9章19節

 侯爵を門の外に送り届け、家に戻る頃には、すっかり日は落ちていた。明かりの灯っていない我が家に帰り着き、灯具に火を入れると、暗がりに人影が浮かび上がる。

 椅子に腰を下ろし、悄然としていたカティスは、カイルワーンの灯した明かりを眩しそうに見つめる。

「逃げてなかったんだな。感心感心」

「……お前が逃げるなって言ったからな」

 苦々しく返答するカティスに、カイルワーンは大きく息を吸い込んだ。

 とうとうこの日が、この一瞬が来た。

「カティス、僕はこの日がずっと来なければいいと思っていた。二年前、レーゲンスベルグ街道の山中で君に拾われてから、ずっと、この日が来なければいいと願っていた」

 しかし、この運命の一瞬はやはり訪れて、自分はこの言葉を口にする。

 そう、自分は、このことをカティスに告げるために、この時代に――彼の元に、送り込まれてきたのだ。

 それが僕の役目――僕の運命。

「どうかこれから僕の言うことを、落ち着いてよく聞いて。――君は、今ここで、自分の人生を選択しなければならない」

「……どういうことだ?」

「王になるのか、ならないのかを」

 その瞬間、ぱっとカティスの顔に朱が登るのをカイルワーンは見た。だが、たじろぐことなく、真っ直ぐに彼の怒気を受け止める。

「カイルワーン、お前まで――」

「僕の言うことを、最後まで黙って聞け! 怒るのも怒鳴るのも殴るのも、全部聞いてからにしろ!」

 怒鳴りつけられても怯むことなく、全身でカイルワーンもまた怒鳴り返す。いつにないその迫力に、カティスは思わず言葉を呑んだ。

「王になりたくない、そう君が思っていることは、百も承知だ。だがそれでも――だからこそ、僕は君に告げなければならない。君が王になればどうなるのか、ならなければどうなるのかを。それを全て判った上で、君には君の人生を選んでほしい。一時の感情や怨恨だけではなく、全てを踏まえた上で、結論を出してほしい」

 誠心誠意で語るカイルワーンに、カティスは怒りを鎮めた。少しの逡巡の後、声もなく頷く彼に、カイルワーンは静かに話を始めた。

「この国の現状は、さっき侯爵が語った通りだ。サンブレストでの一件をきっかけに、ラディアンス派、フレンシャム派共に挙兵に踏み切った。この二派の共闘と大義名分の前には、他の貴族も日和見は決め込めない。緋焔騎士団に与する少数の者を除き、アルバ全貴族はいずれ城を包囲するだろう。――アイラたちには、もう後がない」

「指揮系統の混乱は」

「当然だね。騎士団には、預言者であるアイラがいる。手の内を読まれている連合軍が数の上では少数の国軍に蹴散らされる可能性は高い。だが、それでもアイラたちに勝ち目はない。判るだろう? アイラたちには、まつり上げるべき王位継承者がいない。人心がこの荒廃で離れてしまっている現状では、拠り所なしでは勝ち目はない。遅かれ早かれ、彼らは消える。……本当の内戦が始まるのは、ここからだ。二派の共通の敵である国軍が消えた時、ラディアンス派とフレンシャム派は戦端を開き、おそらくそれは片方の継承者の血に連なる者を――テレサ王女とマルガリータ王女の血統、どちらかを根絶やしにするまで終わらない」

 こくり、とカティスの喉が動いた。それを見やり、カイルワーンは努めて冷静に続ける。

「ラディアンス派とフレンシャム派の勢力は、現時点では互角だ。ここに情勢を見て今まで中立だった大貴族が加担するだろうし、当然外国も介入してくるだろう。この混乱を、センティフォリアやノアゼットが黙って見ているはずがない。となれば、決着するまでには――内乱が集結するまでには、相当の時間がかかるだろう」

「それは……お前の見立てでは、どれくらいになる?」

「おそらくは三、四十年。他国の例を見ても、この時代の他の戦乱を鑑みても、一、二年では決着はつかないだろう。それほどの間、アルバは戦乱に明け暮れることになる。途方もない数の人間が、犠牲となって死ぬだろう」

 それはどれほどの数に登るのだろう。一万人か、それとも十万人か。それとも。

 想像もできない。考えたくもない、とカティスは思う。

「それを止める方法は、ただ一つだ。ラディアンス伯でも、フレンシャム侯でもない、誰の利益にならない代わりに誰の損にもならない、第三の人物が王位に就くこと。そしてそれができる人物は、この世でただ一人――君だけだ」

 侯爵が告げたことを、敢えてカイルワーンは繰り返し、カティスに突きつける。

 自分がそれを彼に正面から告げることには、必ず意味がある。

「だから、俺に王になれと? 王になって、戦乱を止めろと、お前までもが言うのか。カイルワーン、お前までもが!」

「その悲痛を呑めと、僕は言っているんだ!」

 全身全霊、カイルワーンは叫ぶ。

「君にしか、この国を救えない――ああ、それは紛れもない事実だ。だがそれは、君自身には何の関係もないことだ」

 一転して、カイルワーンは逆の立場から言葉を継ぐ。

「逃げたっていい。君が王子かどうかなんて、誰にも判らない。だから君に、この事態を背負って国と国民を救わなければならない義務なんてない。ああ、そうだ。何度だって言ってやる。君にはその責任はない! だけどカティス……本当に、君自身が、心の底からそう思うことができるのか」

 それはあのウェンロック王が死んだ日、彼が伝えたこと。

「逃げるんだったら、そう思わなくちゃ駄目なんだ」

 黒い目が、動揺するカティスを、ひた、と睨む。

「君が図体に似合わず、鬱々と考え込む性格だってことは、僕が一番よく知っている。だから僕は、このことを話した。……僕は後になってから君が、死んでいった者たちのことを思って、王になればよかった、どうして助けてやらなかったんだと悔やみ、己を責めながら生きていく姿だけは見たくない。それだけは、決して見たくない!」

「カイル……」

「逃げてもいい。だがその時は、その悲痛を全て呑め! 逃げるのなら、君は死んでいく者を哀れんではいけない。そして己を哀れんではいけない。それは君には決して許されない。それが放棄という選択を下した、君の責任だ」

 厳しい口調で告げられ、カティスは言葉もなく佇む。そんな彼に、カイルワーンは切迫した表情で告げた。

「カティス、君にはもう時間がない。君の存在とレヴェルの所在は、すでに明らかになったと考えた方がいい。レオニダス王の子として、民心を煽動するに絶好の存在である君と、王剣レヴェル。この組合せがどれほど危険かは、どんなぼんくらな貴族にも一目瞭然だ。――このままでは、君は消される」

「……あのバルカロール侯爵が、俺のことを言いふらして歩くというのか」

「秘密というものは、それがどんな相手であったとしても、一人にばれた瞬間、万人の目にさらされたと同じと考えなくてはならない。一人が真実に辿り着けたのなら、他の人間も近くまで来ている……そういうものだ。このままにしていたら、そう遠くないうちに、他の貴族たちも君の存在に気づく」

 小さく頷くカティスに、カイルワーンはとうとうその選択を切り出す。

「もし君が王位を拒むというのなら……君は今すぐ、ここから逃げなくてはならない。レーゲンスベルグは勿論、国も――できることなら、この大陸からも出た方がいい。アンナ・リヴィアを連れて、レヴェルを捨てて、一刻も早くこの国から逃げろ。もし君がその道を選ぶのならば、手配は僕が受け持とう。レーゲンスベルグ施政人会議総代表の権限で、必ず君をこの国から安全に脱出させてみせる」

「俺がその道を選んだら……お前は、どうする?」

 問いかけに、少しばかりためらいを見せた後、カイルワーンは答えた。

 それが、カザンリクで彼が下した選択。

「僕は、行こうと思う。イプシラントの、連合軍の元へ」

 運命の定めた軌道のまま、賢者としての道を彼は選択する。

「もうこの方法でしか、アルベルティーヌ城の門は開かない。間に合うのかは判らない。この思いさえ、歴史に操られただけなのかもしれない。だがそれでも、僕は行くことにした。――ただの一瞬でも、アイラにもう一度会える可能性がそこにあるのならば」

 それが自分が国外脱出を選んだ場合、カイルワーンとの永遠の別離を意味すると、カティスは理解した。

 迷う彼に、カイルワーンはだが、と静かに告げた。

「だがもし、君が王の道を選ぶというのならば――」

 それはどんな伝説も、史書も語らない、英雄王と賢者の始まりの言葉。

「共に、行こう。君の行く道のかたわらに、常に僕はある」

 カティスは、その言葉に答えなかった。しばし瞑目し、考え込み……やがて、ぽつりと言った。

「少しでいい、考える時間をくれないか」

 当然だとばかりに頷いて、カイルワーンは上着を取る。

「独りで考えるのならば、この家を使えばいい。僕は粉粧楼に行ってる」

 それだけを言い残してカイルワーンは、家を出た。

 春の夜風が心地よく頬に辺り、だからこそ胸が痛く軋んだ。

「厨房、手伝わせてくれないかな」

「そりゃ、願ってもない申し出だが……どうした?」

 粉粧楼。突然の言葉に、訝しげにセプタードは問い返す。そんな彼に、自嘲気味に笑ってカイルワーンは答えた。

「……何かしてないと、息が詰まりそうで」

 腕まくりをして包丁を握るカイルワーンに、セプタードはそれ以上何も言わなかった。

 セプタードもこの瞬間、何事かを悟った。

「そのタマネギ、みじん切り」

「……ああ」

 そうして、カイルワーンは看板の時間まで、厨房で働き続けた。

「ところで、何も食ってなかったんだろ? 何か夜食につまむか?」

 一人の客もいなくなった店で、椅子を上げていたカイルワーンに、厨房から顔を出してセプタードが聞く。言われてみれば、侯爵の訪れで取り損ねた夕食の分、腹は空いている気もする。

 食欲はなかったが、少しは食べなければ胃に触る。

「それじゃ、何か軽いものと、ビールを一杯」

「了解」

 まだ上げていなかった椅子の一つ。厨房の方向を向いて腰かけ、待つと、セプタードはジャガイモと人参の煮込みと、カップ一杯のビールを持って現れた。

 かつん、と音をたてて皿が卓に置かれた時、からからと扉の鈴が鳴った。

「もう看板の時間なんだけどな」

 少しばかり呆れた風に言うセプタードの声に、カイルワーンは来客を知る。厨房の方を向いて座る彼には、扉の方は見えない。

 彼は敢えて、振り返ろうとはしなかった。

 来客は店主の言葉を意に介する風もなく店の中に入ってくると、カイルワーンの後ろの席に座った。その視線の方向は扉――カイルワーンとは、背中合わせ。

「そっちのと、同じ奴」

「はいはい」

 一言だけ、来客はそう頼んだ。

 カイルワーンは無言で、柔らかな人参を口に運び続ける。

 やがてセプタードが来客の注文を運んでくると、彼もまた無言で、料理を口に運ぶ。

 無言の、背中合わせの時間が続いた。

 どちらの皿とカップが空になっても、二人は動こうとしなかった。カイルワーンは厨房方向の壁を、来客は扉を、微動だにせず凝視し続け――そしてどれほどの時間が過ぎただろう。

 先に立ち上がったのは、カイルワーンだった。真っ直ぐに扉だけを見て、来客と目を合わせようともせず、一直線に扉に向かい――路地に出て、三歩。

 そこで、声をかけられた。

「カイルワーン」

 それでも彼は、振り返らなかった。立ちどまり、ぴんと背筋を伸ばし、その背中でカティスの言葉を受け止める。

「俺は、よい王になるのか?」

 君はよい王だ。

 言葉が、喉までせり上がってきた。だがその言葉を、懸命にカイルワーンは呑んだ。

 それは決して、口にしてはならない言葉だった。

 だからその代わり、全身の全ての力を込めて、告げた。

「君のその悲しみは、痛みは、苦しみは……そして、君の選択は、すべて君のものだ。それがたとえ、すべて、決まっていたことだとしても」

 すべて、決まっていたことだとしても――。

「どうか、そのことだけは、覚えていてくれ。どうか、そのことだけは…………」

 きつく握った拳が震えた。カティスはそれ以上何も言わなかった。そしてカイルワーンは、振り向かなかった。

 だからカティスは知らない。この時カイルワーンが、どんな顔をしていたのかを。

 だからカイルワーンは知らない。この時カティスが、どんな顔をしていたのかを。

 この時二人は、お互いを見なかった。

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