4章6節

 料理勝負の夕刻、『粉粧楼』は喧騒に包まれていた。貸切状態になっている店内にはセプタードやカイルワーン、カティスと馴染みの人間が集まり、テーブルの上に広げられた料理に舌鼓を打っている。

「そろそろ俺にはどうやって氷を作ったのか、種明かししてくれないか?」

 厨房に残り、最後の料理――アイスクリームを仕込んでいたカイルワーンに、カティスはそう問いかける。ボウルの中でアイスクリーム種を入れた金属の筒を回していたカイルワーンは、小さく笑ってから答えた。

「カティス、硝石って知っているか?」

 無言で首を横に振るカティスに、カイルワーンは傍らにおいてあった無色透明の結晶を指差す。

「あれだ。あれに硫黄と木炭を混ぜると火薬になる」

「火薬の材料が何で氷と関係するんだ」

「硝石を水に入れると、熱を吸って水の温度を下げるんだ。水が冷えれば当然氷になる。そうしてできた氷にさらに硝石を加えると、氷の温度はさらに下がる。こうなれば、クリームだろうと果汁だろうと凍らせることができる」

「へえ……」

 感心してボウルの中の氷をつまみ、その冷たさに口に運ぼうとしたカティスの手を、カイルワーンがぴしゃりと叩く。

「それは食うな。食うなら、水だけを凍らせたちゃんとした氷を作ってやるから。硝石を直接入れた氷は捨てるんだ」

「……硝石って、体に悪いのか?」

 当然の問いかけに、カイルワーンは沈黙した。自分がどうやって硝石を集めたのか――硝石の正体が何なのか、知ったら絶対口にしようなどと考えはしないだろう。

「世の中、知らない方がいいこともあるぞ」

 できあがったアイスクリームを盛りつけながら、カイルワーンは苦笑いを浮かべた。疑問符を浮かべるばかりのカティスを置いてホールに出ると、一際騒ぎの声が耳に響く。

 中央テーブルにアイスクリームの入った器を置き、隅の椅子に腰を下ろすとカイルワーンはセプタードに肩を叩かれた。

「ご苦労さん」

「セプタードもご苦労さま。苦労かけたね」

「俺も勉強させてもらったよ。面白い食材に沢山出会わせてもらった」

「そこでなんだけど、今日の料理を『粉粧楼』のメニューに加えて見る気はないか」

 そう呟いたカイルワーンの横顔は浮かない。何かを危惧するように不安に揺れ――そのことに、セプタードは今回の一件の核心を見た気がした。

 セプタードは、カイルワーンの今回のメニューにある不思議を抱いていた。カイルワーンは、なぜああも新世界の食材にこだわったのか。

 カイルワーンは『自分が食べたいから』と言った。事実カイルワーンの手にかかったそれらの食材は、本職のセプタードすら驚くほどうまかった。けれども、と思う。多分カイルワーンは、ジャガイモやトマトにこだわらなくても、フロリックを屈伏させられる料理を作れたのではないかと。

 だとしたら、あの献立には、何らかの意図がある。

「フロリックさんに、ジャガイモの作付けを依頼した。来年にはかなりの量のジャガイモが安価で安定して入手できると思う。さっき作ったクリームシチューでも、ローストポテトでも、ジャガイモさえ安価で入手できれば割りのいい料理だと思うんだ」

「カイルワーン、お前、何を企んでいるんだ?」

 セプタードはそう問いかけた。責める風も怒る風もない、ただ淡々とした問いかけに、カイルワーンは料理を頬張る人たちの姿を眺める。

 これらの人たちはジャガイモを食べた。それが微かな自信になる。

「調理前のジャガイモを初めて見た時、カティスは気持ち悪いと言った。あれは、もっともだと思う。一度でも食べてみれば味が判るけれども、偏見が邪魔して機会を得ない。調理法が判らなければなおさらだ」

 カイルワーンはセプタードを真正面に見、声を落として告げた。

「セプタード、この話は君なら判ってくれるだろうから話す。どうか、笑わないで真面目に受け取ってほしい」

「……ああ」

「今年の小麦は全滅する。僕の予想が当たれば、この長雨はおそらく九月すぎてもやまない。この気温が上がらない状態――夏が来ないまま、秋冬がやってくることになるだろう」

「……なん、だって」

 カイルワーンの言葉は、セプタードに衝撃を与えた。だがカイルワーンの話はまだ終わらない。

「それでも、まだ去年の蓄えがあるから今年は何とか凌げるだろう。だが来年もし天候が安定しなかったら? 低温と日照不足は、認めたくないけれども続く傾向がある。そうなれば、来年待っているものは――」

「飢饉、だ……」

 かすれた声で呟くセプタードに、カイルワーンは声を落として続ける。

「杞憂で終わればいい。僕一人でできることはたかが知れているとも思う。でも飢饉の可能性に、手をこまねいていることはない。できることがあるのなら、やっておくべきだ」

「それで、ジャガイモなのか……?」

「ジャガイモなら、小麦が育たないような低温でも育つ。それに収穫率が抜群にいいんだ。ちょっと土地があれば、一家が一年食いつなげるだけの収量が上がる。小麦は面積当たりの収量と、同量の種から得られる生産量の比率が、実は低い作物なんだ。ついでにジャガイモは栄養価も高くて、腹持ちもいい。飢饉を凌ぐには絶好の食べ物なんだが――それでも、作られなければ、食べられなければ、何の意味もない」

 カイルワーンは今回の一件で、ジャガイモがこの時代の人間に受け入れられるか否かを試したのだ。自分が知る限りの調理法で受け入れられるのか、否かを。

「僕は少しでも、飢饉がくる前にみんなから、ジャガイモに対する偏見と抵抗を取り除いておきたかった。僕一人が触れ回っても、この店でどれだけの人間がジャガイモを食べたとしても、それはごく一握りの人間にしかすぎないことは判っている。それでも、たとえ一握りの人間でも、飢えから遠ざけられるのなら、やっておいた方がいい」

「……判った」

 重々しく頷いたセプタードに、カイルワーンは小さな安堵の息を洩らした。

 この件に関する最大の協力者となりうるセプタードに理解してもらえるか。それがカイルワーンにとって、最大の懸念だったのだ。

 飢饉がくる。それは可能性でも杞憂でもなく、動かしようのない現実だ。

 大陸統一暦998年末から1000年にかけて、アルバと近隣諸国は天候不順による麦の作柄不良で、歴史に残る飢饉に見舞われる。餓死者と栄養不良からくる病死者が続出し、それがブロードランズ朝崩壊の遠因の一つとなる。

 その中で、レーゲンスベルグは比較的餓死者が少なかった都市だ。賢者が勧め、様々な調理法を伝えていたジャガイモが大多数の貧民の命を救い、ますます賢者は市民の尊敬を集めることとなる。

 これが賢者が医師や発明家だけでなく、料理家として名を残す所以だ。

「まいったな……」

 独り笑いさざめく人々を眺めながら、壁際でカイルワーンは呟く。

 僕はただ、自分がジャガイモやトマトが食べたかっただけではないのか。コーヒーが、ココアがほしかっただけではないのか。ただそれだけだったと思っていたのに、フロリックを巻き込み、セプタードを巻き込み、そしてそれは『賢者』の名声へとつながっていく。

 余計なことなのだ。判っているのだから、道を外せばいいのだ。それは重々判っている。痛いほど判っているのだ。それなのに、それができない。

 僕は、一体何をやっているんだろう――何度となく呟いた言葉を口の端に乗せると、遠くから声をかけられる。

「カイルワーン、これ、うまいぞ」

 これからやってくる飢饉も、彼の心も知らず、ただ陽気に響いてくる声に手を振ると、その瞬間脳裏に音が弾けた。

 それは聞き覚えがある――忘れたいのに決して彼を捕らえて離さぬ、いつもの声。

『浅ましい』

 声はいつだってカイルワーンの心を掴んで、その隙間を突く。

『アイラシェールがいればそれでいい。アイラシェールのためなら、自分がどうなったっていい。お前はいつもそう言うけれども――嘘だ。いつだってお前は、自分のことしか考えていない。自分のためになら何だってするくせに、それを他人にかこつけて正当化する』

「違う……」

 つと頭の中を汗が伝うのを感じた。下を向き、自分を抱きしめ、カイルワーンは震えてくる体を必死に抑えようとする。

 それは『発作』だ――よくあること。今までだって、何度もあったこと。けれども、その声はレーゲンスベルグにきて以来、より鮮明さを増している。

『お前はアイラシェールじゃなくても別にいいんだ。お前は、自分を褒めて持ち上げてくれる人間だったら、別に誰だっていいんだ。どこの馬の骨でもいい。誰だっていい。その代わり、周りの全ての人間に、褒めて持ち上げられておだてられたい。お前のやっていることは善意じゃない。ただの勝手な自己顕示だ。なんて浅ましいんだろう』

「違う、そうじゃない……」

 かすれた消え入りそうな声が、微かに反論を企てるが、頭の中に響く声は圧倒的な強さをもって脳裏をかき回す。

『誰もお前なんか見ちゃいない。必要となんかしていない。お節介を繰り返す、ただのはた迷惑な道化だ。鼻摘み者になる前に、とっとと消えな。それがお前にできる、ただ唯一最善のことだろう? 違うのか?』

 カイルワーンは目を閉じ、必死に自らの中で嵐が過ぎ去るのを請い願うしかない。どれくらいたったか――不意に、暗闇の中に別の声が聞こえた。

「カイルワーン?」

 目を開けると、目の前に気づかわしげなカティスの顔が見えた。

 他には誰も、自分のことに気づいていない。

「気分でも悪いのか?」

 その言葉に、ふっと脳裏の責め句がやんだ。脂汗がにじむ顔に何とか笑みを浮かべ、カイルワーンは答える。

 安堵に、微かに声が震えた。

「緊張して、疲れただけ……心配いらない」

「そうか? 大丈夫か?」

「ありがとう、心配してくれて」

 カイルワーンの弱々しい笑みと言葉に、カティスは憮然として軽くその頭を叩く。

「何殊勝なことを言ってるんだ、お前が」

 カティスの言葉に、カイルワーンは己を――己が他人の目にどう映っているのかを、省みざるを得なかった。

 僕は、そんなにも、偉そうなんだろうな。

 その己の姿が虚勢であることを、自身が一番よく知っている。それがどうしてなのか、心のどこから出てきているものなのかも。

 心の箍が緩んできている。そのことをカイルワーンは感じていた。心の奥底に押し込んで、忘れようとしているものが表層まで浮かんできて、自分を呑もうと声を発している。

 箍が弾け飛んで、ばらばらと崩れた時、果たして自分はどんな姿をさらすことになるだろう。そのことを、正直カイルワーンは考えたくなかった。

 失ってしまった、心をつないでいた楔が、何であったのかも。

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