第4章 予感と衝動―大陸統一暦998年

4章1節

 大陸統一暦998年6月。アイラシェールがモリノーの夏至祭に向けて準備を進めていた頃、カイルワーンもまたレーゲンスベルグで忙しい毎日を送っていた。

 カティスに連れられ、レーゲンスベルグに来て三ヶ月。もはや彼のことを知らぬ者は、レーゲンスベルグ市民として『もぐり』と呼ばれてしまうほどの有名人になっていた。

 こつこつ、と扉をノックする音に、カイルワーンは自分の寝台から起き上がった。枕元の懐中時計――これも未来から持って来たもので、この時代においてはとてつもなく高価な品だ――を取り上げると、時刻を確かめる。

 今朝もかっきり七時。奴の腹時計は、機械時計よりも正確なのか、とカイルワーンは日々呆れる。

「……おはよう」

 閂を外して戸を開けると、目の前には見慣れた長身が立っている。

 にこにこの笑顔で、カティスは寝ぼけ眼のカイルワーンを毎朝見下ろす。

「おはよう」

 勝手知ったるなんとやらで、カティスは食堂の椅子――もはや彼専用になりつつある――に腰を下ろす。そんな彼に、カイルワーンは釈然としない表情を向けた。

「……いい加減、うちに朝飯たかりに来るの、やめないか?」

「やだ」

「……大の男が『やだ』はないだろう、『やだ』は」

「おふくろの作る飯がいかにまずいか、お前だってよく知ってるだろう」

 カティスの言葉に、カイルワーンは反射的に頷いてしまった。ロクサーヌ家で暮らした数日で、カイルワーンはアンナ・リヴィアの料理の腕前のほどを、嫌というほど思い知らされたのである。

「さんざうまいもの食わせといて、今さら放り出すのか。まったくなんて冷たい奴なんだ」

「……まったく、贅沢させるんじゃなかった」

 このまま口論を続けていたら、いつになったら終わるか判らない。観念してカイルワーンが厨房で寝かせてあったパン生地を取りだすと、カティスは実に嬉しそうな顔をする。

「カイルワーンの焼く白パンは、レーゲンスベルグのどのパン売りのよりうまい」

 ……かなわないな。どうしてこういうことを、しれっと言えるんだ。内心で呟くと、カイルワーンは服の隠しから白銅貨を取り出し、カティスに放る。

「牛乳と卵」

「了解」

 飛んできた硬貨を受け止めると、カティスは表通りに出ていく。手を変え品を変え繰り広げられる口論も、カイルワーンが折れるのも、カティスが食糧の買い出しに行くのも、それはここ三ヶ月間、カティスがレーゲンスベルグにいる限りほぼ毎日続いている、いつもの朝の光景だった。

 カイルワーンがこの家を借りたのは、レーゲンスベルグに着いてから、たった三日後。シーガルの野菜屋事件の二日後のことだ。

 ただの二日で医師としてのカイルワーンの噂は広まり、診察を希望する者が現れ出した。それを前に、カイルワーンは真剣に己の身を振り方を考えることになる。

 アイラシェールを探すこと――それはカイルワーンの第一義。けれども、生活していくには金がいる。クレメンタイン王に大金をもらってはいるが、アイラシェールを探す過程で、これからどれほどの金銭が必要になってくるか判らない。旅に出るなら路銀もいるし、ことによったら賄賂だって必要になってくるのかもしれない。金は稼げるに越したことはなかった。

 また、助けてくれとすがりついてくる人々を無下に振り払うこともまた、彼にはできなかった。

 こうして医師として働くことを決めたカイルワーンだったが、そうなれば真っ先に出てくる問題が『家』だった。

「これから僕は、薬だ道具だと膨大に物が増えていくだろうと思う。その状況で、この家に厄介になることはできない」

「もっともな意見よねえ」

 息子の意見はさておき、のほほん、とアンナ・リヴィアは同意した。

「というわけで、家を借りようかと思うんだけれども、どこか心当たりあるかな?」

「隣」

「……はい?」

 いきなりのアンナ・リヴィアの返答に、面食らってカイルワーンは聞き返す。

「隣の家、空き家よ。この家よりも広くて、家賃もかかるだろうけど、あなたの稼ぎなら大丈夫でしょう」

 これは――どうしよう。切実にカイルワーンは思った。これを機に、ロクサーヌ親子との依存関係をすっぱり断ち切ろうと思っていたというのに。

 だが雰囲気的にも成り行き的にも、カイルワーンは否と言うことができなかった。

 そうして、現在に至っている。

 アンナ・リヴィアとカティス、この親子が嫌いなわけではない。けれどもカイルワーンはカティスを見るたび、心の中の湖がさざめくような不安を覚えるのだ。

 英雄王と賢者。この二人の関係がどんなものであったのか、この二人の結びつきが一体何であったのか。どんな歴史書も伝記も、詳細には語りはしない。だが中途半端に未来を知るだけに、カイルワーンは心中穏やかではいられないのだ。

「ごはんー、ごはんー」

 とその時、焼き上がってきたパンの匂いを嗅ぎつけて、アンナ・リヴィアが姿を現した。カティスほど頻繁ではないが、この母も実によくカイルワーンのところに食事をたかりに来る。似た者親子と言えた。

「いい匂い」

「アンナ・リヴィア、一緒します? 今カティスが牛乳と卵を調達してくるんで」

「オムレツ、オムレツがいい」

「……はい」

 幸せそうに要望するアンナ・リヴィアに、カイルワーンは苦笑してそれを聞き入れた。

 カティスとアンナ・リヴィアがなぜかくもカイルワーンのところに食事をたかりに来るのか、実はその理由はいたって簡単。

 カイルワーンの食生活は、凄まじく贅沢なのだ。

 大陸暦1200年代育ちのカイルワーンにとっての『普通の食事』は、大陸暦1000年代にはとんでもない贅沢だ。それは今現在彼が暮らす貧民街に暮らす人たちが貧しいからだけではなく、このアルバが総じて貧しいためだった。

 『南方の華』と讃えられるほど、アルバが華やかで、裕福な強国になるのはまだまだ先のことだ。庶民の食卓はつましく、食うに事欠く者とて決して珍しくない。

 最初、カイルワーンはそんな社会情勢に合わせようとした。だが、殊勝な心がけは数日で崩壊した。これで彼が貧しかったら、そうせざるを得なかっただろうし、アイラシェールのように出されたものを食べるしかない環境なら、我慢もしただろう。だがカイルワーンは金があり、金を稼げて、なおかつ料理人だった。自分の口に入るものを自分で作る以上、我慢のしようがなかった。

 かくして彼はまさに『食べる』ために働くような毎日を送っている。

 やがて戻ってきたカティスから牛乳と卵を受け取ると、カイルワーンはオムレツの製作にかかる。コーネリア仕込みの料理の腕は玄人はだし。フライパンの柄を軽く叩くと黄色い半月が宙に舞った。

「凄い凄い」

 背後から上がった歓声に、しみじみとカイルワーンは己が身を振り返る。

 ……僕は一体、ここで何をやっているんだろう。

 こんなことをしている場合じゃないのに、という思いは脳裏をかすめるも、生活は生活、ある一定の枷として存在する。

 そんな焦燥を感じつつも、カイルワーンの日々はなかなか前に進まなかった。

「ところで、例の首尾はどうだ?」

 焼きたてのパンを頬張りながら、カティスがカイルワーンに聞く。温めた牛乳をすすっていたカイルワーンは、カティスの顔を見て首を振った。

「今のところ、一向に手がかりなし」

 日常に追われるように暮らしていても、カイルワーンは自らの第一義を忘れることはない。仕事で、またはまとめて休みを取っては方々に出かけていき、『白い髪と赤い目の娘』の情報を尋ね歩いている。レーゲンスベルグで知り合った多くの人たちも協力してくれているのだが、成果はいまだ上がっていない。

 この時のカイルワーンは知る由もないのだが、アイラシェールの飛ばされたモリノーとレーゲンスベルグでは、噂が伝わってくるにはあまりにも距離がありすぎたのだ。

「明日から俺、プスタに行ってくるから、暇を見て街の人間に聞いてみるな」

「今度の仕事は何だ?」

「橋かけてくる」

「…………」

 カイルワーンはカティスの返答に、何も答えられなかった。パンの一切れを呑み込みながら、内心でいつもの『崩れゆく英雄王像』と懸命に戦い、そして小さくため息をつく。

 カティスの毎日は、カイルワーンの想像していたものとはかなりかけ離れていた。

 彼はこの段階で、名の知れた傭兵であった。各地の紛争で傭兵を募れば、出かけていってその戦役に参加する。だが、彼は決して仕官しようとはせず、その場限りの契約を果たしてレーゲンスベルグに戻ってくる。その理由を、カイルワーンはいまだ知らない。

 カティスとアンナ・リヴィアの親子は、そうしたカティスの稼ぎと、アンナ・リヴィアの洋裁で――アンナ・リヴィアは料理はまるで駄目だったが、裁縫の腕前は素晴らしかった――生計を立てていたが、カティスの金遣いはかなり荒く、まま生活に窮する。そんな時カティスは普請の仕事を見つけてきては出かけていき、日銭を稼いでくるのだ。

 そのことを初めて知った時のカイルワーンの衝撃は、相当のものだった。英雄王が苦労人であることは、繰り返し史書に記されるところであったが、まさか人足までしているとは思ってもみなかった。

「ごちそうさん。うまかった」

「カイルワーン、ごちそうさまでした」

 親子は連れ立って出ていき、後片付けをすませるとカイルワーンは身支度を整えて街に出かけた。カイルワーンの診療は、基本的に往診中心である。自宅の書斎で急患を見ないこともないが、逆に病人が歩いてカイルワーンのところまで来れるようであれば、そんなに心配はいらなかったりするのだ。

 港町の市場は、今日も人であふれかえっている。

「おはよう、カイルワーン」

「おはようございます、カイルワーン様」

「今日はカティスは一緒じゃないのかい?」

 様々な声がかけられ、それにカイルワーンは返事をしながら街路を進む。

 三ヶ月がすぎ、街の人々に顔を覚えられるようになると、その態度は好意的なものではおおよそ三つに分類されるようになった。一つが、気さくに呼びかけてくれ、親しくしてくれる人。一つが様付で呼び、敬ったり恭しい態度をとる人。後者は彼に命を救ってもらった患者とその家族であることが多い。

 そしていま一つが。

「カイルワーンさまぁっ!」

 ……この黄色い歓声には、いまだに慣れない。

 街の女性――特に十代の女の子に多い反応である。

 カイルワーンが頭痛のする頭を押さえ、歓声を上げる女の子を無視して通りすぎると、道端の店から声がかけられた。

「相変わらず大もてですね、カイルワーン様」

 そこは件のシーガル家の野菜屋である。さもおかしそうに言うおかみに、カイルワーンはため息まじりに答える。

「僕のどこがいいっていうんだろうね」

「……カイルワーン様は大層学問を積んでおられるけれども、女心の勉強はちっともですね。もう少し、ご自分が他人の目にどう映るかを自覚されたらどうですか?」

「…………」

 沈黙したカイルワーンに、思い出したようにおかみは奥から何やら小さな麻袋を持ち出してくる。

「そうそう、これ。この間から頼まれていた奴。ようやく手に入ったんですが、これでようございます?」

 渡された袋の中をのぞいたカイルワーンの顔が、ぱっと輝いた。満面に喜色を浮かべ、答える。

「そう、これ! これでいいんだ。よく見つけてくれたね。高かったろう?」

「ええ、レーゲンスベルグに寄港する船という船、交易商という交易商を当たりましたからね。ところでそれは一体何に使うものなんです? 薬なんですか?」

 不思議そうな顔をして聞くおかみに、カイルワーンは苦笑いをして答えた。

「薬というよりは、どっちかというと毒だね。僕みたいなのになるとさ」

「……え?」

「別に体に害のあるものじゃないし、食品の一種ではあるよ。おそらくこれから、広く世間に広まっていくことになるだろう。だからもし入手経路を確立できたんなら、僕が幾らでも買うから入荷してほしい」

 カイルワーンは麻袋をしまうと代金を払い、ふと表情を落として問いかける。

「ところで、例の件、何か噂でも聞くことはないかい?」

 カイルワーンと馴染みの人間には、もはや『例の件』で通じてしまうアイラシェールの捜索。シーガル家のおかみは、その問いかけに難しい顔をした。

「外国船の船乗りとか、色々な人に聞いて歩いているんですけどねえ」

 申し訳なさそうなおかみに「気にするな」とばかりに首を振ると、カイルワーンは野菜屋を辞する。街路を辿りながら、一向に埒の明かない日々を思った。

 アイラは、今頃どうしているんだろう――心の中をかすめる思いは、胸を針で刺すような痛みを伴って通りすぎていく。

 あの一瞬――アイラシェールと離ればなれになったあの一瞬のことを、悔やめば幾らでも悔やむことがあるが、今の現実で何より気にかかることは、彼女に金目の物を何も持たせていなかったことだ。

 金貨を半分渡しておけば。せめて腕輪の一つ、指輪の一つでも身につけさせておけば。金に換えられる物を何も持っていなかったアイラシェールは、果たしてどうやって日々の糧を得ているのだろう?

 僕がレーゲンスベルグ街道の山中で意識を失って倒れていたように、君もまたどこかの野辺に倒れたんだろうか? その君を見つけたのはどんな人物だったのだろうか? 君を見て、その人物はどんな反応をしたのだろうか?

 金もなく、当てもなく、頼る者もない彼女を、その人物はどんな風に扱ったのだろう。

 きり、と手のひらに爪を立て、カイルワーンは薄曇りの空を見上げる。

 急がなければならない。こんなところでぐずぐすしている余裕はない。そう心は急くけれども、現実は現実として目の前に立ちはだかる。

 自分一人の手だけで、何ができる?

 手が足りない。力が足りない。もし自分が王侯貴族であったのならば――何らかの権力を持っていたのならば、人海戦術でアイラシェールを探せただろう。情報だって、もっと効率よく集められたはずだ。だが、自分は今のところ平民の身分であり、その自分一人の手でできることはあまりにも少ない。

 権力がほしい。力がほしい。味方がほしい。レーゲンスベルグで暮らす三ヶ月で、カイルワーンはそのことを切実に感じていた。

 それがいずれ手に入ると判っていても――自らが賢者であるのならば、自分が最後に得るものは宰相の役職と大公位である。位は人臣を極め、全ての民の羨望と尊敬を集めることになろう。けれども、今から大陸暦1000年のことを語って、それで何になる。

 今ほしい。今力がほしい。1000年では間に合わないのだ。なぜなら、それは――。

 どんなに認めたくなくても。どんなに信じたくなくても。カイルワーンはもう、そのことを疑わずにはいられない。

 もし僕が賢者であるというのならば。それならばアイラシェールは。

 アイラシェールの、運命は――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る