7章7節

 隣家の扉をノックすると、明るい声で返答があった。夕暮れ時、町の人々が己にできる精一杯の夕食を卓の上に広げる頃。

「あら、カイルワーン。カティスと一緒じゃなかったの?」

「というところを見ると、やっぱり出かけてるんだ。……まあ、それはいいや。豆を煮たんだけど、ちょっと多く作りすぎたみたいで。どう?」

 カイルワーンの手には、木皿。湯気を上げている豆の煮物に、アンナ・リヴィアはぱっと顔を輝かせる。

「あら、おいしそう。いただいていいの?」

「遠慮なくどうぞ」

 皿を渡すと、じゃあ、と言って戻りかけたカイルワーンの服の裾を、アンナ・リヴィアが掴む。

「仕事でも詰まってるの? 一人の食事は寂しいもの。上がっていってよ」

 にこにこ笑顔は、有無を言わさぬものがあった。それに別段断る理由もない。小さな家の小さな食卓、おいしそうに豆を口に運ぶアンナ・リヴィアの向かいに腰を下ろす。

「ごちそうさま」

「お粗末さまでした」

 他愛ない世間話の花を咲かせつつ、一皿綺麗に平らげると、アンナ・リヴィアは満足そうに言った。そして立ち上がる。

「ご馳走になったお礼に、面白いものを見せてあげるわ。きっとカイルワーンなら、興味があると思うの」

 彼女が向かったのは、衝立で仕切られただけの隣の寝室。自分の寝台から寝具をどけ、シーツをはぎ、敷藁の中を探る。

「ほら、これ」

 敷き藁の底の底から取り出されたのは、細長い包みだった。結わえていた繻子紐をほどくと、一目で上等な物と判る白絹の覆いは、するりと床に落ちた。

 そしてあらわになる中身に、カイルワーンは息を呑んだ。

 身震いさえ感じた。

 白地に銀の紋様が刻まれた鞘、金の籠柄、一重の白薔薇紋、そして柄頭のサファイア。

 見間違えることなどあろうはずがない。

「そ、そんな……馬鹿な……」

 驚愕に、我を忘れた。

 それは、決してあらざるべきもの。

 震える唇が、知らず解を紡ぐ。

「レ……ヴェル……」

 手を伸ばし、触れかけ、だが反射的に手が止まった。それは無意識でさえ畏れてやまない、とても恐れ多くて触れることなどできやしない品。

「どうして……どうしてレヴェルが――王剣がこんなところに!」

 とても信じがたくて、認めがたくて、狼狽もあらわにカイルワーンは叫ぶ。

 王剣レヴェル――それは王権の象徴。ブロードランズ家およびロクサーヌ家の家宝中の家宝。王の証として、ブロードランズ朝およびロクサーヌ朝の歴代王により戴冠式で必ず捧げられ、公式な肖像画では例外なく佩剣した姿で描かれる、聖剣エスカペードの双子剣。

 レヴェルとエスカペードは、共にブロードランズ朝初代王によって作られた。アルバの独立、新王朝の樹立を祝って献上された品の中に、大粒の青玉と紅玉があったことから物語は始まる。

 この二粒の宝珠は、別々に献上されたにもかかわらず、不思議なことに大きさ、形、重さまでそっくり同じだった。この偶然の神秘を面白がった初代王が、国中の刀鍛冶に命じた。曰く、王室の家宝にするにふさわしい出来の、しかもそっくり同じ剣を二本打てと。それができ上がった暁には、神秘の宝珠を柄頭にはめ、王位の象徴とすると。

 そうして全く同じ刀身、同じ鞘、同じ柄を持ち、青玉と紅玉を戴いた二振りの剣、レヴェルとエスカペードが誕生する。

 作られた時は全く対等であったこの剣に序列がついたのは、三代王の時代。

 文王として名高い三代王は、その卓越した知性と政治手腕で王国を磐石にしたが、極端なほど戦争と殺傷、そしてそれを想起させる血とその色、赤を忌み嫌った。そのため三代王の御世において、血赤は禁忌の色とされ、それは聖剣であるエスカペードにさえ及んだ。戴冠式にもレヴェルしか携えず、それは四代王以降慣例となった。

 したがって、慣例的にレヴェルはエスカペードより格上扱いされているが、本来は二振りとも王位を象徴する同列の神器である。だからこそ、エスカペードが臣下であるフィリスに下賜されるということは、王権さえ揺るがす大事件であったのだ。

「そう、やっぱりあなたはこれがレヴェルだということ、レヴェルが何を意味するものかということが、判っているのね」

 冷やかな声に、カイルワーンははっとした。レヴェルを捧げ持つアンナ・リヴィアは、ひどく静かで緊迫した表情をしていた。それは今まで一度たりともカイルワーンが見たことのないもので、それ故彼は己の決定的な失敗に気がついた。

 試された――もしくは、引っかけられたのだ。

 しまった、と思ってももう遅い。

「あなたは初めて会った時、私のことをこう呼んだわね。『アンナ・リヴィア母后』と。どうしてあなたは、初対面のはずの私のことを知っていたの? そして母后という言葉は、王子の母親に使うこともあるけれども、普通王の母親に使う言葉よ」

 背筋に汗がにじんでくるのを感じた。カイルワーンは今までの人生の中で、一番恐ろしい局面に達しているのを感じた。

「あなたは自分の国が滅んで、この国に逃げてきたと言った。けれども、あなたの話す言葉は、少しおかしな言い回しをすることはあるけれども、正調の――貴族階級が使うアルバ語よ。あなたの話し方は、別に母国語を持っていて、アルバ語を習得した人間の話し方ではない。だけどこの数十年、アルバ語を母国語とする国が滅んだなんて話は聞いたことがない」

 冷徹な言葉が、カイルワーンを打つ。何一つ言えず、カイルワーンはただ青ざめたまま立ち尽くすよりない。

 今まで彼女が向けてくれた言葉が、優しさが、全て演技だったとは、嘘だったとは思えない――思いたくない。しかし彼女は、出会ったその瞬間から自分を疑っていたのだ。疑いながらも、あれほどまでに優しかったのだ。

 それはカイルワーンにとっては、ただただ恐ろしい。

 そんな彼にアンナ・リヴィアは、微塵も逃げ道を与えずきっぱりと問いかけた。

「カイルワーン。あなたは、一体何者?」

 迷いをはらんだ幾ばくかの沈黙の後、カイルワーンは覚悟を決めた。跪き、こうべを垂れ、恭しく口を開いた。

 信じてくれるか否かは、問題にはならない。

「これまでのご無礼を、ご容赦ください。私はブロードランズ朝初代王から数えて二十八代アルバ国王、クレメンタイン陛下とその第三王女アイラシェール殿下にお仕えする者。名はカイルワーン、姓を名乗れぬ、姓を歴史に残すことのできぬやむにやまれぬ事情を、どうぞおくみ取りください」

「立ちなさい。たとえあなたが何者であったとしても、私が何者であろうと、それが礼であったとしても、私はあなたを見下ろすつもりはないの」

 厳しい――怒りさえ含んでいるようなアンナ・リヴィアの言葉に、カイルワーンは立ち上がった。ためらいがちに見た 彼女の顔には、受け入れがたい事実を無理に受け入れた時のような、苦渋を飲み下すような、そんな表情が浮かんでいた。

「今が十六代王の御世……それから十二代後。となると一体、何年?」

「私の生年は1198年。1217年よりこの時代に参りました」

「ああ、そういう物言いもやめて。いつものカイルワーンに戻ってちょうだい。私はあなたを誘導したけれども、あなたを信じていないわけでは決してないのだから」

 苛立たしげではあったけれども、どこかさばさばとしたその物言いに――その最後の言葉に、カイルワーンは一瞬きょとんとした。

 それはあまりにも思いがけない言葉。

「こんな正気を疑うような話、信じるのか……?」

「常識に照らせば信じられないけれども、今までの疑問に照らせば、その答えはあまりにもしっくりくるもの。驚くより先に納得してしまったんだから、仕方ないわ」

 この瞬間、カイルワーンは完全に白旗を揚げたい気分になった。

 彼女には、どうあがいたって敵わない。それをごくごく素直に認めた。

「あなたは私の顔を知っていたのね。それは王宮に、私の肖像があるということ?」

「……ああ」

 偽れない。だから答えるが、事態がお互いの駆け引きとせめぎ合いになってきたことを、カイルワーンは感じていた。

 彼女の方が自分より数段上手で、とても太刀打ちできる相手ではないことは判っている。だがそれでも、問われるままに全てを答えることはできない。

 たとえ、こう問われても――。

「それは私がカティスの母だから?」

 そら来た、とカイルワーンは思う。

「カイルワーン、正直に答えて。……カティスは、王になるの?」

 彼女の息子もまた、彼に向けた問い。だが彼は、それに答えるつもりは決してない。

「ならば、僕こそ逆に聞きたい。アンナ・リヴィア、あなたはその問いに『はい』と答えてほしいのか? それとも『いいえ』と?」

 アンナ・リヴィアが自分を試すようにしてしか聞き出せなかったように、自分にだって問えなかった疑問はあるのだ。その疑問の山は、レヴェルの存在によって、さらにぐちゃぐちゃに入り組んでしまった。

 だからこそある意味、落ち着いてきたら怒りも湧いてきた。それはカティスのことを思えばこそ。

 王になんてなりたくない――その理由は、決してあの時告げられたことばかりではないだろう。その結論に至るまでには、口にはされなかった様々な苦悩や苦痛が存在していたはずだ。

 ただ独り、アルベルティーヌ城の門の前で立ち尽くしたのであろう、小さな子ども。

 様々な事情があろう。だが、その原因を作ったのは――この事態を招いたのは、間違いなくアンナ・リヴィアその人なのだから。

「あなたはカティスに、王になってほしいのか? カティスは……カティスは本当に」

 カイルワーンは、とうとうその言葉を口にした。

「レオニダス王の、子なのか?」

 今度は、アンナ・リヴィアが沈黙する番だった。彼女は唇を噛んでうつむき……やがて、カイルワーンと同じ手法を使った。

「あなたの時代では、そういうことになっていないの?」

「アルバ史上最大の謎だよ。なにせカティスが一生涯、肯定も否定もしなかったから」

 今になれば、何となく思う。

 もしかしたらカティスは否定したかったのに否定を許されず、肯定しなければならないのに肯定したくなかったのではないかと。だから肯定も否定しなかったのではないか。

 それは己の意に反して王になった彼の、ささやかな抵抗であったのではないだろうかと。

「あなたが予想している通り、カティスは確かに歴史に名を残した。王宮に母親と共に描かれた肖像が飾られるだけの人物になった。それは認める。だが彼がレオニダス王の子なのかは、結局判らなかった。噂になり、取り沙汰されるものの、彼の業績の真価は別のところにあったから」

 彼はレオニダス王の子だから、王になれたわけでは決してない。要因の一つではあるが、それが全てではないはずだ。その理由はおそらく、自分が推測している通りだろう。

 なぜ彼が英雄王と呼ばれるのか。

「あなたが私の問いに答えられないように、私もあなたの問いには答えられない。けれども幾つか、教えてあげられることはある。そこから先は、推測に任せるわ」

 観念したようにアンナ・リヴィアはため息をついて、言った。

「一つ目。私は確かにレオニダス陛下の側近くに仕えた。二つ目。私は確かに城の中の男性と関係を持ち、その結果カティスを身ごもった。三つ目。女官を辞めて城を下がると言った私に、レオニダス陛下はレヴェルを持たせた。以上よ、判るわね?」

 アンナ・リヴィアの言葉は、すでに明らかになっていることの確認にしかすぎない。しかし、それを改めて取り出すことは、ある示唆を含んでいた。

 特に三つ目。

 王にしか開けられない宝物庫にしまわれているレヴェルを、盗むことなんてできない。となれば、ここにレヴェルがあるということは、レオニダス王が彼女に下したとしか考えられない。

 しかし、それが意味するところは――。

「レオニダス王が、カティスに王位を譲ると――そういうことなのか?」

「だからといって、カティスがレオニダス陛下の子どもであると確定しないことは判るわね。レオニダス陛下が、王統を混乱させないために、誰でもいいから王位を継がせてしまえと考えたという可能性だって、あるのだから。考えようによっては、レオニダス陛下が王権などどうなってもよいと、捨て鉢になっていたとさえ考えられるわね」

 カイルワーンは頷いた。彼女の言うことはもっともだ。なにせ、彼女のお腹の中の子どもが男か女か判らない段階で、王はレヴェルを与えてしまっているのだから。またその子どもが、無事に生まれ、無事に育つという保証もない。賭にしたってあまりにも危険で、常軌を逸している。それくらいのことをしているのだから、自分の子ども以外に王位を継がせてしまおうと考えたという仮定も、何も不自然ではない。

 しかし、アンナ・リヴィアの答えは、だからといってカイルワーンの問いを否定しているものでもない。

 レオニダス王が王位の行方を、その命運を、アンナ・リヴィアとそのお腹の中の子供に委ねたことは、疑いようもないことだ。

「だったら、どうしてあなたは城を出たんだ? レヴェルを下された――それがレオニダス王の後継指名と大部分の人間は受け取るだろうが、だからといってそれだけですぐ王になれるほど、世の中単純じゃない。カティスを王にするのならば、城に留まってレオニダス王の下で育てた方が、遥かに簡単だったじゃないか」

 無論カイルワーンには、以前感じた疑惑――城に留まれば身の危険があったというそれも念頭にはある。それでもなお確かめるべく問う彼に、アンナ・リヴィアは小さくため息をもらして答えた。

「城を出たのには、色々な理由がある。言えない理由もあるわ。でも一番の理由は、城に留まれば、カティスには王になる以外の人生があり得なかったから。私はカティスの人生に、ありとあらゆる選択肢を残しておきたかった。だから城を出たの」

「なんだって……?」

「カティスに王になってほしいのか、と聞いたわね。その答えはないわ。以前言ったように、私はカティスがどんな道を選んでくれてもいいと思っている。王になるもよし、平民として終わるもよし。だけど私が城に留まれば、カティスが平民として平凡に生きていく道を、その可能性を摘むことになったのよ。だから城から出て、平民としてこの街で生きていくことを選んだ。……貧民にしたかったわけじゃないけれども、私一人の力では、この程度の暮らしが限界だったからね。仕方がなかった」

「ならばどうして、レヴェルを受け取った。平民として生きていかせたかったのならば、こんなもの置いてくればよかったじゃないか!」

 なぜか怒りが浮かんできた。その理由も判らず、カイルワーンはアンナ・リヴィアに叫ぶ。だがそんな彼にも、彼女の表情は変わらない。

「言ったでしょう? ありとあらゆる選択肢を残しておきたかったのだと。私はカティスに、王になるという道も、可能性をも残しておきたかったのよ。そのためには、レヴェルはどうしても必要だった。判るでしょう? 平民として育った人間が、突然王子として名乗りを上げたところで、一体誰が信じてくれるというの? カティスが王になるには、絶対的な証拠が――権威が、必要だった」

 カイルワーンは愕然とした。

 この時彼の理性は、この理屈をすんなりと受け入れていた。確かにレヴェルなしでは、カティスは王位につくことはできないだろう。だが、感情がかけらも納得しなかった。

 知らず掴んだ握り拳が、微かに震える。

「カティスは……そのことが――あなたの意図が、判っているのか?」

「どうかしら。私はあの子に、これを見せたことは一度もないし、父親の話だって一度だってしたこともないわ。けれどもこんな狭い家だもの。どこに隠したって絶対見つかるし、一重の白薔薇が王家の紋章だってこと、あの子も知ってる。あの子はあの子なりに、この剣を見て、色々なことを考えたでしょうね。……おそらく、あの子が自分が生きる道として剣を選んだことは、少なからずこれが影響している気がするわ。だってあの子は他の道を選ぼうと思えば、できないことはなかったのよ。商人や職人の元に奉公に上がって、徒弟となることだってできた。そりゃあ稼ぎは傭兵よりは少ないだろうけれども、人殺しなんて縁のない一生だって歩めた。けれどもあの子は、それが判っていてなお剣を選んだ。その選択に、これの存在はきっと無関係ではないはずよ」

 何も知らない。アルベルティーヌの木の下で、カティスが告げた言葉の重さが胸にのしかかってきた。幼いカティスはこの剣を見つけた時、どんなことを思ったのだろうか。

 自分たちの貧しい暮らしにはあまりにもふさわしくない宝剣。刻まれている王家の紋。そしてどんな問うても答えてくれない、自分の出生の謎。幼いカティスの心をよぎったものを、察することなどできやしない。

 知らないという、その不安。それは底無し沼の上に立っているようなものだろう。自分が何なのか、過去に何があったのか、これから何が起こるのか、何一つ判らない。母の気持ちも、意図も、己の境遇の理由も。何一つ己に確かなところがなく、依って立つ場所がない。少しでも足に力を入れれば、ずぶずぶとどこまでも沈んでいく。

 そしてそれは、今もなお何一つ変わってはいないのだろう。だから彼は、できうるかぎり考えないように――現実から目をそむけようとしているのではないのか。そう、考えたら最後、どこまでも不安の底無し沼に沈んでいって、どこにも逃げられないから。

 ノアゼット行きを止めたあの雪の夜、ブロードランズの名を呼んだ時、なぜカティスがあんなに怒ったのか、怒りをもってその事実を否定しようとしたのか、判ったような気がした。そしてアルベルティーヌの木の下で語ったことが、どんなに彼にとって勇気が必要だったのかも。

 だから。

「……無責任だ」

 こんな言葉が、漏れる。

「あなたはカティスのことを思ってしたことだって言う。ああ、そうだろう、それは全く正しいだろう。だけど、当のカティスがこれまでの時間、何を考えてきたのか――何に苦しんできたのか、あなたには判っているのか! あいつが不安に思ったこと、苦しんだこと、そして己を責めたこと――それがあいつの人生に及ぼしたことと未来を秤にかけたとして、それは本当に未来の方が重かったのか? 未来なんて、選択なんて、心の有り様で、その苦しみで、どんどん狭められていくものなのに!」

 未来なんて、自分の思い通りになるものではないのに――カイルワーンの内心は、言えぬ言葉を叫び続ける。

「言ってやったってよかっただろう! 王の子ならば、王子として育てられなかったのだから責任を負う必要はないと言えばいい。王の子でないのならば、それでも野心を抱くのならば王位をうかがえと。判ることで選択肢は狭まったのか? 僕にはそうは思えない。それとも――」

 不意に、カイルワーンの表情が悲しげに曇った。自分ですら考えたくなかった仮定が、カティスの出生には存在する。それこそが、彼に自身の出生を明かせなかった理由なのではないかと。

 たった一人の不能の王子と、二十五歳も年の離れた弟。あまりにも不自然な、彼の存在理由。

「言えなかったのは……カティスが、王位を継がせるために作られた、道具だからか?」

 レオニダス王逝去間際に生まれたカティス。二十五年の間一人も産まれなかったのに、突然奇跡でできた子。それを考えれば、どうしてもその仮定を浮かべずにはいられない。

 カティスが真実レオニダス王の子だとして、彼が生まれた理由は果たして偶然だろうか。女官が王の目に留まり、寵愛を受けて子を身ごもり、王妃や世継ぎの嫉妬を恐れて城を出た――世間で語られる英雄王の誕生秘話。果たして真実は、そうだったのだろうか。

 本当に、アンナ・リヴィアは望んでカティスを身ごもったのだろうか?

 もしかして、それは――。

「カティスは道具よ、レオニダス陛下にとっては。カティスへの愛があろうがなかろうが、陛下の血を引いていようがいなかろうが、王位を継ぐ者という観点が存在する以上、カティスの存在意義は陛下にとってはそれしかない。ここにレヴェルがあるということが、そのことの何よりの証明よ」

 絶望的な言葉を紡ぐアンナ・リヴィアに、カイルワーンは唇をわななかせた。何か言おうとして、それでも何も言えない彼に、彼女は寂しげに目を細めると続けた。

「それが王子に生まれるということ。自分の価値も、人生の目的も、何もかもが王家のため、国のため、そして周囲の人間の思惑のため――自分以外の何物かの道具でしかない人生。それが王族であるということ、王家に生まれるということ。ウェンロック陛下の孤独は、そこにあった」

「ウェンロック王……?」

 意外な人物の名を聞き、カイルワーンは目を瞬かせる。怒りの矛先を交わされたことは気づいていたが、彼女の語ろうとしていることもまた気になった。

「あの方は自分が王家の――そしてアナベル王妃の道具でしかないことを知っていた。王になること、王であること、それ以外の価値を見いだす道を全てふさがれて、そして最後に王であることさえ否定された。――レヴェルが今ここにあるということが、ウェンロック陛下にどんな思いを抱かせたのか、あなたなら想像がつくでしょう?」

 問いかけに、カイルワーンは胸の奥が締めつけられるような共感を覚えた。

 レヴェルは王の証。それを父王が他人にくれてしまった――それはお前には王位はやらない、王として認めない。そう突きつけられたも同然だ。

 レオニダス王の真意は判らない。彼がウェンロック王をどう思っていて、その上でなぜレヴェルを手放したのかも。唯一の王子として、王太子として磐石の地位にあるウェンロック王ならば、王剣なしでも大丈夫だと思ったのかもしれない。

 しかし、それも全てどうだっていいことだ。ウェンロック王にとって意味があることは、父王が王位の証を自分には与えてくれなかったというこの現実だけで、その前にはどんな真意も意図も事情も無意味だ。

 親に見捨てられた子供――その思いはあまりにも覚えがあって、カイルワーンはきつく唇をかみしめるより他にない。

「ウェンロック陛下はいつも己に問いかけ、探し続けておられていた。己の生まれた意味を、己の人生の目的を。それが『王であること』以外の何物でもなかったことが、それなのに、それを自分のせいではないのに全うできなかったことが、あの方の不幸」

 子を残せない。責務を果たせない。そのために廷臣に軽んじられ、妃に裏切られ、国を混乱させたと国民に責めたてられる。それでも王になるしかなかったのに、最後には親にさえ見捨てられ、王としても否定された彼はどこに行けばいいというのだろう。

 ウェンロック王にも苦悩があった。最低の王として綴られる、ブロードランズ朝最後の王。その彼の孤独に、苦悩に、一体誰が報いてやれるのだろうか。

 おそらく、誰も。

 それが『王』なのだ――おそらく。

「カティスの価値も存在意義も、もしかしたら国家の道具としてしかないのかもしれない。本人がどんなに抗っても、無駄なのかもしれない。でも私はたとえそうだとしても、そのことに怒り、泣いてくれる人を一人でいいからあの子に与えたかった。その運命を変えてくれなくていい。ただ一緒に泣いてくれる人を、刹那でいいからあの子に与えたかった」

 アンナ・リヴィアは本当はもう判っているのだ、とカイルワーンは悟った。

 自分がどんなに肯定しなくても、カティスが王になることを。

 この世には運命と呼ばれるものが存在することを。

 自分が何を言わなくても、彼女はカティスを身ごもったその時から、それが判っていたのかもしれない。

「レーゲンスベルグの賢者カイルワーン。医者で、学者で、発明家で、料理家で、そして預言者である方。今の時点ですら間違いなく歴史に名を残すあなたが、カティスと出会った。そのことの意味を、私はずっと考えてきた。そして――神に感謝した」

「アンナ・リヴィア……?」

「カティスの道を共に行く人が、あなたでよかった。その役を負うのが、あの子と同じ痛みを感じ、共に泣き、あの子のために怒ってくれるあなたで、本当によかった。たとえそれが、あなたにとってどんなに苦しいことだとしても」

 何も言えない。自分が嬉しいのか、怒りを覚えたのかも判らない。ただ波立つ心を抑えることもできず、ただ戸惑い立ち尽くすカイルワーンに、アンナ・リヴィアは泣き笑いを浮かべた。

「利己的な母と、罵ってくれていいわ。あなたの気持ちにお構いなしで、自分の子のことしか構わない、愚かで浅ましい母だと。それでもどうか言わせて。カイルワーン、どうかあの子を――カティスを、頼むわ」

 その言葉に、カイルワーンの脳裏を様々な思いが駆けめぐった。僕だってアイラシェールのことしか考えてないんじゃないかとか、僕もカティスのことを利用しているだけなんじゃないかとか、お願いされるほど僕がカティスに何かをしてやれるだろうかとか、それは様々な思いが。

 だがそれでも、カイルワーンは握り拳を固めてうつむき、小さな声で答えた。

「……ああ」

 王者の光、魔女の影――マリーシアの哀歌にそう歌われる自分。その通り、自分は魔女であるアイラシェールと固く運命で結びつけられている。だがそれと等しい強さで、王であるカティスとも結びつけられている。対立し、戦いさえする二人に砕く心もきっと等分で、それ故自分は王のものでもあり、魔女のものでもある。

 そしてその糸は己の心でできていて、それこそが天の繰り糸。

 それを切る方法はただ一つしかなく、だから自分はここにいるのだと、静かにカイルワーンは認めた。

 運命は、決して変わらないのかもしれない。

 己が、壊れてしまわない限り。

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