9章6節

 カイルワーンがぼんやりとした意識を取り戻した時、彼は自分が何かにくるまれているのに気づいた。決して上等な織ではないが、暖かな感触の――布に指を滑らせてそれが何なのかに思い当たり、カイルワーンは重い目蓋をこじ開けた。

 身を起こすと、向かいの大きな木の根に腰を下ろし、佇んでいたカティスと目が合った。

「気がついたか」

「カティス……これ」

「いいから着てろ。今夜は冷えそうだ」

 自分をくるんでいたものがカティスのマントだと気づき、カイルワーンは彼に寄る。

 どれくらいの時間だったのだろう。外套なしで佇んでいた彼の顔が、いつもより白い。唇は血の気を失い、縁が黒ずんでいる。

 触れた手が、ぞくりとするほど冷たかった。

 自分には大きすぎるマントを脱ぐと、カイルワーンはそれを無言で押しつけた。だがそんな彼に、カティスはむっとした表情を見せた。

「俺は野宿も慣れてる。お前と違って肉もあるんだから、寒さにも強い。意地張るな」

「そんな青白い顔をして強がりを言うな」

「強がってるのはお前の方だろう。人の好意は素直に受けておけ」

 二人の強がりは、言い争いに発展した。だがそれは、ぽつりともらしたカイルワーンの一言で決着する。

「僕ならここで凍死したって構わない」

 この言葉を聞いた時、カティスの中で何かが切れたようだった。押しつけられたマントを取ると体に回し、首元をひどく緩くピンで留め、そして。

 言い争いに勝ったと油断していたカイルワーンを、たやすく攫って己のマントの中に閉じ込める。

「……放せ」

「嫌だ」

 抱かれる格好になったカイルワーンは、腕に囚われたまま文句を言ったが、カティスは怒ったように答えた。

「俺のことを心配するのなら、せめてこうやって俺の温石代わりになってろ」

 その言葉に、カイルワーンは抗うことをやめた。確かに彼のことを考えればそれが最善だし、本当は暴れるだけの気力も体力もなかった。

 目眩も倦怠も、ちっとも去りはしない。カティスの胸に体を預けてしまうと、どんどん意気地が挫けていく。体から力が抜けて、寛いでしまうのが判る。

 苦しいことがあった。辛いことがあった。そんな時いつも自分をなだめようと、落ち着かせようと、差し伸べられた腕がこれだ。恐慌を起こし、泣くしかなかった自分を抱きしめ、落ち着くまで辛抱強くそばにいてくれた腕がこれだ。

 そのことが――その人を過酷な運命に自分が追いやるという現実が、痛い。

 痛くてたまらない。

「……気づいていたんだろう?」

「ん?」

「僕の体の傷のこと。僕の過去に――アイラの侍従に命じられて、塔に行くまでの間に、何があったのか」

 問いかけに、カティスは少しだけためらった後、頷いた。

「実の母親だったのか……虐待の相手は」

 腕の中で、小さな体が震えた。それが答えだった。

「……母さんが何を考えていたのか――何に追いつめられていたのか、僕にも判らない。だけど僕の記憶の中にいる母さんは、いつも苛立っていた。何かに苛立ち、それを僕にぶつけていた。それは発育が遅かった僕に対してなのか、仕事ばかりでちっとも家に帰ってこない夫に対してなのか、結婚し子を産んだことで宮廷女官としての華やかな生活を失ったことに対してなのか、それとも別の何かなのか……どれかなのか、それとも全部なのか、今となっては判らない。今となっては、何も」

 記憶の中の母親はいつでも険しい、厳しい顔をしていた、とカイルワーンは述懐する。

 確かに母は、きつい顔だちをしていた。その美貌は宮廷にいた頃『氷の花』と評されたほど怜悧なものであり、笑顔は似合わなかったのかもしれない。たが、それでも自分は、いつも笑ってほしいと願っていた。

 母が笑ってくれたら――自分に向かって笑ってくれたら、どれほどいいだろうかと。どんなにか綺麗だろうかと、そう願い続け――それはついに、叶うことはなかった。

「父親はどうしたんだ。止めに入らなかったのか」

「親父があの瞬間まで、母さんがしていたことに気づいていなかったのか、それとも知りながら見て見ぬふりをしていたのか、それも僕には判らない。週に何日も帰ってこない、帰ってきても飯食って寝るだけの父親だ。気づかなくても不思議ではないし、気づいていたとしても……そんなことにかかづらってる余裕はあの人にはなかったんだろう。あの人はもう自分のことだけで手一杯だったんだ。天才として――成り上がり者として人一倍の成果を、当たり前のように要求されてたんだ。こんなことに煩わされたくないと、目を背けていたのかもしれない」

 母がいた頃の父がどんなだったか。その記憶はカイルワーンにはない。あまりにも鮮烈な母の記憶の前に父の姿が霞んでいるのか、それとも本当に母がいなくなるまで、父は自分とろくに顔を合わせることもなかったのか――おそらくは両方なのだろう、と彼は思う。

「二人しかいない家――密室の中で、母さんの暴力は日増しにひどくなっていった。叩かれる、物を投げつけられる、家から放り出されるといったところから、最後の頃には笞でぶたれ、熱湯をかけられ、火掻き棒で殴られた。そして最後に――川に、沈められた」

 心に最も深く刻まれているであろう傷を、カイルワーンは淡々と語った。

 耳に甦るのは、水音。かけらも鮮やかさを失わない、冬の日のあの記憶。

 母に手を引かれ、連れていかれたアルベルティーヌ城。冷たい音を響かせていたセミプレナ運河。母は何も言わなかった。

 何も言わず、ただ自分をとん、と力を込めて、突き飛ばした。

 浮かび上がる自分を、何も言わずに水の中に押し戻した。

 何が苦しかったのかも、判らない。息苦しかったのか、母に殺されるということが苦しかったのか。ただひたすらに苦しく、そこから逃れようと体はもがき続け――だがそれも、やがては力尽きる。

 水面に色をなしていた夕日が沈むように、意識もまた深い闇に沈み、そして。

 そこからの記憶が、なかった。

「己が投げ込まれる水音も、自分が吐き出した空気の泡の形も、夕焼けと灯火の照り返しに輝く水面も、何もかも覚えているのに――息苦しさも何もかも、はっきり覚えているのに、僕はそこで、どうやって助かったのか覚えていないんだ。意識が途切れ――目が覚めた時には、家の寝台の上だった。枕元には親父がいて……そしてもう、母さんはいなかった。僕をセミプレナ運河に突き落とした時の姿が、僕が母さんを見た最後だった」

 それはカイルワーンの人生における最大の謎。問うたことはない。だが、問うてもきっと真実を与えられはしない謎。

「親父は母さんは出ていったと言った。周囲の人たちも、母さんが僕と親父を捨てて、男作って出ていったのだと噂した。でも真相は定かじゃない。ただ判ることは、母さんが心底親父に惚れていたということ――だからこそ、研究ばかりで自分を省みないことに苛立っていたことで、そんな母さんが本当に別の男を作ったのか――どうだろう」

「親父さんが見るに見かねて、お袋さんを追い出したんじゃないのか」

 カティスの指摘に、こっくりとカイルワーンは頷く。

「その可能性もある。だが言われて大人しく出ていくような人じゃないことは、僕が一番よく判っている――もしかしたら、親父は追いつめられて、もうどうにもならなくて、それで母さんを」

「カ、イル……」

「殺したのかも、しれない……」

 ぞくり、と寒気がカティスの背筋を這った。その動揺を見透かして、カイルワーンは泣き笑いを浮かべる。

「そんなことない、ありえないって思いたかった。だけどずっと、その思いが心の奥深くで蠢いていて……決して消せなかった」

 たった一人の肉親を、残された父親を、母親殺しの犯人として疑う――そう思わずにいられなかったカイルワーンの内心を、カティスは苦く、そして痛く思う。

「そしてあの家には、僕と親父が残された。だけどあの多忙を極める親父が、一人で子供なんか育てられるはずもない。それで僕は親父の姉の家に預けられることになり……そこでも僕は大人の苛立ちと怒りを集めた」

 それは母との日々とは違う暗闇。

「確かに、僕が見るからに可愛くない子供だったということは、自分でも判るんだ。家から一歩も出ることもなく、父と母以外の人間も知らず、罵声と両親がいがみ合う声だけを聞いて育った僕が、見るからにまともじゃなかったということは。他人に怯えて、ろくすっぽ返事もできない、言葉を話すこともできない、人の言いつけを聞いて働くこともできない子供が、可愛いと思えるはずもない。他人の問いかけにも答えず、内に――自分の中に籠もって、動こうともせずうずくまるばかりの子供なんて、知恵遅れ以外の何に見えただろう」

「それは……お前のせいなのか?」

 大人に――実の母親に、それほどまでに苛まれた子供が、どうして大人に怯えずにいられよう。どうして内に籠もらずにいられよう。

 子供は、それしか己を守る術を知らないのに。

 憤るカティスに、小さくカイルワーンは首を横に振る。

「折角育ててやっているのに、可愛げのかけらもない――伯母の罵る声が、まだ耳に残っている。伯母が悪い人だったとは思わない。自分の子供を育てるだけで手一杯なところに、こんなどう扱っていいか判らない、薄気味の悪い子供が転がり込んできたんだ。いくら親父から養育費を貰ってたといったって、生活は苦しい。その不満の矛先が僕に向いたのも仕方のないことだったのかもしれない」

 伯母と父の口論が、今でも鮮やかに思い出される。

『ルオーシュ、何だね、あの子は! お前の小さい頃とは似ても似つかない、うすのろな子じゃないか。あれは頭のどこかがおかしいよ! 本当に、あれはお前の子か?』

『取り消してください、姉さん! いくら姉さんでも、私の息子にそんなことをいう権利はない!』

『あの高慢ちきなグレンドーラにそっくりで、お前になんかちっとも似てやしないじゃないか! あんなのあの女狐がお前がいない間にこさえた子供に決まってる! いい気なもんだ。当の本人は、ガキをあんたに押しつけて、とっとととんずらときたもんだ』

 聞かれていたなどとは二人とも思わなかっただろう。立ち尽くした自分は、あの時泣くこともできなかった。

 ただ思った。捨ててほしい、と。

 実の子でないのなら。体面のために育て続けなければならず、そのために苦しい、窮屈な思いをしているというのならば。

 思い切りよく捨てて、身軽になってほしかった。その方がよっぽど楽だった。

「ことあるごとに伯母は僕を詰り、罰だといっては食事を取り上げた。そして徹頭徹尾、僕に対して嫌悪をもって接した。従兄弟たちはそんな母親の態度を見てたんだろう。僕を玩具として扱った。抵抗するということすら僕は知らなくて、いつもされるがままだった。そして夜毎、伯父が僕を外に連れ出した。――伯母の家は、別の意味で地獄だった」

「カイル……そんな、お前……」

「でも一番辛かった時期は、母と暮らした時でも、伯母の家に預けられていた時でもない。やっぱり見るに見かねた親父が僕を家に連れ戻したあの数ヶ月が、今までの人生の中で一番辛かった」

 もう父には、どこにも逃げ場がなかった。病んだ自分を直視しなければならなくなった時、父が見せた疲れきった顔が、何よりも苦しかった。

「あの仕事の鬼だった父が、僕のために仕事を放り出して帰ってくる。僕がちょっと体調を崩せば、欠勤する。僕のために自分の時間を割き、僕にかかずらって自分の仕事や、人づきあいや、信用をなくしていく。そんな様を見ているのが、狂おしいほど辛かった。自分がここに存在している、ただそれだけのことが、こんなにも人の――父の負担になる。自分がいることが、こんなにも父の迷惑になる。自分がいるために、父はそれまで懸命に努力して築き上げてきたものをなくす。そんな様を見ているのが、たまらなく苦しかった。できうることなら、消えてなくなりたかった。叶うなら、この世から痕跡一つ、誰の記憶のかけら一つ残さず消えてなくなりたかった」

 お前の気にすることじゃない――その言葉が重かった。熱を出すたび、そばについていてくれることが、たまらなく自己嫌悪をあおった。泣いて、構うなと、仕事に行ってくれと懇願する自分に、疲れた――痛ましいものを見るような顔をするのが嫌だった。

「アンナ・リヴィアが言っていた。僕の根底には、自己否定があると。己の存在を、価値を否定するのは、自分自身なのだと――そうだ。その通りだ。僕は自分が許せなかった。僕がこの世に存在する、ただそれだけのことが、どうしても許せなかったんだ」

 狭い家の壁だけをたった独り、見つめ続けて暮らした数ヶ月。

 このまま父が帰ってこなければいいのに、と願いながら、それでも帰りの遅い夜は寂しさが突き上げ、脳裏には痛みの記憶が幾重にも巻き戻り、悲鳴とともに助けを乞い求める。自己否定と人恋しさの間で、心がばらばらになりそうだった。そして独りではいられない弱い自分を責め、否定は強さを増し、それと呼応して記憶はさらに強く己を苛む。

 どこにも逃げ場がない。どこにも終わりがない。ただどん底に――精神の破綻に向かって、真っ直ぐに突き進んでいくだけ。

 真っ暗な世界の中で、ひたすら自分に問いかけつづけた。

 どうして、と。

 どうして、自分がいるだけで、こんなにも周囲の人間たちは苦しむのだろうと。

 誰一人、笑うこともできず、泣いたり罵り合ったりしなければならないのだろうと。

 僕が悪かったのだろう。その罰があの折檻ならば、喜んで受け入れる。だからそれが何なのか教えてほしいのに、誰一人教えてくれないままにいなくなってゆく。

「僕の世界は真っ暗だった。どこにも生きる価値も、意味もなかった。生きていることの許しもなかった。そんな僕の世界に、一筋光が差し込んだのは、五歳の時――その日のことを、その時のことを、僕ははっきりと覚えている」

 忘れたりなどしない。あの瞬間のことを。

「日中、仕事に出かけたはずの父が突然迎えにきた。これから別のところで暮らすんだと言われて、身がすくんだ。やっぱり父は僕のことを持て余したのだと、だから他人のところにやるのだと判って、ほっとするのと同時に辛かった。やっぱり僕は父の負担でしかないのだと、そう改めて突きつけられたことが辛かった。そして恐怖を感じた。これから行くところには、どんな人が待っているんだろう。その人は、僕にどんなことをするんだろう、どんな目にこれから遭わされるんだろう、そう思いながら連れられていったのは王宮の隅。薔薇園の奥、隠されるように建っていた小さな塔。そこで僕は彼女に出会った」

 迎えてくれたコーネリアが扉を開けてくれた瞬間、世界は変貌を遂げた。

「その部屋にいたのは、小さな――僕よりも小さな女の子だった。コーネリアが名を呼ぶと、振り返って真っ直ぐに僕を見た。そして彼女は笑ったんだ。この僕を――こんな僕を見て、泣くのでも恐れるのでも、嫌悪するのでもなく、笑ってくれたんだ」

 声が震えていた。カイルワーンは自分の心の一番深い場所を、誰一人――当のアイラシェールにさえ語ったことのない、一番深い場所を、むせぶように語る。

「そして彼女は立ち上がると、真っ直ぐに僕のところに駆け寄ってきて、そしていきなりしがみついてきたんだ。胸の中に飛び込んできて、何も言わずに顔を僕の胸に押し当ててきた。そりゃ僕は驚いたし、困ったよ。どうしたらいいか判らなくて、とにかくその体に手を回した。初めて触れた子供は――自分よりも小さく弱い女の子は、温かかった。温かくて、柔らかくて……そして震えてたんだ。彼女は――アイラはあの時、僕にしがみついて震えていたんだ」

 あの温かさを、あの感触を、伝わってきた体の震えを、今もカイルワーンは覚えている。それが全て――決して忘れることなんてない記憶。

 それが自分の、全て。

「その時のアイラが何を考えてたのか、何を考えてそんなことをしたのかなんて判らない。だけどその時、一つだけ判ったことがあった。彼女は――僕を見るなり駆け寄って、抱きしめてくれたこの小さな子供は、僕の腕の中で震えているこの小さな子供は、僕を必要としているんだってことが」

 今でも耳に残る声。舌足らずな甘い声が、自分の名を呼ぶ。

 カイル――そう呼ぶ彼女の声。

「生きていてもいいんだろうか――そう初めて思った。自分より小さく弱い、この子のためならば、この子を守るためならば、僕は生きていてもいいんだろうか。そう初めて思った。それは僕の暗闇に覆われた世界に、やっと一筋差し込んだ光だった。僕は彼女に出会えて、やっと自分が生きていてもいいんだと思えた。この世に存在していてもいいんだと思えた。彼女のためになら、彼女を守るためにならば、己が生きていることを、己で許すことができた」

 周囲の人間全てに忌み嫌われ、蔑み続けられていた自分に、恐れることも嫌うこともなく、笑ってくれた人。

 その小さな全身で、その温かな腕で、己の存在を肯定してくれた人。

 彼女が生まれてきてはいけない子供だということは、呪われた子供だということは、その色彩から一目で判った。そしてそんな彼女のために、自分がここに送り込まれたのだということも。

 恐れはなかった。嫌悪も。むしろ心の中に突き上げてきたのは、喜び。

 彼女のために自分があることを定められ、許された――それは無上の喜びだった。

「どうしてなんて問いかけは無意味なんだ。どうして好きになったなんて――どうしてそこまでするのかなんて、そんな問いかけそのものが無意味なんだ。だって僕は、彼女のために生きてきたんだから。僕が生きる意味も、僕が存在する意味も、全部彼女にあった。彼女に出会ったから、彼女がいてくれたから、僕は今まで生きてこれたんだ。彼女がいなければ、僕はとうにあの水底に戻っていただろう」

 それは恋ではない。

 全て、だったのだ。

 彼女への思いは、彼の存在全てがかかっていた。

 だけど――だけど。

「僕はどこで間違ったんだろう……彼女がいる、ただそれだけで幸せだったはずなのに」

 ひび割れた鏡が、今、地に落ちて粉々に砕ける。

 最初にひびを入れたのは、アイラシェールの別れ際の言葉。

「僕は、アイラに出会えて、本当に幸せだったんだ。彼女とともに暮らしたあの塔での十四年は、本当に幸せだったんだ。だけど彼女にとってその月日は、苦しいものだった。歴史をさかのぼってまで変え、なくしてしまいたいほどに苦しいものだったのだと、僕はあの日彼女に突きつけられた」

 あの日以来、カイルワーンの精神が音をたてて崩壊に向かった理由。それはアイラシェールが壊してしまったから――コーネリアがあれほど願い、カイルだけは裏切るなと彼女に叫び続けたにもかかわらず、彼女が壊してしまったから。

 それはカイルワーンの生きる支え。

 生きる意味。

 己が存在することへの許し。

 アイラシェールを思うことで己の全てを支えていたカイルワーンの根底を、彼女はそのただ一言で打ち砕いてしまったのだ。

 それでも今までカイルワーンが生きてこれたのは、運命を変えなければならない――運命を変えて、アイラシェールを救わなければならないという思いがあったからだ。カイルワーンはその思いにすがりつくことで、ようよう自分を保っていたのだ。

 だがそれももう終わる。

 運命が変えられないことを、彼は知っている。

 もうすがりつくものは、ない。

「それが僕の傲慢だったってことは、僕の思い上がりだったということは、僕にも判っている。たかが平民風情が王族に思いを抱き、あまつさえ守ろうなどと――生きる支えにしようなどと思ったことが、そもそも間違いだったということも。だから、それでもいいと――彼女さえ幸せならば、自分などどうなったっていいとそう思って、ここまで来て……でも」

 でも、運命は目の前に存在する。

 決して変えることなどできずに、彼に未来を突きつける。

 だから、悲痛な叫びが上がる。

「そんな彼女を、僕はこの手で殺すのか? 僕が彼女を魔女にし、国民に憎ませて、拝謁の露台から突き落とすのか? 僕を救ってくれた、こんな僕を抱きしめて救ってくれた、あのアイラを!」

「カイル……それは」

「今年の6月13日、アイラシェールは死ぬんだ! 簒奪の大罪人と呼ばれ、国政を乱した魔女と罵られ、国中の貴族に背かれ、城を攻められ追いつめられ、自ら身を投げて死ぬんだ! その軍勢をまとめ、指揮し、彼女を攻め滅ぼすのが――彼女を自殺に追い込むのが、アルバの黒い賢者――僕だ!」

 慟哭がカティスを叩いた。自分の体さえわななくのを、カティスは感じた。

 その結末を、運命のただ一言で片づけてしまうのは――定めと呑み込むには、あまりにも、あまりにも過酷すぎる。

 どうして――うわ言のように呟く己の言葉さえ、渇く。

「どうして、どうして、どうして! どうして僕が賢者なんだ。どうして僕が、そんなことをしなければならないんだ! アイラのためならば何を犠牲にしても構わない、誰を殺したって構わないと思っていた僕が! 冗談じゃない……冗談じゃない! 僕が彼女を殺すくらいなら、死んだ方が何千倍か楽だ!」

 それで運命が変わるのならば。

 それで彼女が救われるというのなら、いつだってこんな命差し出せる。

 この命も、この心も全て、彼女に救われたものなのだから。

 それで彼女が救われるというのなら、それこそ本望だ。

「僕が死ねば、彼女を追いつめる者もいなくなる。君に運命を突きつける者もいなくなる。歴史は変わり、誰もが運命から解き放たれる――誰もが、幸せに生きていける」

 疲れきった、憑かれたような甘い声が、腕の中からこぼれて、カティスは力を強めた。

 そうしないと、何もかもが――自分の大切なものが、流れてなくなっていってしまいそうな気がした。

「眠らせてくれないか……このまま」

 今眠ったら、体力のないカイルワーンは間違いなく凍死する。それが判っていてもなお、カティスは否とは言えなかった。

 もう、死んでは嫌だと、生きていてほしいと言うこともできなかった。死なないでほしいという気持ちは、変わらず強く胸にあるのに。

 それでも、言えなかった。

 代わりにその胸の中に深く抱き込んだ。手を伸ばして、髪を撫でてやると、カイルワーンは病んだ顔に柔らかな笑みを浮かべた。

 とても嬉しそうに。

「ごめん……ね」

 ただの一言を残し、目を閉じてしまうカイルワーンを、カティスは止めなかった。

 触れている肌からは、じわりと染みるように温もりが伝わってくる。心臓が痛いほどに、直接拍動を伝えてくる。これがいずれ、止まってしまうと判っていても、カティスは腕の中のカイルワーンを叩き起こす気になれなかった。

 とくり、とくり、と規則正しく伝わってくる揺れが、彼までも眠りの世界に誘う。

 朦朧としてくる意識の中で、カティスはぼんやりと己の死の予感をも感じていた。

 彼はこの時期の野宿をしたことがないわけではない。カイルワーンをレーゲンスベルグ街道の山中で拾ったのも今と同じくらいの時期だった。

 けれども山脈に近い高地の夜は、予想以上に冷えた。そして彼は自身が思っていたより遥かに消耗していた。

 眠い。例えようもなく、眠い。

 それでも必死の思いでこじ開けた目に、薄い影が見えた。その姿に、カティスはああ、と嘆息に似た悲鳴を上げた。

 金の髪の薄汚れた子供が泣いていた。小さな荷馬車、干草に埋もれながら、降るような星空を見上げながら泣いていた。

 それが誰なのか――いつのことなのか、カティスには考えなくても判る。

 あの夜も、こんな風に星が綺麗だった、とぼんやりと思った。

 決死の思いでアルベルティーヌまで――王宮まで行ったのに、何もできなかった。必死の訴えは門番に笑われ、小突き回された。犬のように追い払われ、でも去ることもできなくて佇むしかなかった自分。その前を、豪奢な馬車が幾台も幾台も通りすぎていった。

 きらきら光る金の拍車。彫り込まれた見事な紋様。埋め込まれたガラス玉や宝石。灯火に光沢を見せる内張りのビロード。

 そしてそれに乗り、城に向かう貴族たちの、あでやかな装い――。

 人にはこんなにも差があるのだということを、痛いほどに思い知らされた。

 大門の向こう、白亜にきらめくアルベルティーヌ城の灯火。遠く流れてくる軽やかな楽の音と、笑いさざめく人々の喧騒。母はほんの十年前までそこにいたのだ。そこにいて、今目の前を通りすぎていった、別世界の住人たちとともに笑ったり言葉を交わしたりしていたのだ。そう思えば思うほど、罪悪感は増していった。

 僕のせいなんだ――涙とともにあふれ、胸を刺した思い。

 僕がいなければ――僕が生まれなければ、母さんはあそこにいられたんだ。その思いは胸を刺し、傷口から血があふれた。

 暖かい部屋。満足な食事。薬と手厚い看護。城にいられたのならば、ごく当たり前に与えられたもの。自分のために、なくしてしまったもの。そして今の自分には、与えてやれないもの――返してやれないもの。

 死ぬんだ――母さんは死ぬんだ。自分が生まれてきて、母さんから何もかもを取り上げてしまったから、母さんは医者にもかかれず、満足に食べることもできずに、あんな貧しい暮らしの中で死んでいくんだ。

 大門に近づくこともできず、ただ空を見上げた。空は澄み、星の光が目を射た。

 死にたかった。叶うことなら消えてなくなりたかった。たった一人で自分を生み、ここまで育ててくれた母親を、こんな風に死なせることしかできない自分など、ただ一人の人をこんな境遇に追い込んだ自分など、消えてなくなってしまえと思った。

 それでも重い足をひきずり、泣きながらレーゲンスベルグに戻ったのは、母を埋葬しなければならないと思ったからだ。

 助けられないのならば、自分のために死なすのならば、せめて自分の手で葬らなければ。それまでは死ねない、と歯を食いしばってレーゲンスベルグに帰り、そして。

 師匠の――セプタードの父親の鉄拳に迎えられた。

 周囲の大人たちに助けられたのだと教えられた。みんなで出し合って貸してくれたお金で、医者にもかかり、栄養も取り、それで命の危機は乗り越えたのだと、そう教えられた。

『心配かけて、この子は!』

『何考えてるんだ、この馬鹿!』

 散々な説教も、何も耳に入ってこなかった。殴られた頬さえ、痛いとは思わなかった。ただ判ったことは、自分のしたことは何もかも無駄だったということ――ただ周囲や病床の母に心配をかけるだけかけ、迷惑をかけるだけかけただけで、何の意味もなかったのだということ。

 虚しかった。己の無力さが、途方もなく虚しかった。

 自分を抱きしめて泣く母に、何も言えなかった。ごめんとしか言えなかった。助かってよかったと、嬉しいとさえ言えない自分が嫌だった。

 こうやって自分がい続けるだけで、母に負担をかけ続けることが、迷惑をかけ続けることが、例えようもなく苦しかった。自分が存在することが、途方もない罪悪に思えて仕方がなかった。

 消えてなくなりたい。切実に思ったが、それは叶わない。

 お金がほしい――だからそう思った。せめて稼げるようになりたい。沢山金を稼いで、母が自分のためになくしたものを返したい。そのために剣を取り、がむしゃらに師匠に、兄弟子たちに突っかかって腕を磨き、そして。

 戦場で、人を殺した。

 己の握る剣が人を裂くのを、その手応えを、初めて味わった。刀身を、柄を伝って、熱い血が手を濡らした。

 人殺し。罵る声を耳の奥で聞いた。

 受け取ってもらえなかった、血まみれの金貨が母の責めのようで、手元においておきたくなくて、底無しの散財を繰り返した。

 そうやって生活に窮しては戦場に出て、罪もない同じ傭兵を殺して、血まみれの金貨を握りしめて戻ってくる。

 何をやっているんだ、俺は――どんなに問い返しても、抜け出せない泥沼。

 いまさら剣を捨てても、生きていけない。生きていく糧を得る術もない。だけど、そもそも、何のために金を稼ぐのだろう。

 何のために、人を殺してまで生きていくのだろう。

「あ……ああぁぁっ!」

 知らず、カティスの口から悲鳴が漏れた。

 心に蓋をした。今まで懸命に見ないようにしていた。己を偽り、他人をたばかり、隠しつづけた本性が、カイルワーンの告白にせり上がってくる。

 同じだからだ。彼が語ったことは、カティスの奥底と全く同じだからだ。

 カティスのぼやける視界に、別の像が浮かぶ。家の戸口に手をかけて、そして止まった己の姿。

 聞くな、と全身が叫んでいた。見たくない、と心が叫んでいた。でも記憶の奔流は止まらない。

『どうした?』

 訝しげにブレイリーが問いかけてきた。あれは自分が十一、二。セプタードとブレイリーが十三、四の頃。稽古の合間、何かの用事があって、三人で家に戻ってきた時。

 中から、話し声が聞こえた。

『アンナ・リヴィア、どうか話してちょうだい。あの子は、一体誰の子なの?』

『カティスの父親が誰だって、そんなのどうでもいいことではないですか。それがそんなに大事なことなのですか? 母上!』

 叫び返した母の言葉に、訪問者の正体を知った。涙まじりの叫び声に、動くことができなかった。

『どうだっていいってこと、あるわけないだろう。正直におっしゃい。もしあの子が、本当に陛下の子だというのなら――』

『陛下の子ならば、どうだというの!』

 悲痛な母の叫びが、その言葉の意味が、胸をえぐった。

『あの子は――カティスは、陛下の子であろうと、名もない馬屋番の子であろうと、私が産んだ、私の息子です! 母上はあの子を、陛下の子でなければ、王子でなければ愛してはくれないのですか。どうして、あなたの娘の子であるというだけでは、自分の孫であるというだけでは、愛してはくれないのですか』

『そんなこと言ったって、お前――』

『娘が私生児を産んだのでは体面が悪いから? 王のお手つきと言えば、箔がつくから? 孫が王になればこれ以上の誉れはないから? そんなことのために、私のカティスを巻き込まないで! そんな馬鹿げたことに、私のカティスを利用しないでっ!』

 凍りついた自分を、セプタードが掴んで引いた。

『行こう、カティス――これ以上、聞くな!』

 セプタードとブレイリー、二人に掴まれて半ば引きずられるようにその場を去りながらも、母の叫びが耳に届いた。

『帰って! もう二度とここには来ないで! 貧しくてもいい。生活が苦しくてもいい。カティスを利用できる駒としか見ない父上や母上なんかに、あの子は渡さない。絶対渡さないんだからぁっ!』

 泣き伏したのだろう。号泣が遠く聞こえた。

 その声が聞こえなくなる場所まで連れていかれると、気づかわしげな二人の顔が目に映った。なだめる手が、頭に乗せられた。

『泣いたっていいんだ。恥ずかしいことじゃない』

 その時自分は泣き出しそうな顔をしていたのだろう。けれどもそう言われても、泣けなかった。涙は一粒も出てこなかった。

 ただ脳裏を回っていたのは、ただ一つの言葉。

 どうして。

 どうして、何のために生まれてきたんだ。

 こんな風に、たった一人の親を泣かすためか。こんなにも、不幸にするためか。

 それならば、自分は――。

「はぁ……あぁっ」

 息をすることすら、辛い。腕の中のカイルワーンをすがるように抱きしめて、カティスは懸命に凍りつく息を吐き出す。

 見たくない。自覚したくない。もう感じたくない。

 どうして、こんなにも、ただ生きているだけで辛い。ただ自分がここにいる、ただそれだけのことが許せない。

 どうして。何が悪かったの。全身で問いかけても、答えが出ない。

 ただ泥のように深い倦怠が、身を包む。

 もういい。もう沢山だ。そう叫んだカイルワーンの気持ちが、痛いほどに判った。

 体から力が抜ける。懸命にこじ開けていた目蓋が、ついに落ちた。

 眠りたい。俺ももう何も考えずに眠りたい。そして、もう二度と――目覚めたく、ない。

 ずるり、と腕から力が抜けた。木の幹に預けていた体が崩れ、地面に倒れこむ。その冷たい感触を味わうとともに、カティスは遠く、微かな声を聞いた。

 それが何であるのかを理解する前に、カティスは最後の意識を手放した。

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