9章12節

「お前が寝ている間に、俺はもう一つ考えていたことがある」

 落ち着きを取り戻したカイルワーンに、カティスはもう一つの話を取り出した。

 それは、純然たる疑問。

「アイラシェールは、本当はお前のことをどう思っていたんだろうか」

「それは……きっと」

「己が思う『自分』と、他人の目に映る『自分』の姿は決して同じじゃない。お前は、彼女の目に自分がどんなふうに映っていたのか、考えたことがあるか?」

 カイルワーンの言葉を、カティスは強引にさえぎって続けた。有無を言わさぬその態度に、カイルワーンは考え込む。

 脳裏をよぎるのは、数え上げたらきりのない劣等感の山。情緒も知能も何一つまともに発達していなかった醜い子ども時代のことも、成年男子として役に立つだけの体格に育つこともできなかった身体のことも、下賤と呼ばれるしかない身分も、模倣ばかりで現実には何の成果も上げてはいない――父にはおよびもつかない学才も。

 だがそんな彼の内心を、カティスはあっさりと見透かして言う。

「今、お前の頭の中には、沢山の劣等感が浮かんでるんだろ。俺には何となく判る――人ごとじゃないからな。だけど、それでも俺はお前じゃないから、言える。お前は力一杯否定したいだろうが、言わせてもらうぞ。――ちゃんと認識しろ。お前は天才だ」

 そんな、と反論しかけたカイルワーンを、強い視線が黙らせた。

「お前は過去から知識を持ってきただけだって言う。だが、俺に言わせれば、あれほど膨大な知識を誤ることなく記憶して過去に持ってこれて、しかも狂いなく再現できるお前という奴を、天才と呼ばないで何と呼ぶんだ。――あのな、カイル。お前自身がどれほど認めなくても、他人はそう評価を下す。そして意味があるのは、自分が自分をどう思ってるかじゃない。自分がどういう人間であるか、でさえない。他人の目に、どう映っているかだ。たとえそれが、誤解だったとしてもな」

 他人の目に映る自分――その言葉を、初めてカイルワーンはかみしめた。

 他人の目に自分がどう映っているのか、少しは自覚した方がいい。それは過去に来て以来、周囲の人間に何度となく言われたこと――そして、その意味が判らなかったこと。

 それは判らなかったのではなく、判ろうとしなかったのだと、彼はやっと気づいた。

「真実のお前がどれほど劣等感を抱いていても、お前自身がどれほど自分に価値はないと思ったとしても、お前は紛れもなく、他人に羨望を抱かせるだけの人間だ。そんなお前が侍従として仕え、己と共に王宮の片隅に幽閉され運命を共にする――そのことをアイラシェールは、本当はどう思っていたんだろう?」

 もし俺が――カティスは共感をもって、その仮定を口にする。

「もし俺が彼女と同じ立場だったら、きっとたまらなかったと思うぞ」

「たまらない?」

「申し訳なくて。自分がお前を束縛することが、自分のためにお前が将来を棒に振るのが。……お前が、自分のために、魔女の手先と罵られて、他人に憎まれるのが」

「違う!」

 鋭い叫びが上がった。心外だとばかりに顔を紅潮させて、カイルワーンは反論する。

「それは僕が望んだことだ。僕が自分で望んで、それで僕は救われたんだ! それを彼女が申し訳なく思うなんてこと――」

「それをお前は、彼女に伝えたか?」

 冷静に告げられた一言に、カイルワーンは固まった。

「何にも、言ってないんだろ? 母親のことも、王宮に来る前のことも、今までどんな思いをしてきて、だからどれほど王宮での生活が幸せだったのか、どうして彼女が大切だったのかも、何も」

「そ、れは……」

「言えなかったのは当然だろうよ。もし俺がお前の立場でも、そんなこと言いたいとは思わない――惚れた女の前ではいい格好したいし、強い頼れる男でいたいし、己の醜い部分をさらすのは勇気がいる。だけど、お前のそんな部分を知らない彼女にとっては、お前は眩しかっただろうと思うぞ。……俺が、そうだったみたいに」

「カティス……」

「俺だって、お前が羨ましく、妬ましかった時期があった。何でもできて、誰からも必要とされて、醜い、何もできない自分とは全く違う次元に――高みにいるような気がした。お前にも辛いことが、苦しいことがあるのだと――苦しんでいるのだと判らなければ、今だってそう思ってただろう。お前はそういう風に見えるんだ。……実際、お前自身そう見せようと虚勢張ってるだろう?」

 指摘に、カイルワーンは沈黙した。

 無理をしていることを、背伸びをしていることを、彼自身自覚している。自分が本当は、心身ともに年ほどにも成長していない子供で、それを気取られたくなくて、懸命に突っ張っているだけなのだということを。

「虚勢張ってるお前は、高潔で完璧で、何もできないことなどなくて、悩むことからも苦しむことからも無縁のように見える。そんなお前は、他人の助けなど――他人など、何も必要ないように見える。自分にできることなどない、自分はお前にとって何の必要もない。そう思うことは……正直たまんねえぞ。頼るだけ、甘えるだけ、面倒をかけるだけで、自分は相手に何もできない、何の役にも立てない。そう彼女が思い込んだという可能性は、ないのか?」

 強くありたかった。優しくありたかった。彼女のためになら、何でもしてやりたかった。彼女を傷つけるものから、全ての風から囲い込んで守ってやりたかった。彼女の望むものなら、何だって叶えてやりたかったし、そのためならどんな犠牲を払ってもいいと思った。だがそんな自分の姿は、彼女の目にはどんな風に映っていたのだろう? それは彼女に、どんな思いを抱かせていたのだろう。

 判らない。そのことに、カイルワーンは初めて気がついた。

 カティスの言葉は、カイルワーンの認識を――世界を、根底から揺さぶった。

 己の世界は目の前に存在し、その全てを理解していると信じていた。だからこそその世界の有り様に――その中に存在する自分自身に絶望し、死という休息を願った。

 だが、自分は本当にその世界を、そして自分を取り巻く人たちとその気持ちを、正しく認識していたのだろうか。彼女がくれた言葉の意味を、行動の意味を――その裏にある真意を、正しく読み取っていたのだろうか。

 判らない。その言葉ばかりが、カイルワーンの脳裏を回る。

「アイラシェールの気持ちを、会ったこともない俺が量ることなんてできやしない。だからこれは、一つの仮定でしかない。だがそれでも、可能性はある――違うか?」

 問いかけに、カイルワーンはしばらく答えられなかった。

 僕のことなんか彼女はどうとも思っていない、とひねて、否定するのはたやすい。だが。

 浮かび上がるのは一つの仮定。

 彼女は、己の価値を己で信じることが、果たしてできていたのだろうか、と。

 自分と、同じように。

 彼女の価値――彼女がいるだけで、救われる者がいるという事実。それを自分が判っているから、彼女自身までもが判っていると思い込んでいなかったか。

「判らない……」

 先刻から脳裏を回り続ける言葉を、かろうじてカイルワーンは答えとして口にした。

「僕は何にも、判っていなかったんだ。彼女の気持ちも判っていないし、僕の気持ちも判ってもらっていなかったのに、思い込みを全てだと信じきっていた――判ろうとさえしてなかった」

「そうなんだろうな……」

「判らない。僕には何にも判らない。本当はどういうことだったんだ? 彼女が時間を越えたのは、彼女が運命を変えたいと願ったことは、僕の手を振りきったことは――彼女が何を考えていたのか、何に苦しんでいたのか」

 判らない。本当は判らないのだということにさえ気づかなかったほど、自分は愚かだったのだと、カイルワーンは気づいて愕然とする。

「何にも、判ってなかったんだ……」

 小刻みに震えるカイルワーンの肩になだめるように置かれた手は、温かく、そして彼に決断を迫る。

「お前は彼女を殺しにいくのだと、そう言ったな」

 手の下でびくり、と震える薄い肩。

「そこに、時間はあるのか?」

「え……?」

「お前が先頭をきって彼女を攻め滅ぼすというのならば、わずかでもそこに、お前が彼女と会える時間はあるのか?」

 その可能性が、光明であるのか、さらなる絶望であるのか、正直言ったカティス本人にも判らない。だがそれでも、と思い、話を続ける。

「俺が、死にたがるお前を引き止めるという役を天に振られてるってことは――俺もまた、運命という奴に思いのままに操られてるってことは、よく判った。そして今の俺に与えられた役目が、お前を定めに逆らわぬように矯正することだってこともな。――天の繰り糸とお前が呼ぶものが何なのか、よく判ったよ。逆らおうったって、自分の望みに背くことなんて、できないものなんだな」

「カティス……」

 自嘲的に嗤うカティスを、カイルワーンは痛ましいものを見る顔で見上げた。そんな彼に、カティスは小さく首を振った。

 判っていても、逆らえない。それが彼と、自分につながる運命だ。

「だから俺は、これをお前に言う。これがお前を、運命の軌道に縛りつけるためのものだと判っていてもな。――カイル、真実は、まだ何一つ明らかにはなっていないんじゃないか。お前と、アイラシェールとの間の」

 小さく、カイルワーンはその言葉に首肯した。

「アイラシェールが死に到るまでの時間に、もし一刻でも余裕があるのならば――もしお前がもう一度、一刻でも彼女に会うことができるのならば、そのことに意味がないとは俺には思えない。たとえそのことが運命の定め通りだとしても……残酷だが、彼女を死に押し出すことになるのだとしても」

 だから、とカティスは切なそうに告げた。

「カイル、もう一度考えてみろ。お前が本当は、どうしたいのかを」

「僕が、どうしたいのか……」

「彼女のためではなく、周囲の誰のためでもなく、勿論世界や正義のためでもなく、ましてや自分のため、でなくてもいい。ためになるのではなく、どうしたいのか――お前が一番何がしたいのかを考えて、先を決めろ。逃げるのなら、逃げたっていい。投げ出したっていい――それだけ、お前は頑張ってきたんだ。誰にも責めさせやしない」

 穏やかに向けられた、どこか痛い笑みが、カイルワーンを静かに思考へと沈ませる。

 自分の望み――したいこと。カティスの問いかけは、単純なだけに難問だった。

 突然開かれた可能性は、光か闇か判断がつかなかった。その先に待っているのが何なのかも判らなかった。しかし、同時に惑いもまた生じた。

 ほんの少しだけ自分の価値を信じられれば、当然の迷いが浮かぶ。

 アイラ、僕にはまだ君にできることが残されている? 君はまだ僕のことを覚えている?

 カティスが言う通り、僕には少しでも、君に必要とされるだけの価値があった?

 アイラ、僕はどうしたらいい? どうしたら――その問いかけに、答えるものはない。

 答えは、自分の中にしかなかった。

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