5章8節

 これからどうするか。そう考えれば、結局カイルワーンの取り得る選択肢は二つしかないのだということに、カティスは気づいていた。

 諦めてレーゲンスベルグに帰るか、徒労に終わるであろう空しい努力を続けるか。

 カイルワーンは恐らく、前者は選ばない。壊れて動けなくなるその瞬間まで、足掻き続けようとするだろう。だとしたら、それを言い出さなければならないのは自分だ。

 だがそれを、いつ、どんなタイミングで切り出すのか、ということが問題で。

「行きたいところがあるんだ。つきあってくれないか?」

 カイルワーンが切り出したのは、入城式の翌々日。疲れきって寝込んだ一日を挟んで、彼は体力的にはそれなりの回復は見せていたので、カティスは朝食の粥を口に運びながら同意した。

 取りあえず『その時』まで、カティスはカイルワーンにつきあう覚悟を決めていた。

「わざわざ言うところを見ると、遠いんだな」

「一時間……いや、それじゃ無理か。二、三時間もあれば着くと思うけれども」

「大した距離じゃない」

「ただ、着いた後で苦労するかもしれない」

 カイルワーンの言葉の意味を、目的地に着いた後カティスは深く理解をした。

 アルベルティーヌから北へ。田舎道を辿り、カイルワーンがカティスを連れていったのは、何の変哲もない村だった。

 小さな村の奥に広がるのは、深く静かな森。

「こんな田舎の村に、何の用なんだ?」

「用があるのは、村じゃない。この森だ」

 カイルワーンは村から広がる森を見やり、言った。

 カイルワーンは思い返す。二百年後、自分はこの森と王城を毎日往復した。そしてその森の奥に佇んでいた小さな山荘から、この時代へと運ばれてきた。

 村と森の名を、シャンビランという。

「あの森は今、どんな使われ方をしているんだろうか?」

 村でただ一軒の旅籠に宿をとり、カイルワーンは女将に話を聞く。

「どんな、と言いますと?」

「いかにも狩猟に向きそうだよね。王家や貴族が狩猟場としたいなんて、言ってきたりはしないのかな」

「まあ、そんな恐れ多い。確かに鹿や兎は沢山いて、男たちは猟で生計を立てておりますけれども、貴族の方々が見えられるなんてとてもとても」

 手を振って否定する女将に、カイルワーンは渋い顔をした。

 この時代、シャンビランの森はまだ王家の所領にはなっていない。それはカイルワーンの微かな望みが、打ち砕かれる可能性が高いということで。

 それは夜になり、酒場でもある旅籠の食堂に集まってきた村の男たちに話を聞くにつけ、さらに高まった。

「森の中に、狩猟場にするための山荘や、休息場を作ろうという動きはないのか?」

 問いかけたカイルワーンに、素朴で気のいい村人たちは、ビールの杯を片手に答えた。

「そういう話があるのか? ここら辺の森が貴族の物になっちまうとなると、俺たちは飯の食い上げだぜ」

「じゃあ森の中で、そういうものを建てようとしているのを見たことはないんだな」

「森の中に建物を建てるとなると、それは大事だ。村の人間が気づかないわけがねえさ」

 村人たちの回答に、カイルワーンはため息をもらした。

 夜も更け、自分たちの部屋に引き上げてきた後、カティスは当然の疑問をカイルワーンにぶつけることとなる。

「お前は、あの森の中に貴族か王家の山荘がないか探しているんだな」

「……そうなんだけど、話を聞く限りでは、なさそうな感じだ」

「なぜだ。何のために」

 カティスは単刀直入に聞くが、カイルワーンとしてはそれは返答に窮する問いだった。

 言い訳や言い逃れをあれこれ考え、やがてカイルワーンは口を開く。

「こんな話を聞いたことがある。王家がシャンビランの森を狩猟場にして、休息場として山荘を建てようとしていると。だが狩猟場というのは名目にすぎず、山荘を建てる目的は別のところにあると」

「真の目的は」

「有事の際に、城から王族が脱出するための隠し通路を作ろうとしているらしい。アルベルティーヌ城の中から地下を通して、誰にも気づかれずに脱出できるようにな」

「……大それた試みだな。できるのか? そんなことが」

「不可能ではないだろう。人一人通れるくらいの大きさなら、何とかなる」

 実際僕がそれを通ってアルベルティーヌから脱出したんだ――そんな台詞は、到底カイルワーンは口にできるものではないのだけれども。

「話が見えてきたぞ。つまりはその出口が、ここの山荘だということなのか? だからお前はここに来たんだな。隠し通路を逆に辿って、王城に入り込むために」

 カティスの指摘に、カイルワーンは頷いた。

「確実な筋の情報だったんだけれども、まだその山荘は作られていない。となれば、その隠し通路もまだ作られていないと考えるべきなんだろうな」

 カイルワーンはカティスにそう告げて、深く考え込む。

 隠し通路に到る鍵を賜った時、クレメンタイン王は『カティス王の時代から、代々アルバ王に伝えられてきたもの』と言った。だから一縷の望みを賭けて、シャンビランまでやってきたのだ。だがいまだ、それは作られていない。

 となれば、あの通路は今目の前にいる、このカティスが作ったものなのだろうか?

 その治世は勝利と栄光に満ち、逃げることなど考えられもしないような英雄王が?

 それとも――その通路の存在を知る者が。

 歴史を、全うするために。

 糸が見える。透明の、光に透けてきらきら光る、細い天のり糸が。

 背筋を、冷たい感触が這う。

 翌朝、二人は酒場で親しくなった地元の猟師たちの案内で、シャンビランの森の中に入った。カイルワーンにとって歩き慣れた森は、当然のことながら二百年の歳月で、全く姿を変えていた。

 見覚えなど、影も形もあるはずがなかった。

「動かないように見える森も山も、数年で姿を変えるっていうのに」

「カイルワーン?」

「どうして人って奴は、こうも変われないんだろう」

 藪をかき分け、息を切らしながらもカイルワーンは音を上げなかった。辛抱強く足元を踏みしめながら歩き、ぽつりと洩らす。

「判っていながら、どうして同じことを繰り返すんだろう」

 カイルワーンが何を考えてそう言ったのか、カティスには判らなかったが、その一言は確かに真実で重い。だから彼は何も答えず、ただ黙々と獣道を進んだ。

 そうして二日がすぎて、二人は結論を下さなければならなかった。

 シャンビランの森に、王城への抜け道はない。

「どうする?」

「ここで空しい山歩きを続けても、意味はないだろう。まずはアルベルティーヌに戻るよりないよな」

 そして二人は次なる策を求めて、王城都市に戻ってきた。

 王城周辺をぐるりと周り、カティスはふと思いついてカイルワーンに問いかける。

「城の堀の排水って、どうなっているんだ?」

「カティス?」

 カティスは木の枝を拾ってきて、地面に小さな丸を書く。

「これが城。城は中洲に立っていて、周囲を堀に囲まれている」

 小さな丸の外側に足される、もう一つの丸。

「その堀から外側に城壁があって、大門がある。この城壁も大門も乗り越えるには高く、すり抜けるには隙間がない。でも、そうだとしたら堀の水も、逃げ場がない」

「そうか」

「雨があれば堀だって増水するし、渇水すれば堀が役目を果たさなくなる。どこからか取水して、排水する仕組みが存在していなければ、大雨の時城が水に漬かる」

 カティスの言うとおりだった。カイルワーンはその言葉に、懸命に頭の中に収められた書物をめくる。

 それは皮肉にも、賢者が残した書物『六月十三日』だ。それには大陸暦1000年6月13日に彼がどのようにアルベルティーヌ城を攻略したかが記されており、詳細な城の見取り図も付されていたからだ。

 どうして賢者は――未来の自分は、過去の自分の行動の拠り所になる著作を残したのだろう。そうカイルワーンは不思議に思う。

 もしその著作を残さなければ、賢者としての自分は決定的な力を失う。著作に詳細に残された記録がなければ、過去の自分はセンティフォリア・ノアゼットとの戦争に勝つことはできないだろう。

 自分が軍師として名を残すのが、自らが軍事的才能を持っていたからではないことを、カイルワーンは痛いほど判っているのだ。

 だからそれだけで、歴史は変えられる。

 それが判っていながら、なぜ大陸暦1000年以降の自分は、歴史に諾々と従うような行動を取るのだろう。

 変えられぬ運命の悲痛をしたたかに味わっているはずなのに、また生まれてくる自分が同じ悲劇を歩む下地を、なぜ自ら築いていくのだろう。

 判らない。けれども今の自分は、歴史を――運命を変えることを、諦めたくない。

 たとえそれさえも、歴史の中の予定調和なのだとしても、投げ出すことなどできない。

 だから頭の中で見取り図を取り出して、広げてみる。

「城から水が出るとすれば、それが流れ込むのはセミプレナ運河じゃないか?」

 アルベルティーヌの街を唯一流れる川。当然のカティスの結論に同意し、二人はセミプレナ運河に向かう。

「城壁に水門は存在しない。とすれば、城内に水門があって、そこから地下を潜って川に流れ込む仕組みになっているはずだ」

「だとすれば、川を潜っていけば堀につながる地下水路に辿り着く?」

「理屈ではそういうことになるんだろうけど、問題は水門と地下水路の段差だ。人が這い上がれっこないほどの高さがあった時は」

「……溺死だな」

 カティスが苦い結論を出した頃、二人は王城に近い川辺に辿り着いた。日は暮れ始め、冬の川辺は寒々しい気配を漂わせていた。

 彼ら二人の他に人影はない。

「どこら辺から地下水路が合流するかな……カイル?」

 呼びかけて、カティスは傍らにいたカイルワーンの異常に気づいた。

 顔から、血の気が引いていた。

「どうした、カイルワーン」

 目が虚ろに、水面の上を彷徨っていた。細い肩が、小刻みに震えて、揺れている。

「……ここ、だ…………」

 消え入りそうな声が唇からもれた。問いかけるカティスの存在すらも忘れ、ただカイルワーンは川辺に立ち尽くす。

 判ってしまった。忘れようとして忘れようとして、事実思い出さずに何とか日々を暮らせるようになっていたのに。

 この場所に来て、彼は判ってしまったのだ。

 時が違う。今は大陸統一暦の998年で、あれは1202年。二百年もの膨大な時が過ぎ去った後のことだ。それは判っていた。

 だが、ここだったのだ。二百年たってもそびえ立つアルベルティーヌ城と、二百年たっても流れ続けるセミプレナ運河。

 夕暮れ時。

 冬の風。

 燦然と輝くアルベルティーヌ城の灯火の照り返し。

 引きずり上げられる力と、押し下げられる力。

 きらきらと高い水面で輝く光と、上がっていく細かい泡。

 日の赤い光。迫ってくる夜の闇。

 それらを織りまぜた、水面の綾。

 目の前を変わらず、鮮やかなまでによぎっていく情景。それは過去のはずだった。もう終わったことのはずだった。それなのにそれは、ひとかけらの翳りもなく、鮮やかに目の前で巻き戻され、再生される。

 そうだ。あれは、二百年後ので、起こったことだったのだ。

「いやだ……いやだああああああっ!」

 頭を抱えて叫び、カイルワーンは地面に崩れ落ちた。自分の中に荒れ狂う感情を制御する術もなく、ただ彼は叫ぶより他ない。

「いやだ……嫌だ! やめてっ! やめてくれっ!」

 十五年がすぎた。優しい人に出会えて育ててもらって、愛しく思える人に出会えて、全て乗り越えられたつもりでいた。もう無力な子供ではないと。何もできない、役立たずではないのだと。

 だがそれは違った。きっかけさえあれば、記憶はいつだって甦り、彼を容赦なく襲う。目の前で全く同じ強さと輝きを持って閃き、何度でも彼を消し去りたい過去へ引きずり戻す。

 あの時と同じように、息が、詰まる。

「いや……苦しい! 苦しいぃっ!」

「カイルワーン!」

 カティスには、カイルワーンに何が起こっているか、さっぱり判らなかった。けれども彼が今、尋常でない状態に置かれていることだけは、はっきりと判った。

 怯えきって叫び、悲鳴を上げ、泣き喚くカイルワーンはあまりに小さく、そこに自分が羨望を感じたあの尊大な『賢者』の影は、どこにも存在しない。

 これがカイルワーンの、真実の姿だというのか。

「カイル、落ち着け! 何も危ないことはない。誰もいないだろう! 誰もお前に何もしない!」

 意を決し触れると、その体は激しく震えていた。うずくまり、暴れ出す自分の体と心を制することのできないカイルワーンを押さえ込むように抱きしめて、カティスは呪文のようにささやき続ける。

「大丈夫だ、落ち着け……大丈夫だ」

 安請け合いだとは判っているけれども、カティスは他に言ってやれる言葉がない。

 腕の中のカイルワーンはすがりつくようにカティスの胸元をきつく握りしめ、立てられた爪の痛みが彼の恐怖を物語っているようだった。

 悲鳴はもはや言葉としては聞き取れず、くぐもった声が響き渡っていた。

 カティスはカイルワーンがやがて力尽き、ぐったりと自分に体を預けてくるまで、辛抱強く待ち続けた。全身に冷や汗をかき、目も開けられず、ぜいぜいと激しく肩で呼吸をする彼が、ひどく消耗していることは明白だった。

 だから宿まで彼を運んでいく過程で、カティスの決意は固まっていた。

「……情けない姿を見せた」

 翌朝宿の寝台で気がついたカイルワーンは、枕元に付き添っていたカティスに言った。起き上がることも、カティスの顔を直視することもできず、やり場のない視線がさまよう。

「何が、起きた?」

 少しためらいがちに問うたカティスに、カイルワーンは小さく答えた。

「……思い出したくないことを、思い出した」

 カイルワーンはそれ以上何も言おうとはしなかった。カティスは長い沈黙の時間を待ち、それ以上は問えぬことを悟った。

「本当に君には迷惑をかけどおしだ。こんな馬鹿なことにつき合わせて……本当に、申し訳ないと思っている」

「本当にそう思っているのなら、一つだけ俺の言うことを聞け」

 怪訝な顔をするカイルワーンに、カティスは厳しい口調で告げた。

「レーゲンスベルグに帰るぞ」

「でも……」

「でもも何もない。お前は自分が今どんな状態か、判っているのか」

 カイルワーンは表情を歪めた。

「迷惑だというのなら、君だけ帰ってくれればいい。これ以上こんなことにつき合わせるわけには――」

「今のお前に、何ができると言うんだ!」

 厳しい叱責に、カイルワーンは泣き出しそうな顔をした。それを見て、カティスはこの旅で、ずいぶんカイルワーンは素を自分に見せるようになったのだと実感した。

 だがそれは、カティスが想像したものとはあまりにも違っていた。

 自分が望んだのは、こんな痛みを感じることでは――何も判らず、ただ彼が苦しむ様を横で見ていることでは、なかったのに。

「王城に入っちまった人間に会うのは、容易じゃない。侯爵邸でもできなかったのに、王城になんか忍び込めるはずがない。アイラシェールに会う手だては、もっと別の方向から考えろ」

「どうやって」

「どんな方法を取るにしたって、体をまともにしない限り、叶うもんか。お前はレーゲンスベルグに連れて帰る。お前がどんなに抵抗しても、嫌がっても、引きずってでもだ。判ったか?」

 きつい口調で言われ、カイルワーンは渋々であったが頷いた。それを見て取ると、熱のある額を優しく撫でて、カティスは言った。

「もう少し寝て、体を休めてろ。ついててやるから――大丈夫、だ」

 うって変わって優しく告げられた言葉に今度は素直に頷いて、カイルワーンは目を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくるのを確かめて、カティスはため息を一つもらした。

『僕は誰かに、生きていてもいいんだと、そう言ってほしかったんだ』

 あの夜の、カイルワーンの言葉が脳裏に甦る。

 その言葉は、あの夜からずっと、カティスの胸の奥に刺さっていた。

 それは憐れみでも同情でもなく、己を省みて、あまりにも痛い言葉だったのだ。

「エルマラ……お前は一体どこまで判っていたんだ?」

 ぽつり、と呟いた。古馴染の娼婦は、今まで別段何を語ったわけでもないのに、実に自分の胸の奥の色々なことが判っていた女だった。

 カイルワーンだって、彼女に何を話したわけではあるまい。それなのに彼女の言うことは、あまりにも的確だった。

 脳裏に蘇る、彼女の言葉。

 あの子の本質は、本当に誰かの助けを必要としていないの?

 あなたは本当に、あの子に必要ないの?

 その答えの確証を、自分は掴んでいるわけではないけれど。

 数日を待って、二人はレーゲンスベルグに戻った。ほぼ一月ぶりに帰ってきた二人は、初めてカイルワーンが来た時と同じように、多くの人たちに取り囲まれた。

 けれどもその半分以上の人間は、カイルワーンの帰りを待ちわびていた人々だ。

「カイルワーン様、お帰りなさいまし」

「よくぞ無事でお戻りで」

「旦那の加減が思わしくなくて。賢者様に見ていただきたくて、それはもうお帰りが待ち遠しかったです」

 そんな出迎えの人たちに、カイルワーンは笑って答えた。

「申し訳なかったね。明日からまたかりかり働くから、勘弁してよ」

 カイルワーンが笑うのがずいぶん久しぶりであることを、カティスは知っている。

 カイルワーンはアルベルティーヌに行ってから、笑わなかった。苦しみ、倒れ、弱音を吐き、泣きわめいた。

 一度だって笑わなかった彼が今、人々に穏やかな笑顔を見せている。それを見て、カティスはエルマラの言葉を認めた。

 あいつは、嘘つきだ。

 心をよろって、本当の自分を――苦しみ傷ついてる自分の姿を、誰にも見せようとしない。

 だったら、この一月の間の彼は――自分しかそばにいなかったこの一月の間の彼は、一体何だったのだろう。

 どうして自分一人には、そんな姿をさらしたのだろう。

 分かり合う、ということの意味。

 その苦しさと重さと、そして。

「――というわけだったんだ」

 レーゲンスベルグに着いた晩、強く求められてカティスはアンナ・リヴィアにこの一月のことを語った。固く口止めをされた上で聞かされた話に、アンナ・リヴィアは表情を暗くして、こう言った。

「セミプレナ運河でカイルワーンに起こったこと、私、心当たりがあるわ」

「何だって」

「昔、同じような状況に陥った女性を介抱したことがあるの。傍で見ている人には何が起こったのか判らないけれども、突然錯乱して、怯えて、悲鳴を上げて、ひどい時には熱を出したり失神したりしたの」

「同じだ……」

 驚くカティスに、アンナ・リヴィアは厳しく苦しそうな表情を見せた。

「その人に、一体何が起こったのか聞いたら……そういう時は、思い出したくないことを思い出すのだと、そう言ったわ」

 『思い出したくないことを思い出した』――カイルワーンもそう言ったではないか。

「それって」

「その女性ね、昔柄の悪い男たちに襲われて、集団で暴行されたことがあって……。それがひどい心の傷になっていたの。本人は立ち直ったように見えていたのだけれども、でも事件を思い出させるようなひょんなきっかけに出会った瞬間、まるで過去のことが今再び起こっているような錯覚に捕らわれるのだそうよ」

 衝撃的な言葉に、カティスは言葉をなくす。

「目の裏に、まざまざとその時の記憶が甦ってくる――思い出すとかそういう生易しいものではないのだそうよ。錯乱したり恐慌を起こすのも無理ないことだと、その時は思ったのだけれども……」

 アンナ・リヴィアは言葉をにごす。母が何を言いたくて、そして言えなかったのか、カティスには容易に想像がついた。

 輪姦と同じほどの恐怖をもたらすような記憶が、カイルワーンの心の中にはあるのだ。

 あの時、あの場所の何が引金になったのかは判らない。けれどもあの水辺でカイルワーンは、過去にあった陰惨な記憶を甦らせ、それに耐えきれずに崩れ落ちたのだ。

 自分には何も判らない。彼の苦しみも、痛みも、その理由も――それをもたらしてきた全ての過去も、何もかも知らない。

 だけど――だから。

 知りたい。そう初めて、思った。他人の心が知りたいと。

 彼の内に隠された、真実の心を。

 それが自分が負うにはとても重く、痛いものであったとしても、それでも。

 そのために、とても醜い、自分の真実の心を、さらけ出すことになったとしても。

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