましい」

 その喧騒に、思わずカティスは苦笑してもらした。

 カイルワーンの天幕は、一際騒ぎだった。この時のためにあつらえてあった黒革の胸甲を身につけ、その上から上着を羽織ると、カイルワーンは入ってきたカティスに緊張の見える顔を見せた。

「準備はいいか?」

「……ああ」

 きりきりと、カイルワーンが限界まで張りつめているのが、カティスにはよく判った。そしてそれが仕方のないことであることもまた。

 ぎりぎりまで引き絞られた弓弦。矢を放つその一瞬は、もうすぐそこまで迫っているのだから。

 だが――だからこそ、カティスは内心不安にも思う。その矢を放った後、カイルワーンは一体どうなってしまうだろうかと――。

「ああ、バルカロール侯爵、ジェルカノディール公爵! どうか殿下と閣下をお止めください!」

 騒ぎを聞きつけて現れた公爵たちに、侍従たちが懇願する。その声を耳にしたカイルワーンは、彼が何を言うより先に口を開いた。

「判るだろう、侯爵。止めても無駄だ。僕はこの時のため、この一瞬のために、ここに来たのだから」

「判っております。止めても無駄なことくらい」

 運命を知る侯爵は、同じ諦観を浮かべてカイルワーンに答えた。

「お止めはしません。ですが、ジェルカノディール公爵はその代わり、貴方に言いたいことがあるそうなので、それだけは聞いていってください」

「公爵が? 僕に?」

 訝しく思って公爵の下に歩み寄ると、彼はカイルワーンに切り出す。

 バルカロール侯爵では告げられない、彼でなくては言えない話を。

「貴方がどうして陛下と共に行かなければならないのか――貴方がアレックスとどんな関係であるのか、敢えて私は問わない。私がそれを知ったところで、何にもなりはしないだろう。だから、代わりに言わせてもらう。……閣下、私は一輪車に乗った覚えはない」

 その突然の言葉に、カイルワーンは呆気にとられた。

「は?」

「私が乗ったのは、二輪の馬車だ。陛下と閣下、一本の車軸でつながれた、貴方たちという一対の車輪で構成されている二輪の馬車――どちらの車輪が欠けても、この馬車はもう使い物にならない。私は貴方たちという車輪で走るこの馬車だからこそ、馬となって馬車を引いてもよいと、馬銜はみとなって馬につながれてもいいという気になったのだ。そのことを、どうか覚えておいてほしい」

「公爵……」

「陛下の背にアルバ国民一千万の命が乗っているように、それはもはや貴方の背にも等分に乗っているのだ。そういう道を、形を、貴方たち自身が選択したのだ。どんなに貴方個人がそれに苦しんだとしても、それがどれほど貴方たちにとって本意でなかったのだとしても、現実としてもはや貴方はそれだけの責任を背負っているのだということを、どうか自覚してほしい」

 厳しさと、憐れみを等分に織りまぜて、公爵はあまりにも小さな背を持つ青年に語りかける。

「御身はすでに、貴方だけのものではないのだ。貴方の血は、肉は、人生は、すでに貴方だけのものではない。どれほど辛くても、苦しくても、そのことをどうか覚えておいてほしい。カイルワーン大公閣下」

 即位後、カティスが自分に与えるであろう爵位さえ見越して語りかける公爵に、カイルワーンは即座に答えられなかった。

 思うことは、大陸統一暦1005年9月27日のこと――カティスにも、誰にも言えずにいる運命の終着の日のこと。

 今からたった五年後。僕はカティスを見捨てて消える。

 この日、宰相兼国軍総司令だったリーク大公カイルワーンは、突然城から姿を消す。それを受けてカティス王は、彼を全ての役職から罷免し、爵位を剥奪、自ら王領から分け与えたリーク大公領を没収して王領に戻す。

 曇りのない彼の治世において、ただ唯一と言っていいほどの汚点であり、彼の出生と並んでアルバ史最大の謎といわれるのが、この賢者失踪事件だ。

 伝説は、全ての役目を果たした賢者が、天に戻ったと伝える。だがそんなお伽噺ではなく、史実として考えれば、当然諸説が浮かんでくる。

 一番有力な説が、英雄王と賢者の仲違いだ。賢者の傀儡であることに倦んだ王が、国政を完全に掌握しようと、賢者を追放した――それが真相ではなかろうかというところで、定説は落ち着いている。

 だが、真実はどうだろうか、とカイルワーンは思う。カティスが僕が傍らにあることに倦んで、僕を追放したのだろうか? このカティスが、本当に?

 疑問を胸に問うて、ふとそれは落ちた。

 この時カイルワーンは、何となく判ってしまったのだ。

 自分に何が起こって、何のために自分が消えなければならなかったのか。どうしてカティスが自ら汚点を引っ被ってまで、真実を闇に葬ったのか。

 その全てが、この瞬間、判ってしまったのだ。

 ああ、と声にならない嘆きをあげて、カイルワーンは目の前のジェルカノディール公爵を切に見つめた。

 公爵の言う通り、僕はカティスと共に国と王権の重みを、その責務を背負っているのだろう。だが僕にはもう時間がない。時限が来たその時、僕はその重みを全てカティスに押しつけて、歴史の闇の中に独りで消えていかなければならないのだ。

 そんなカティスを、たった独り残して。

「……判った」

 泣き出したいほどの嘆きを胸に、カイルワーンは公爵に約した。

「心に、ちゃんと、刻んでおくから」

 アイラシェールと僕。もう一度出会えた僕たちが、運命を変えることを選択しなければ。

 世界を壊すことを選択せず、このままの歴史を遂行することを選ぶのならば。

 その先に、もはや五年の時間しかないのだと判っていても――だからこそ、逃げることも、見捨てることも、できはしない。

 カティスも、この国も、一千万の民も、全て。

 この身はもはや、己のものではない――公爵の言葉は、胸にあまりにも痛い。

 だから、声にならない嘆きが落ちる。

 マリーシア、マリーシア――カイルワーンは内心で、カティスの妻になる女性のことを思う。自分たちと同様、何一つ歴史に出自を記されていない謎の女性のことを。

 多くの歴史の事実を抹消したのが誰であるのか、何のためであるのか、もはや想像に難くない。それはおそらくカティスが、未来に生まれてくる自分に知らせないためにしたことだ。抹消され、改竄された歴史は全て、預言者である自分に知られないようにするため――自分の心を守るためにやったのだと、カイルワーンは確信した。

 脳裏を巡るのはマリーシアの哀歌。自分と、カティスと、アイラシェール、そして彼女自身を歌ったそれは、今となってみれば戦慄さえ覚える。

 僕のことを『悲痛』と表現したマリーシア。彼女は一体何者なのだろう。

 まるで何もかも、その目で見ていたかのように。

 大陸統一暦1007年にカティスの妻になる彼女に、おそらく自分は会えない。その謎を自分は解くことはできない。

 だからカイルワーンは祈る。祈ることしかできない。

 マリーシア、どうかカティスのことを頼む、と――。

 祈ることしか、できなかった。

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