2章9節

 その瞬間、おそらく誰もが極限状態であったのだろう。詰めかけた貴族たちも、王も、オフェリアも、カイルワーンも。

 動機、理由、意図――後に問題とされるであろうそれらのことを、その場で理解できた者は誰一人としていない。おそらく、当の本人ですらも。

 だが現実として、貴族の一人がいきなり剣を抜き、王は刺された。一瞬のことに、王が避けることも、誰かが制止することもできなかった。

 オフェリアも、カイルワーンも、他の貴族たちも一歩たりとも動けなかった。悲鳴を上げることさえ、できなかった。だが、時が止まったかのような静寂の中、口から血を吐き、やがて王は言った。

 真っ直ぐに、カイルワーンを見て。

「カイル……い、け……」

 それが最期の言葉だった。

 その言葉に、はっとカイルワーンは我に返る。

 脳裏をよぎるのは、あのアイラシェールの誕生日の、あの言葉。

 娘を頼む。王はそう言ったのだ。それなのに。

 弾かれたようにカイルワーンは走り出す。今自分がすべきことは、ただ一つしかなかった。ただ一つしか、ないだろう!

 誰にも追われていないことを――王の言葉の意味を誰も判らなかったことを、後ろを振り返りつつ確かめながら、カイルワーンは走る。混乱を極める王宮を抜け、薔薇園を横目に、一直線に向かうのは無論『赤の塔』

 入口でコーネリアが待ち構えていた。そのただならぬ様子から、おおよその状況を把握しているのだとカイルワーンは悟った。

 ならば、話は早い。

「カイル!」

「もう王宮は駄目だ。脱出する!」

 その言葉だけを残し、カイルワーンは自室から用意してあった肩掛け鞄を取ってくる。それにはもう必要なものが詰め込まれていた。

 生活に役立つ雑多なもの、薬、乾燥食糧。そして王から貰った三つの袋。

 灰色のそれから中身を取り出すと、コーネリアが目を見張った。

「そんなもの、一体どうしたの」

「王から拝領した。アイラを守るために使えと」

 上着の内ポケットに灰色の袋の中身を突っ込むと、カイルワーンはコーネリアを見た。

「アイラを連れてきてくれ」

 カイルワーンの切迫した眼差しに、コーネリアは黙って頷いた。

 やがて階上から、アイラシェールが降りてきた。その顔には、不安と惑いがいっぱいに浮かんでいた。

「脱出する。アイラ、行こう!」

「行こう……って、どうやって!」

 アイラシェールは苛立たしい面持ちで、カイルワーンに聞き返す。

「王城は完全に包囲されているわ。ここからどうやって抜け出すというの!」

「『赤の塔』には抜け道がある。有事の時、王族が脱出するために作られたものだ。そのために、この塔は壊されず残され、この日のために君の住まいはここに定められた」

「カイル……」

 驚いて聞き返すアイラシェールに、カイルワーンは続けた。

「もう何度か僕が通って、どこに通じるのかも安全も確かめた。行った先の手入れも、完璧じゃないがしてある。心配はいらない」

「……ここのところ出かけてたのは、そのためだったのね」

 コーネリアの納得したような言葉に、アイラシェールの動揺はさらに広がる。

「時間がない。急ごう」

「………………いや」

 ぽつり、と呟かれたその言葉を、最初カイルワーンは聞き違いだと思った。

「え?」

「逃げて……逃げてどうなるというの?」

 震える声は、やがて激情を連れてきた。

「目的は私なんでしょう? 私がいるから、市民が立ったんでしょう? 違うの、カイルワーン!」

「それは……」

 図星を突かれて、カイルワーンは答えに窮した。

「だったら私が行けばすむことでしょう! 私を殺せば、それで市民の気はすむのでしょう! 誰も傷つくことない、誰も犠牲にならない。あるべきところに、収まるだけのことでしょう!」

「アイラ!」

「これ以上、父上や姉様に迷惑はかけられない!」

「陛下が――君の父上が、命を捨ててまで君を逃がそうとしたんだ! その気持ちを無駄にするのか!」

 失言だったかもしれない。言ってしまった後で、カイルワーンはそう思った。けれども口から出てしまった言葉は、もう戻せない。

 案の定その言葉は、衝撃と沈黙を場に与えた。コーネリアもアイラシェールも表情をなくし、やがておずおずと聞く。

「父上、が……?」

「……亡くなられた。最期まで僕に、君を守れと言っていた」

 カイルワーンが苦渋とともに吐き出した言葉にアイラシェールが反応するのには、ずいぶんな時間がかかった。何か言葉を紡ごうとして唇は動き、息は震え……けれども。

 その前に、理性が壊れた。

「いや……い……いやああああああああああああっっ!」

 糸が切れたように叫び、アイラシェールは外に駆け出そうとする。

「父上、ちちうえっ!」

「アイラ!」

 時間がない。もはやカイルワーンは実力行使に出るよりなかった。

 後ろから手を回し、抱き押さえた。強引に手を口許に回し――。

 瞬時、酩酊がアイラシェールを襲った。

「カイ……ル……」

 ことんと落ちる。崩れ落ちたアイラシェールを支えながら、カイルワーンは口許を押さえた布を外した。

 その布には、揮発性の麻酔薬がしみこませてあった。

「用意のいいこと」

「何となくこうなりそうな気がしてた。アイラは多分脱出に同意してくれないだろうと」

 言葉もなくコーネリアが頷いた時、そこにリメンブランス博士が駆け込んできた。

「親父」

「……もう間もなく市民が王城になだれ込むだろう。それよりも、王宮内の混乱の方が問題だ。間もなくここも見つけられるだろう。時間がない」

 言葉なく頷く息子に、父親は静かな声で問うた。彼の選択を。

「どうするつもりだ?」

「僕はアイラを背負って脱出する。コーネリア、何かくくりつけるものを用意して」

 そう言ってアイラシェールを博士に託すと、カイルワーンは食糧貯蔵庫に向かう。壁に飾られた女神像を動かすと、隠されていた鍵穴に、あの日王から拝領した鍵を差し込んだ。

 からくりが動く音がして、石造りの床に穴が空いた。

「トンネルね。中は丈夫そう? この床、崩れて抜けたりしない?」

 紐を手にやってきたコーネリアが、穴を覗き込んで問いかける。真意が判らないカイルワーンに、コーネリアは言った。

「この抜け道の存在は知られては駄目。知られたら、アイラが逃げたことが知れてしまう」

「それはそうだけど」

「十分待つわ。その間に、できうる限り遠ざかりなさい。十分後に、私が火をかけるから。焼けて建物が崩れれば、抜け道を見つけるのは困難になる」

「コーネリア……」

 それは彼女が「逃げない」ことを意味していた。そしてここで別れれば、おそらく二度と会えなくなるであろうことも、カイルワーンには判っていた。

 それでも嫌だ、一緒に行こうとは言えない。

 カイルワーンとコーネリアの間には「アイラシェールを守らなければならない」という絶対不文律が存在するために。

「私も別行動を取ろう。おそらくは私も追われているだろうから、お前に余計な負担を増やさせるわけにはいかない」

「親父……?」

「判っているだろう? 私の研究は、そういうものだ。『魔女』の存在が明るみに出なければ酔狂ですむが、当の魔女が現実に存在するとあっては、私が無関係だとは誰も思うまい。――実際無関係ではないから、弁解の余地はないのだがな」

 苦笑だけで――悩むことも、絶望することもなく淡々と言ってのける父親に、カイルワーンは返す言葉がない。

「私はこの国を、魔女の呪いから解き放ちたかった。恐れを胸に抱え続ける人間は、弱い。そのことを医学を修めて実感した。化学や数学では人の心を救えないことも実感した。最後に残ったのは、真実を探ることだけだった。真実を明らかにして、魔女の呪いなど恐れるに足らないと、笑い飛ばしたかった」

 父親の顔に浮かんだ諦めに、カイルワーンは胸が詰まった。

 父のその願いは、叶わなかった。人々は恐れに駆られ、凶行に走り――今まさに、ここに押し寄せようとしている。

「くだらない望みだったのかもしれない。だがそのために私は、自分の人生だけではなく、沢山のものを犠牲にした」

 リメンブランス博士は、この時心から苦しそうな表情をした。

「私たちはひどい親だった。すまなかった、カイルワーン」

「その話は、聞きたくない」

 俯いて、カイルワーンは一言呟いた。そんな息子の肩に手をのせて、リメンブランス博士は促した。

「時間がないんだろう? 早く行け」

 その言葉とともに、支えていたアイラシェールをカイルワーンの背に負わせる。コーネリアがずり落ちてこないよう紐で結わえ――そして、準備は全て整った。

「無事でね」

「気をつけて行け」

 コーネリアと博士の言葉に、カイルワーンは無言で頷いた。

 脳裏を様々な思いが駆けめぐるのに、何一つ言葉にならない。

 どう言ったら、この気持ちは伝わるのか。

 階段を一歩、二歩。重い足取りで下り、それでも意を決して振り返った。

 二人がこっちを見ていた。

「ありがとう、父さん……母さん。元気で! 無事でいて!」

 ただその言葉だけを残し、カイルワーンは薄暗い地下通路に姿を消した。

 遠ざかっていく足音と気配。目の前のトンネルがかたりとも音を響かせなくなった頃、残されたリメンブランス博士は、コーネリアが今にも泣き出しそうな顔をしていることに気づいて、そっと声をかけた。

「あなたはいい母親だった。王女にとっても、カイルワーンにとっても。心から感謝している」

「私がいい親だったのではありません。カイルワーンがいい子だったんですわ、博士」

 カイルワーンがどれほど頑張ったのか――どれほど頑張らなければならなかったのか、コーネリアもリメンブランス博士も知っている。どうして彼がそうなってしまったのかも。

 だからこそ、ぽつり、と口をついて出た言葉。

「グレンドーラ……どうしてあんないい子を捨てたの」

 自分に聞かせるつもりではなかったであろう言葉に、リメンブランス博士はそれでも苦笑を禁じ得なかった。

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