9章4節

 カティスとカイルワーンがカザンリクで別れてから、四日が経過した。大陸統一暦1000年3月12日、夜明け前にカイルワーンは寝台を出た。そして身支度を整え始める。

 吐血するほどの胃病が、たった四日で回復するはずもない。胃の安静のためにこの四日間絶食していたのだから、体力があるはずもない。だがおそらく全速力で飛んでくるであろうカティスのことを考えると、行動を起こさざるを得なかった。

 粗末な机の上には、この四日の間、善良なカザンリクの村人たちを騙して作ってきた薬が上がっている。それを厳重に包むと、上着の隠しに入れた。

 それは遅効性の毒薬。自分の体のための薬を作るのだと嘘をついて、村人たちに材料となる薬草を集めてもらい、体力の余裕を見ては作り続けたものだ。

 カイルワーンは、サンブレストの村人をこれで全て毒殺するつもりだった。生きている人間を焼殺しようと思うから、軍隊が必要になる。全ての村人を毒殺してしまえば、遺骸を村ごと焼き払うことは自分一人でもできる。

 サンブレストの村に入り、村で猛威を振るう奇病が伝染病だと告げ、その治療薬を作ってきたと偽って村人全てに飲ます。医者の肩書を持つ自分ならばできる。そう彼は踏んでいたのだ。

 上着から、財布を取り出して置く。中にはカティスが出立する時に、かっきり半分に割っていった路銀が入っている。決して少額ではないその金を、カイルワーンは一枚の書き付けとともに残して、そっと宿を出た。

 たとえ村の誰もが字を読めなくても、いずれカティスが戻ってくるだろう。そうすれば、自分の意は伝わる。迷惑をかけたせめてもの詫びに使ってほしいという、自分の気持ちは。

 もう彼に金は必要なかった。なぜなら、彼はもう戻ってくるつもりはないのだから。

 夜が明けようとしている村は、しみ入るような冷気に包まれていた。春が近いといっても、山間の村の夜はまだまだ寒い。外套の襟を立て、寒さに身を震わせると、カイルワーンは誰もいない村の広場で、空を見上げた。

 明けゆこうとする空は仄かに青く、東から来る穏やかな明るさが世界を染め始める。

 雲一つない、冷えきった夜明けは、涙が出そうなくらい美しかった。

 世界が美しいと、カイルワーンはこの時初めて思った。

 彼にとっての世界は、いつも暗闇に覆われていた。その闇はいつも害意を持って彼をなぶり、一時の憩いも与えることなく責めたて続けた。

 その世界に光が差したのは、五歳の時のこと。あの時一筋差し込んだ光は、彼に生きる力を与え、生きる意味を与えた。その光に導かれ、その光にすがりついて、これまでの時間を生き抜いてきた。

 そのことが正しかったのかどうか、今となってはカイルワーンには判らない。その光を自らで汚してしまうのならば――自らかき消してしまうのならば、なおのこと。

 僕があの時生き残り、ここまで生きてきたことの意味は何だったのだろう。

 アイラシェールに出会い、カティスに出会ったことの意味は、一体何だったのだろう。

 歴史を定め通りに回すため。

 あまりに簡単に出てしまう答えに、カイルワーンはかぶりを振る。

 それならば、この僕たちの心はどこに行く。この苦しみは、悲しみは、抱え続けて抱えきれなかったこの傷は、その痛みは、どこに行ったらいい。

 それさえも歯車だというのならば――ぎり、と握りしめた拳、手のひらに刺さりそうな爪が、彼の背中を押す。

 それは運命と神に対する、最後の抵抗。

 行かなければ――サンブレストへ。

 まだ誰も目覚めない村を抜けて、カイルワーンは薄明るくなってきた街道を東に向かう。緩やかな上り坂を最初走って登って、すぐに体力が尽きた。重い足をひきずり、すぐに上がる息を整え整え、それでも着実に前に――サンブレストに進んでいく。

『まだ動ける体じゃないだろう。それでもお前は行くのか?』

「行くさ」

 脳裏に声が弾けるのは、もう慣れっこになっていた。この四日間、彼女とはもう飽きるほど語った。語り尽くした。

 もう、訪れを動じることもない。

『臆病者のお前が、人殺しをしようなんて――しかも村人全て皆殺しなんて、そんな真似ができるものか』

「やるさ。それしかアイラを罪から遠ざける手段がないのならば――どんなことだって、してみせる。それが僕が今まで生き残ってきた意味だ」

『当のアイラシェール本人に、それを否定されているのに?』

 声に、足が止まった。ぜいぜい、と肩で息をして、虚空を睨むカイルワーンに、声はどこか哀れみを帯びた口調のままで告げた。

『塔に閉じ込められた人生など、いらないと言った。お前と暮らしたあの十四年を、不幸だったと言いきった。全てを投げ打っても変えたいと願い、お前との出会いも共に暮らした歳月も何もかも、なくなっても構わないと言ってお前の前から去った。どうしてそんな相手に、お前の全てを捧げなければならない? どうしてそこまでしてやらなければならない? 今頃はもう、お前のことなんて忘れて果てて、他の男のものになっているだろうに』

 声を真正面から受け止めて、カイルワーンは黙って歩みを進めた。けれども心にその言葉は刺さり、たらりとまた一筋、血が流れ出す。

 緋焔騎士団――そしてフィリス・バイド。魔女の愛人と伝承では揶揄される彼ら。どうして彼らは仕えていた王を裏切り、彼女の下に走ったのだろう。それは正義だったのか、それとも私利だったのか。

 それとも彼女に対する、愛のためだったのか。

 脳裏を、ぼんやりと苦い像が結ぶ。

 王の側に仕えることを許された、選り抜きの騎士たちだ。きっと誰もが堂々とした体躯を持つ、見事な青年たちなのだろう。剣を取り、馬を駆り、彼女のために命を投げ出して戦う、逞しく見目麗しい騎士たち。

 剣を持つこともできない、彼女を守るために戦うこともできない、こんな貧相な小男とは何もかもが違う、王女である彼女のそばに侍るにふさわしい者たち。

 それはもう想像に難くない。きらびやかな王宮の中心、贅を尽くした広間に集う人たち。

 流れる楽人の調べ。見事なドレスや宝石で着飾った貴婦人たちと、彼女たちを優しく導く貴公子たち。その流れるように優雅な身のこなし、雅びやかな立ち居振る舞い。そして式服が見事なほど似合う、凛々しい体躯。

 今城で、彼女の手を取っているのは誰だろう。彼女を抱き、踊っているのは誰だろう。誰でもいい。誰でも自分ほど、彼女と不釣り合いだということはあり得ないだろうから。

 そこは本来彼女がいるべき場所。そして自分が決して立ち入ることの許されない場所。たとえ許されたとして、あまりにも貧相な自分では身の置き所すらないだろう場所。

 目が、眩む。そこはあまりにも、穢れと闇にまみれた自分には眩しい。

『可哀相なカイル。もうお前はあの子にとって、過去に自分に仕えていた、一介の侍従にすぎないのに――思い出したくもない、疎ましい過去の中にいる、身の程をわきまえない厚かましい男にすぎないのに、そんな相手に己を捧げることでしか、生きていることもできないなんて』

 確かにそうなのかもしれない、とカイルワーンは思った。その通りなのかもしれないと。

 もう彼女は自分のことなど覚えてもいないかもしれない。あの塔で暮らした時間など、思い出したくもない忌まわしい記憶なのかもしれない。

 だがそれでも、と呟いて、懸命にカイルワーンは坂を上る。

「僕のことなんか、どうだっていいんだ」

 ぎり、と拳を握る。

「アイラが僕のことをどう思っているかなんて、そんなことどうだっていいんだ。僕は僕の身勝手で彼女を思い、己を支えるために彼女を拠り所にした。そこに彼女の意思は関わっていない――全て僕が勝手に選んだことだ。彼女に責任はないし、彼女が幸せであるのならば、それで――」

『それで、本当に、いいのか?』

 嘲りはなかった。ただ静かに、優しく、声は問いかけた。

『それで本当にお前は満足なのか? 幸せなのか? ……違うだろう。違うと思っているのが、私には判る』

 カイルワーンはうなだれた。声はいつだって、容赦なく彼の本心をえぐり出してさらす。彼女の言うことは、そう、いつだって間違ってはいないのだ。

『愛してほしいんだろう? 自分に笑いかけてほしいんだろう? 自分のものになってほしいんだろう? 恥じることじゃない。それは男として――一人の人間として、当たり前の願いだろう? だからこれまであんなにお前は頑張ってきたんじゃないのか?』

 違わない。何一つ違わない。唇をかみしめて、カイルワーンは坂を上る。

 愛してほしかった。

 自分を見てほしかった。

 自分のことが必要だと、そう言ってほしかった。

 それがどんなに身の程知らずな願いだと判っていても。不遜だと、思い上がりだと判っていても、それでも堪えきれなかった思い。身を焼いた炎。

 焦がれて焦がれて、そして全ての畏れをかなぐり捨てて告げた思い。

 だが、彼女は言った。

 ――もう目を覚まして。

 ――あなたにはあなたの人生があるでしょう。

 ――あなたにはあなたにふさわしい幸せを捕まえてほしいの。

 甦るのは、別れのあの日。彼女の最後の言葉。綺麗な字面の影には現実が隠れている。

 ――いい加減、己の分をわきまえろ。

 ――お前と私とでは、生きている世界が違う。

 ――私がお前の求愛になど、応えられると思っているのか。

 それが、真実。

『王女はお前のものには決してならない。お前のその苦しみが報われることは、決してない。たとえ今お前がその手を血に染め、運命を変えてやったとしても、王女の手を取り抱くのは、城にいる別の男だ。それが判っていてもなお、お前は行くのか?』

 どさり、と膝が落ちた。目眩がする体を冷たい地面に横たえて、カイルワーンは荒い吐息をもらした。前回は半日でサンブレストまで辿り着けたのに、進んでも進んでも、森をうがった街道は、ちっとも終わる気配を見せない。

 空を見上げれば、日が南天にかかっているのが判った。もう正午――なんて遠い道のり。

 立ち上がって、前に進まなければならないと思うのに、体が重い。足が萎えていて立てない。気力を振り絞ろうにも、心は痛みに支配されていて、力が湧いてこない。

 ――もしも、僕が何もしないままに死んだら、どうなるのだろう? 不意に思った。

 コレラは国中に広がるだろうか。サンブレストはやはり焼かれるだろうか。国民はその怒りをもって彼女を魔女と罵り、武器を手に城に押し寄せていくだろうか。

 その答えは、否だ。

 カイルワーンは、革命の真相をはっきりと自覚した。

 あれを革命と呼ぶことが、そもそも間違っている。史書は新たに来た王を讃えるために、現実に起こったことを美化したのだ。イプシラントに集結した革命軍とは、史書や伝説が伝えるような、国を憂える貴族と義心に駆られた民衆などではないのだ。

 あれは単純に、ラディアンス派とフレンシャム派の連合軍と、彼らに徴兵された傭兵や貧民の群れだ。

 おそらく、間もなくラディアンス派とフレンシャム派は手を組む。ティスリンとツェルケニヒでの劇的大敗は彼らに恐怖を抱かせ、王統派が驚異であると認識させた。そのため二派は共通の敵をまず取り除くため、共闘の道を選択する。

 そのきっかけが、大義名分が、サンブレストだったにすぎないのだ。

 確かにサンブレストで行われたことは非道だ。国民が国政に不満を持っていることは確かだ。だが、それだけで、国民全てが立ち上がるうねりになどなりはしない。

 なぜならば、この類の非道を、虐殺を、これを遥かに上回る規模で行った王など、ブロードランズ朝を見渡しただけでも幾人もいるのだから。

 ラディアンス派とフレンシャム派は叫ぶだろう。王と王妃を隠れ蓑にして城で専横を振るう者が、かような非道を行ったと。自分たちは王を救うため、国を救うために立ち上がり、軍を進めるのだと。

 その主張を、真っ向から信じる者は少ないだろう。だが兵を挙げ、中立を保っていた貴族たちを自軍に取り込むには、絶好の大義名分になる。その堂々たる主張に、正面から異を唱えることは難しい。こうして中立だった大貴族たちも彼らに与せざるを得なくなって、そして。

 王統派以外の全貴族と、彼らが自領で徴募し、そして未納の税の代わりに徴発した民衆が、イプシラントで合流することになったのだ。これがおそらく、革命の真相なのだ。

『サンブレストの大虐殺を止めたところで、何の意味もない』

 心の中に棲む声は、カイルワーンにささやきかける。

『お前が罪もない村人を手にかけ、大虐殺の汚名を引っ被ったとしても、ラディアンス派とフレンシャム派は手を組むだろうし、王統派と戦端を開くだろう。そして犬猿の仲であり、烏合の衆である彼らは、集結した大軍を運用することもできず、指揮権を巡って争い、その結果国軍相手に破れるだろう。今の戦いが終わった後、敵味方に分かれることが確定している者同士が、どうして連携することができるっていうんだ。いくら数に勝ろうと、そんな奴らで国軍相手に敵いはしない――そうだろう?』

 ああ、そうだ、とカイルワーンは呟く。それは全くその通りだ。

 そんな彼らが、なぜ圧倒的な強さを持って国軍を打ち破ったのか――答えは明白。

 それがカティスと自分の存在。

 それが自分たちが英雄と呼ばれる意味。

『もうおやめ、カイルワーン』

 それからどれくらい時間が経っただろうか。不意に声が、優しく諭すように、哀れむように、カイルワーンに言った。

『どんなに自分が頑張っても、どんなに自分があがいても、何にもならない――かえって周囲の人間を苦境に追い込むだけだったことが、もう判っただろう』

「それは……」

『お前が現れなければ、カティスはレーゲンスベルグで、気楽な傭兵のままでいられたんだ。何の責任を負うこともなく、仲間たちと気ままに生きていけたんだ。彼が心の底から望んでいることが何か、お前にも判っているだろう?』

 王になんかなりたくない――あの揺るぎない、しかし悲愴な言葉が耳に甦る。

 その彼を、望まぬ王位に押しやるのが、自分。

『アイラシェールだって、お前がイプシラントに現れなければ、魔女と呼ばれることも死ぬこともないんだ。理想に走りすぎるきらいはあるが、決して悪政を敷いているわけじゃない。ここを乗り切り、飢饉が過ぎて国が持ち直せば、政治も軌道に乗るかもしれない。もしかしたら中興の名君と讃えられるほどの者になれるかもしれない。その未来を、今の彼女の幸せを、叩き潰すのが誰なのか判っているだろう?』

 きらびやかな生活。誰に追われることも、憎まれることもない世界。自分が彼女に与えてやれなかった、全てのもの。

 それを取り上げて、彼女を死に追いやるのが、自分。

 認めたくなかった。決して認めたくなかったが、それでも否定することもできない。

 自分さえ、自分さえいなくなれば、何もかも全部うまくいく。

 自分の大切な人たちが、みんな幸せになれる。

「そんな……そんなの……ない……」

 天を仰ぐ黒い目から、涙がこぼれた。起き上がることもできずに、ただ痛みに顔を歪めてカイルワーンは呻く。

 ぎりぎりと鳩尾が痛み、嘔吐感が胸をかき回す。ざわざわと悪寒が全身をはい回り、ただ黙って横たわることにすら不快と苦痛を感じさせる。

 精神すらかき乱すその悪寒に、カイルワーンは堪えきれず悲鳴を上げた。

「苦しいっ……気持ち悪い……誰か、誰か……」

 苛立ちに似たそのざわめきは、自然に収まるのを待つ以外ないことを、カイルワーンは経験上知っている。だが一時とて堪えきれず、己の胸に爪を立てて叫ぶ。

「助けて……誰か助けて……誰か」

 誰もいない。判っていても、暴れ跳ねる体と心は、救いの手を求めてやまない。

「助けて……助けて、カティス……」

 知らず呼んだ名が、見ないようにしていた己の本心をさらけ出した。その瞬間カイルワーンは、自分がカティスのことをどう思っていたのかを――本当はどう思っていたのかを、初めて自覚した。

 こんなにも自分は彼に頼っていた。こんなにも自分は彼のことを支えにしていた。こんなにも自分は彼に助けられていた。

 アイラシェールを追ってこの時代に来て、目が覚めたその瞬間から彼はそばにいてくれた。見ず知らずの自分に声をかけ、面倒を見てくれた。そしてレーゲンスベルグに連れてきてくれて、宿を与えてくれた。沢山の人に引き合わせてもらった。そうして自分が孤独にならないよう、いつだって心を砕いてくれた。

 もし、あの時彼に出会わなかったら、一人で山中で目覚めていたら、自分はどうなっていただろう? 言うまでもない。路頭に迷ってのたれ死んだのがオチだ。

 塔に自ら閉じこもって十四年。他人に怯えたままで、人との接し方もつきあい方も何も知らない僕が、一人で生きていけただろうか。一人で自らの生活を構築し、アイラシェールを探していくことができただろうか。

 決まっている。否だ。

 カイルワーンの脳裏に沢山の人の姿が浮かんでくる。レーゲンスベルグで出会った気のいい傭兵たち。自分たちのことを信じろと、お前のことを心配しているんだと言ってくれた人たちの姿。賢者様と崇め奉るのではなく、まるで子どもをなだめるように頭に乗せてくれた大きな手。

 彼らの目にどんなに自分は傲慢な子どもに見えただろう、とカイルワーンは思う。そんな自分に怒りもせず、優しく間違いを正し、信じろと言い続けてくれた人。自分が欲してやまなかった、たった一言を言い続けてくれた人。

 粉粧楼の大きなテーブル。集う人たちの陽気な声。その中に自分の居場所があることが嬉しかった。その中に自分がたやすく招き入れてもらえるのが、誇らしかった。

 僕はそこからカティスを引き離し、冷たい牢獄へと追いやる。彼を王と崇めるだけで、彼の痛みや寂しさに構う者など誰一人いない場所へ――理解者など誰もいない、全てを己一人で背負う冷たい玉座へ。

 それが僕だ。

 これほどのことをしてくれた恩人を、そんな運命に叩き込むのが、僕だ。

 自覚した瞬間、猛然と、喉の奥から嫌悪が沸き上がってきた。たまらなく己が汚らわしく思えた。己の存在が許せなかった。

 嫌悪は悲鳴となり、狂おしい叫びになる。そんな彼に、声は優しくささやきかけた。

『苦しいかい? カイルワーン』

「苦しい……苦しいよっ!」

『苦しいだろう、カイル。可哀相に』

 伸ばされた手が、ついと喉に触れ、優しく撫でる。

 涙でにじんだ目が結んだ像に、カイルワーンは目を見開いた。

 それは記憶の最も深いところ棲んでいる女性の姿。

 憎んでいると思った。恨んでいると思った。決して許せないと思っていた。

 だがそれは違った。自分が彼女に対して、思っていたことはただ一つ。抱いた思いは、ただ一つだけだったのだ。

 こみ上げてくる。胸がいっぱいになる。

 こんなにも、こんなにも自分は彼女に会いたかったのだ。彼女のことが恋しかったのだ。

 震える唇が、歓喜の呟きをもらした。

「母さん……母さん」

 身を起こし、手を伸ばしてもその像には触れられはしなかった。だがそんなことは、彼にはどうだっていい。

 どうだってよかったのだ。ただその姿を目にすることが叶うのならば。

『もう判っただろう? あの時私が何を考えていたのか』

 艶やかな黒髪を流した美女――カイルワーンの実母、グレンドーラは、涙を流しながら己を見つめる息子にいとおしそうに笑う。

『お前のこれからの人生が、ただ苦しいばかりの甲斐のないものだと判っていたから、これ以上苦しまないよう、全てを終わらせてあげようとしたのに。それなのに、お前が浮かんでくるから――私の手を振りきって、浮かんでくるから』

「カイルワーン! カイル!」

 その時響いた、荒々しい足音と切迫した叫びも、カイルワーンには聞こえていない。

 聞こえている声は、見えているものは、ただ一つ。

 朱をさした唇が、呆然と――陶然としているカイルワーンの耳元で、そっとささやく。

『せっかく私が、この手でお前を――殺してあげようと、したのに』

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