4章3節

 七月。レーゲンスベルグは暦の上では夏を迎えていた。

 この夏はひどく雨が多く、憂鬱な空模様が続き、人々の苛々は相当にたまっていた。到るところで騒動が頻発し、その一件もその中の一つに数え上げられる。

 だがその事件は、歴史においてあまりに大きな意味を持っていた。関係した者たちでさえ、その瞬間は気づくことはなかったが――そう、歴史を知るカイルワーン以外には。

 事件の舞台は『粉粧楼』。事件の当事者は、カティスの友人たちである。

「こんなものを客に出す気か!」

「料理した奴、出てこんかい!」

 一角のテーブルで騒ぎ立てる一団に、店内の視線が集まる。厨房からセプタードが出てくるより、ブレイリーの口の方が早かった。

「文句があるのなら、もっと静かに言え。他の客に迷惑だろう」

 口調は静かだったが、声音には紛れもなく怒気が含まれていた。それを感じ取って、男たちは怒りの矛先をブレイリーに向ける。

「なんだ、てめえは?」

「何か文句があるのか? あ?」

 男が隠しからナイフを取り出すと、店内がざわめいた。だが切っ先を向けられたブレイリーは怖じ気づくよりも、むしろひどく不快そうに顔をしかめた。

「黙っていりゃ、痛い思いをしなくてすんだのによう」

 馬鹿にしたような、粗野な笑いを浮かべる男に、ブレイリーも一瞬笑い――次の瞬間、鮮やかな蹴りが飛んだ。

 入口まで吹っ飛ばされた男に、ブレイリーは苛立ちもあらわに叫ぶ。

「どこのどいつか知らんが、くだらん言いがかりをつけんじゃねえ!」

 この後は、お定まりの大乱闘と相成る。その結果が、ブレイリーたちの圧勝となったことは言うまでもない。所詮街のごろつきと、死線をくぐり抜けてきた傭兵たちでは実力が違う。

「覚えてろよ! 必ず仕返ししてやる!」

「お前らなんか、フロリックの親分の足元にも及ばないんだからな! その時吠え面をかくなよ!」

 これまたお定まりの捨て台詞を残して去っていく男たちを見送り、ブレイリーが振り向くと、そこには渋面のセプタードが立っていた。

「……やってくれたな、お前たち」

「すまない。つい頭に血が上った」

「お前らの縄張り争いに、俺を巻き込むなよ」

 カティスの傭兵仲間たちは、街にいる時は働いてもいないのだから、ある意味では地回りとも無頼とも言える。そういう点で、彼らと因縁をつけてきたごろつきたちと同じで、同じだからこそ縄張りが存在した。

「それにしても、フロリックの手下となると、ちと事が面倒になるな……」

 フロリックはこのレーゲンスベルグ一の交易商で、富豪である。街の南に豪奢な邸宅を構え、何十艘もの船と独自の交易ルートを持っている。一方、密輸にも手を出しているといわれ、レーゲンスベルグの表裏双方の権力者といってよかった。

 件のごろつきも、彼の権威をかさにきての行動だったのだろう。だがそれをああもこてんぱんにのしたとなると、この後に起こる事態は想像に難くない。

 そしてその予感は、見事に的中する。

 翌日昼過ぎ、再び現れた件のごろつきたちは恰幅のよい中年男性を伴っていた。その姿に、表の掃除をしていたセプタードは深いため息をつくことになる。

 いきなり御大登場とは。

「こんな下町にわざわざお越しとは、珍しいことで。フロリックさん」

「儂の家の者が、いわれのない因縁をつけられて怪我をさせられたとあっては、黙っているわけにはいかないからな」

 そう言うフロリックの背後で、昨日の男たちがにやにや笑いを浮かべながら立っていた。彼らが今何を考えているのか、セプタードには手に取るように判る。

「立ち話も何だから、上がりますか? 狭くて汚いところですが」

 不快な思いをぐっと堪えて、セプタードはそう提案する。店内に入ると、一番奥のテーブルに客が二人だけ。彼らはそしらぬふりで、何やら飲み物を口に運んでいる。

 カティスとカイルワーンだった。

 二人がこの時間ここにいるのは、偶然ではない。昨日の顛末を聞いて、詰めていたのだ。昨日の関係者であるブレイリーたちは、事態をこんがらがらせる恐れがあったため、頑強な抵抗があったが追い出したのだ。

「単刀直入に聞きますが、あなたたちは昨日のツケに、何を要求しに来たんです?」

「拙速な男だな」

「無用な腹の探り合いをしたって、あなたたちの要求が変わるとは思えませんから」

 セプタードの言葉に、フロリックは薄ら笑いを浮かべると切り出した。

「家人を怪我させられたのだから、当然治療費と、使い物にならない間の賠償くらいは払ってもらわないと」

 そうして差し出された紙片に目を走らせ、セプタードは半ば呆れたような小さなため息をついた。そこには治療費としては、途方もない金額が記されている。

「こんな粗末な酒場から金をむしり取らないといけないほど、あなたが金に困っているようには見受けられないんですがね」

「これは金の問題ではない。面子の問題なのだよ」

 にやり、と笑ってフロリックは言う。セプタードはなるほど、と心のどこかで納得した。

 向こうとしてみれば、自分の手の者がこてんぱんのされたとあっては体面に傷がつく。何としてもこっちを屈伏させ、体面に泥を塗っておかなければ示しがつかない。

 さて、どうする? セプタードは自らに問いかける。

 この金額を調達するとなれば、店を手放さなければならないだろう。だが断れば、向こうはおそらく執拗な営業妨害に出てくるだろう。

 確かに今回の問題を起こした友人たちは強い。だが向こうはこちらより遥かに大人数の手下がいる。質的にはこちらが上だが、量的には歯向かえる相手ではない。

 つまりこれは、店を潰そうということか――。

「さあ、どうする? 別に断ってくれてもいいぞ。だが、その時、どうなるか……」

 この時店の片隅でこのやり取りを聞いていたカティスが、堪えきれずに立ち上がった。手が腰の剣の柄に触れる。

「あの野郎、調子に乗りやがって」

「待て、カティス」

 だがその腕を、カイルワーンが掴んで止める。

「僕に任せろ」

 何か言いたそうなカティスを制して、カイルワーンは手前の一団に向いた。

「ちょっと待て。いわれのない因縁だというが、そちらに非はないのか」

 厳しい口調で言い放ったカイルワーンに、一同の視線が集まる。カイルワーンはセプタードたちのテーブルに歩み寄ると、真っ直ぐフロリックを見据えて言う。

「元々の事の起こりは、ここの料理に彼らが因縁をつけたことだったんだろう? それが正当な評価ならば賠償もやぶさかじゃないが、不当な評価ならばフロリック家は家人に何を食べさせているんだと笑い物になることになるな」

「何だと?」

「大富豪だ、食通だと豪語しているようだが、本当はまともな料理も食べたこともない田舎者なんじゃないのか?」

 カイルワーンの挑発は、巧みに矛先をすり替えようとしているものだとセプタードは気づいた。怒りの矛先を己に向けさせることで、攻撃対象を自分へと誘導しようとしているのだと。

「カイルワーン……」

 だからこそ洩れるセプタードの苦渋の呟きを、フロリックは聞き逃さない。カイルワーンの意図は、フロリックにもたやすく読み取れるところで、だからこそ興味をそそられた。

「そうか、お前が例の噂の医者か。年若く、まだ少年のような容姿だが、腕がすこぶるよく誰も治せなかった病や怪我すらやすやすと癒してみせると」

「買いかぶりだね、それは」

「医術だけでなく、様々な学問に造詣があり、レーゲンスベルグじゅうの学者が教えを乞い、叶えられずにいるとか――一部の人間は『賢者』とすら呼んで崇めると……そうか、お前か」

 くつくつと喉の奥で笑い、フロリックは不躾な視線をカイルワーンに送る。髪の先から爪先まで舐めるようなその視線はすこぶる不快で、カイルワーンは表情を歪ませた。

「何が言いたい?」

「面白い。気が変わった。この店への賠償要求を、なしにしてやってもいい。その代わり」

「その代わり?」

「お前をもらおう。我が家の家令として、儂に仕えろ」

 その言葉は、セプタードとカティスに衝撃を与えた。

「そんな馬鹿な要求あるものか!」

「冗談じゃない!」

 驚いて叫ぶ二人に、次のカイルワーンの言葉はさらなる衝撃を与えた。

「いいだろう」

「カイルワーン!」

「ただし、条件がある」

 そう言ったカイルワーンの浮かべた微笑はひどく蠱惑的で、カティスは一瞬身震いを感じた。それは人のものではなく、人を堕落の道に誘い込む悪魔の笑みだ――そうとさえ、感じさせるほどの。

「さっきの話だ。彼らの主張の正当性を試そうじゃないか。もし食通といわれたあなたの舌さえも唸らせるものをこちらが作れれば、彼らの要求は因縁にほかならず、あなたは家人にまともな評価もできないほどまずいものを食わせていると馬鹿にされることになるだろう。そんな風評を流されたくなければ、僕の要求を呑んでもらおう。もし僕があなたの満足のいくものを作れなかったら、その時はあなたの要求を呑む」

「面白い。実に面白い」

 カイルワーンの提案に、実に愉快だとばかりに笑うと、フロリックは告げる。

「いいだろう。その条件を呑んだ。一週間後、儂の館で勝負は行うことにしよう。それで構わないか?」

「ああ」

「では一週間後。楽しみにしているぞ」

 かくして一団は去り、『粉粧楼』のホールには唖然としたカティスとセプタード、そして飄々としたカイルワーンが残される。

「…………カイルワーン…………」

 地の底から響くような声に、カイルワーンは表情も変えずに応える。

「何だ、カティス。おっかない顔して」

「お前、なんてことを言い出すんだ!」

「自分を賭の対象にするなんて、馬鹿にも程がある!」

 カティスとセプタードに同時に怒鳴り責められ、カイルワーンは目を回す。

「もし負けたらどうする! 家令だなんて、言葉の上だけのことだ。寝台の中まで引きずり込まれるのがオチだ!」

 カティスの言葉に、カイルワーンは初めて表情を曇らせる。

「…………男色なのか?」

 恐る恐る聞いたカイルワーンに、セプタードとカティスは深々とため息をついた。

「お前もう少し、自分が他人の目にどう映っているのか、自覚した方がいいぞ」

 その言葉の意味が掴めず、きょとんとするカイルワーンを見て、カティスは痛む頭を押さえた。

 この四ヶ月――特にこの街に着いてすぐの頃、どうしてあんなにも自分がくっついて歩いていたのか、カイルワーンはまったく理解していなかったらしい。いつ暗がりに引きずり込まれても不思議ではなかったというのに。

 カイルワーンに少しは自覚してほしいものだ、とカティスは思う。己がどれほど、他人に羨望を抱かせる存在なのかを。その羨望が、嫉妬が、彼を貶めたい、辱めたいと願う暗い欲望へとどれほど簡単に化けるのかを――。

「……まあ、どうでもいいよ。別に、負けないから」

 カティスの心を知らず、カイルワーンは気楽に言ってのける。そんな彼に、セプタードは苦い顔をした。

「でも、カイルワーン。判っているだろう? これはあまりにも分が悪い賭だ」

「そうだ。この形式では、お前に勝ちはないぞ。勝ち負けの判断基準が奴に握られている以上、奴は負けだと思ってもそれを認めなければいいんだから」

 二人の意見は当然だった。フロリックが内心でどんな評価を下しても、口で『まずい』と繰り返しさえすれば、それでカイルワーンの負けになる。それは勝負というには、あまりにも公平ではない戦いで。

 だがカイルワーンは二人の言葉にも、一切動じなかった。

「まあ見てなって。人間の食い意地がどれほどのものか――それにどこまで逆らえるのか、僕なんかは楽しみに思うけれどもね」

 心配する二人をよそに、カイルワーンは内心の企みに思いを馳せる。

 まさか彼と僕とのつながりのきっかけがこんなことだったとは、と思いながら。

 レーゲンスベルグの豪商フロリック。彼もまた革命史に名を残すことになる人物なのだ。

 賢者カイルワーンを通じて、革命軍に武器や糧食を手配し、物質面で革命を支えた人物の一人。その功績を認められ王室御用達の商人となり、今とは比べものにならないほどの事業を展開する一大財閥の基礎を築くことになる。

 革命において彼が果たした役割は確かに大きい。だがそれ以上にカイルワーンは、彼の持つ人脈が、財力が、交易ルートが、影響力が、今ほしかった。

 難航しているアイラシェール探しもそうだが、カイルワーンがもう一つ進めたいと思っているある事柄には、彼のような人材がどうしても必要なのだ。

「これで……これでやっと」

 思わず呟いてしまう。

「ジャガイモが……手に入る……」

 それは実はカイルワーンにとって、切実な問題だった。

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