2章4節

 王宮からの帰り道は、すでにたそがれていた。人気のない薔薇園を通り抜けたカイルワーンは、不意に一枝白薔薇を切り取る。

「ただいま」

 薔薇を手に扉を開けると、今度はコーネリアが待ち構えていた。

「お帰りなさい、カイルワーン」

 笑顔でコーネリアは迎える。だが長いつきあいで、カイルワーンにはコーネリアが何かを企んでいることを容易に読み取れた。

「何の用? その前に、とりあえず着替えさせて――」

「そのままで、ちょっと来て」

 連れていかれたのは、塔の応接の間――普段は使うことはないけれども、この塔で一番立派な部屋の前。

「開けなさい」

 訳がわからないまま促され、扉を開けた。

 そして、息を呑んだ。

「カイルワーン……?」

 おずおずとした、ためらいがちな声がかけられても、返事ができない。動けない。

 そこには、純白の見事なドレスで正装した、アイラシェールが立っていた。

「陛下の、今年の贈り物なの」

 背後から、小さな声が聞こえた。

 そう、今日はアイラシェールの十七歳の誕生日なのだ。

 コーネリア――カイルワーンは内心で、自分を育ててくれた女性を毒づく。

 白いドレスは成人の証。十七歳になった女性は、親から贈られた純白のドレスをまとって、初めて夜会に出ていく。それがアルバ社交界の習わし。

 けれどもそんな日は、アイラシェールには来ない。それなのに。

 ああ、そうか。これもまた。

 覚悟なのか。

 覚悟を決めろと言うのか。

「ああ、だから私、恥ずかしいって……コーネリア!」

 顔を赤らめて叫ぶアイラシェールに、カイルワーンをかぶりを振って近づいていく。

 手には白い薔薇。その偶然をカイルワーンを苦々しく思う。

 自分にも、予感が、あったのかもしれない。

「カイル……?」

 カイルワーンはひどく真面目な、緊張した面持ちでいた。アイラシェールが訝しんだ時、それは起こった。

 音もなくカイルワーンは跪き、当惑するアイラシェールを見上げて言った。

「私は捧げる剣も持たない非力な男ですが、どうか私を貴女の騎士にお加えください」

 差し出される――捧げられる白い薔薇。

 それは臣従を、忠誠を、そして情愛を誓う、騎士の礼――。

「私の心を、お受け取りくださいますか」

 真っ直ぐな視線に見つめられて、思いもかけない言葉にさらされて、アイラシェールは立ち尽くした。

 どうしたらいいのか、判らなかった。

 長い沈黙があった。アイラシェールは答えず、カイルワーンはただ待った。

 捧げられる白い薔薇。礼とともに捧げられたものを取ることは、その申し出を受諾すること。

 その心に応えること。

 だけどそれは。

 だけどそれは――。

「…………できない……」

 その長い時間のあと、アイラシェールは震える声でこぼした。

 あふれる、涙とともに。

 わっ、と泣きだし、アイラシェールは駆け出していってしまう。自分の部屋に飛び込む荒々しい音を聞き、カイルワーンは立ち上がった。

 うなだれた彼は、ただ静かな表情をしていた。

 この結末を、どこか予想していたかのように。

「……やるじゃない、カイルワーン。格好よかったわよ」

 軽く肩を叩くコーネリアに、カイルワーンは沈んだ表情を見せた。

「よくないよ。やっぱりアイラを追いつめることになった」

「追いつめる、ね……。確かにそうね。そうかもしれない。でも」

 コーネリアは、きっぱりと言う。

「もうアイラも、覚悟を決めなければならないのではないの? あなたが覚悟を決めたように」

 もう子どもではいられない。このまま塔の中で二人仲良く、というわけにはいかない。この先の人生をどうするのか、ともに生きていくのか、否か。

 ともに生きていくのならば、どういう関係を築いていくのか――。

 その問題から、もう逃げることはできないのだ。

「僕の覚悟はどうでもいいんだよ。僕は自分がしたいようにすればいい。生きたい道を選べばいい。ただそれだけだ。でも、アイラは――」

 階上の彼女の部屋から、泣き声が聞こえる。こんな風にアイラシェールが声を上げて泣くことは、ついぞないことだ。

「慰めに行ってやってくれないか? コーネリア」

「私が?」

「僕が行ったら逆効果だろうに」

 苦々しいため息をもらすカイルワーンに、コーネリアは切なそうに目を細めた。

「アイラシェールは、あなたのことが嫌で花を取らなかったんじゃないわ」

「それだって、どうでもいいことなんだよ」

 ぽつり、とカイルワーンはこぼした。応接間から出ていこうとする背中は、それでも沈んで見えた。

 アイラシェールだけでなく、カイルワーンの育ての親でもあるだけに、コーネリアにはそれがとても切なかった。



「アイラ、入るわよ」

 コーネリアがアイラシェールの部屋の扉を開けると、勢いよくクッションが飛んできた。

 次々と飛んでくるクッションを避けることなく、嵐が収まるのをただコーネリアは待った。

「ひどい、ひどいひどいひどい!」

 泣きはらした真っ赤な目で、アイラシェールはコーネリアを睨んだ。

「何でこんなひどいことをするの! なんで、なんでなのっ!」

 感極まって、再び泣き伏すアイラシェールに、コーネリアは静かに歩み寄ると、その背中を静かに撫でた。

「どうしてみんなで寄ってたかって私を追いつめるの! なんて答えたらいいって言うの!」

 はいとも、いいえとも答えられない。どちらにも逃げ道がなくて、自分にできることといったらただ泣くだけだ。

 情けない。カイルワーンは自分がぐずぐずしている間に、あんなに鮮やかに覚悟を決めてしまったというのに。

「私、どうしたらいいの……?」

 この後どんな顔をしてカイルワーンに会えばいいというのだ。どんな言葉をかければいい。どんな風に暮らしていけばいいというのだ。

 それとも拒絶されたカイルワーンは、このままいなくなってしまうのだろうか。

 そうなったとしても、それは身から出た錆だ。何も文句は言えない。言える立場ではない。

 だが、そのことに自分は耐えられるだろうか?

「私、私、私……」

 ただ泣くばかりのアイラシェールの苦悩が、どんなものであるのかコーネリアには判る。だがそれが、避けて通ることが決してできないことを知っているだけに、何もできない。

 できたことは、ただそばにいることだけだった。

 この二人の未来がどうなっていくのか、育て親として何をしてやればいいのか、何をしてやれるのか――そんなコーネリアの物思いは、たったの一夜しか許されなかった。

 翌日のことだったのだ。コーネリアが王宮内で、その報を聞きつけたのは。

「センティフォリアと、ノアゼットで反乱――」

 王宮内に広がっていく不穏な気配に、コーネリアは胸を押さえた。

 水辺に広がった小さな波紋。それがさざ波になり、いずれ大波となる――それは予感にすぎない。

 だが、それをただの杞憂と笑うことが、コーネリアにはどうしてもできなかった。

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