9章13節

 僕は固く閉じていた目を開けた。

 光の差し込まぬ水底は暗く、体を巻いていく流れは冷たく、ただひたすらに静かだった。

 その静寂が、耳にじんと痛い。

 目の前の蒼い空間を、細かな泡が絶え間なく登っていくのが見えた。

 体も、心も、そこでは動かなかった。重い水に四肢は絡め捕られ、流れにゆっくりと流されていく。じん、と痺れるような冷たさも、痛くなるほどの静寂さえも、どこか心地がいい。

 そこでどれくらいの間、たゆたっていたのだろうか。不意に遠い水面が波立って、何かに僕は引き上げられる。強い力で水面に引き上げられ、僕はそこで初めて空気に出会う。

 肺いっぱいに満たされていた水を吐き出し、初めて吸い込んだ空気は、ひどく甘く、芳しく、そして苦しかった。

 息をしなければ生きていけない――この甘い空気を全身で吸い込み続けることが、途方もなく苦しかった。

 僕は詰まる息と共に最初の声を上げる。それは紛うことなく悲鳴だった。

 水の中から引き上げられた僕は、息を吸い込みながら、全身で泣き声をあげる。

 引き上げられた世界は、ひどく暖かく、甘い空気に満ち、そして途方もなく苦しかった。

 水底とは違う世界で僕はただ独り、残された水を吐き出し、空気を貪りながら、何が悲しいのか、ひたすらに泣き続けた――。



「はぁ……ああっ!」

 自分が上げた悲鳴で、カイルワーンは目を覚ました。そこは変わらぬ、カザンリクの宿。部屋は暁闇の中にある。

 どうして毎度、こんな時間に目覚めるのかな――心臓の高鳴りをいまだ押さえきれず、薄ぼんやりとした意識の中で、カイルワーンはまずそれを苦々しく思った。

 火照る全身で鼓動を打っているかのように、耳にそれがじんじんと響く。夢の感触は今も生々しく全身を包む。

 水底が僕を呼んでいる――それはカイルワーンの実感。十何年来追いかけられてきて、逃げ続けた感覚だった。

 だが――カイルワーンは、夢の中と同じく、苦しく詰まる息を何度も吐き、吸う。肺に入り込む空気は、冷たく、甘く、そしてただこれだけのことがこんなにも苦しい。

 苦しいのに、体はそれで落ち着いていく。それもまた一つの真実。

 部屋の中、もう一つある寝台に目をやると、カティスは壁の方に体を向けて眠り込んでいる。自分の声で起こしてしまったのではないかと思ったカイルワーンはほっと胸をなでおろし、そして寝台から下りた。

 全身の汗をぬぐって着替えると、壁にかけてあった自分の外套をまとって、そっと宿を抜け出す。

 山間の村は、以前抜け出した時と同じように、静まり返っていた。そしてあの時と同じように、朝日が静かに山の端を照らしはじめていた。

 闇の中に静かに朝日が立ち現れ、世界を光が染めはじめる。

 その光景を、カイルワーンはあの日とは違う感慨で見つめた。

「こら」

 次の瞬間、こつん、と頭を叩かれて、カイルワーンは飛び上がる。慌てて振り返ると、そこには怒りを満面を浮かべたカティスが立っていた。

「やっぱり起こしてたんだ、ごめん」

「そうじゃない。どうしてお前はこう黙って抜け出す」

「どこにも行きはしないよ」

「前科何犯が、どの口でそんなことを言う」

 憮然として言うカティスに、堪えきれずにカイルワーンは吹き出す。そんな彼の様子に、カティスははっとした。

 そこには、屈託のない笑顔があった。自嘲でも、取り繕った嘘でもない、満面の笑み。

 それはどれほど久しぶりのものだろうか。

「もう……大丈夫なんだな」

「心配かけてしまったね。ごめん」

 彼自身も屈託なく笑い返して、首を横に振るカティスに、カイルワーンは静かに言った。

「君は昨日言ったね。僕がしたいことをしろ、と」

「ああ」

「色々考えたけれども、やっぱり浮かんでくることは一つだった」

 それは、運命の選択。

「それでも僕は、アイラに会いたい」

 凛とした、決意に満ちた強い声音で、カイルワーンは告げる。

「もうアイラを助けたいとか、この僕じゃ救えないとか、そういうことを考えることはやめた。魔女である彼女の運命と、彼女を追いつめる賢者としての僕の運命は、どうにもならない――どうにもならないんだろう。だけど、その運命の隙間を縫って、もう一度彼女に会うことができるのなら、伝えたいことがある。……それがたとえ、死にゆく彼女を何も救わなかったとしても。裏切り者と、恩知らずと、罵られることになったとしても」

「そう……か」

 カイルワーンの決意を、カティスは真正面で受け止めて、首肯した。そんな彼の優しい表情に頷き返すと、カイルワーンは東の空を見やり、ぽつり、と言った。

「綺麗だね」

「そうだな」

「サンブレストに行こうと思って、宿を抜け出した朝も、こんな感じだったんだ」

 あの時初めて、自分は世界が美しいと感じた――それを思い出し、カイルワーンは表情を曇らせた。

「だけど、今は思う。確かに綺麗なんだけど……夜が明けるということは、本当に希望なんだろうか」

「カイルワーン……?」

「もしかしたら、必ず夜が明けるということは、朝日が昇るということは、とても残酷なことなのかもしれない」

 この時、カティスはその言葉の意味を――内心を量りそこねた。疑問符を浮かべる彼に、カイルワーンは申し訳なさそうに笑う。

「悪い。あまり気にするな」

 こつん、とカティスの胸を裏拳で叩き、カイルワーンは促す。

「すっかりつき合わせてしまったね。長居すると冷えるよ、戻ろう」

 あまりにも彼が明るく言うから、それ以上問いかけることもできず、カティスは何も言わずにそれに従った。

 カティスがこの言葉の意味を知るのは、ずっと後になってからだった。

 痛いほどに知るのは。



 カティスとカイルワーンが佇んだ暁闇を、知らずベリンダは共にする。差し込む最初の朝の光は、同じ運命に結ばれた者を照らす。

 一睡もできずに夜明けを迎え、ベリンダは庭に出た。

 三月の薔薇園は、深い冬の眠りについている。尖った枝の連なりがまるで針の山のようで、ひどくそれが暗示的に思えた。

 両手のひらを広げてみた。ただ黙っていてさえ微かに震える、傷だらけの指。決して大きくない手のひら。

 何もできない。

 ベリンダの脳裏を巡るのは、このただ一つの言葉。アイラシェールに全ての真実を告げられたあの日から、ずっと今まで心の表面をたゆたうのは、ただこの一言だ。

 何もできない。

 全てを告げられても。あまりにも重いその秘密を、その痛みを、預けてくれても。

 自分には、何もできない。ただ、見ていることしか。

 ただ立ち尽くすことしか。

「ベリンダ」

 突然声をかけられて、ベリンダははっと振り返った。

「……アイラ」

 そこには赤いドレスを身にまとった、アイラシェールが立っていた。

 その瞬間、なぜかベリンダの胸が詰まった。何が悲しかったのか、何が切なかったのかは判らない――いや、全てだろうか。

 琥珀色の目を微かに潤ませたベリンダに、アイラシェールは静かに告げた。

 朝日が最初の光を、静かに地に投げかける。

「私は行こうと思う。私に定められた運命が、最後に辿り着くところへ」

「アイラ……」

 名を呼ぶことしかできないベリンダに、アイラシェールは微かに笑んで、続けた。

「私は魔女になる。国中の者に憎まれ、呪われ、名さえ残すこともできずに、二百年先まで恐れられ続ける、伝説の魔女に。それでも、行こうと思う。その果てに待っているのが、死であっても、私は」

 悲しいほどに澄んだ笑みが、小さな吐息とともにこぼれる。

「この人生の、この運命に果てにあるものが、見たい」

 諦念と、紛れもない決意を見せて告げるアイラシェールに、ベリンダは言った。

「あたしは、何もできない」

 先刻広げられた手が、きゅっと握られる。拳が、微かに震える。

「あたしはアイラに、何もしてあげられない。ただ見ていることしかできない。でも、それでも」

 アイラシェールの決意に、ベリンダは静かに己の決意を返した。

「それでも、その道を、共に行っても構わないだろうか」

 ベリンダの言葉に、アイラシェールは目を見張った。そんな彼女を、ベリンダはただ見つめ続けた。

 朝の光が、冬枯れの薔薇園を満たす。

 喜びと悲しみに震える声とともに。

「ありがとう」

 固められた握り拳は、ゆっくりとほどけて、そして差し伸べられた手を取った。

 握りしめた小さな手は、切ないほどに冷たかった。

 だからベリンダは、決して伝えきれることなどない思いの全てをこめて、その手の甲に口づけを贈った。

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