1章7節

 カイルワーンは父親に連れられ初めて『赤の塔』を訪れた日のことを、鮮明に覚えている。

 その時アイラシェールは、子供部屋の床に気に入りのおもちゃをいっぱいに広げ、扉に背を向けて遊んでいた。

「アイラシェール」

 乳母のコーネリアが呼びかけると、彼女は振り返った。

 真っ赤な目が入口に立つ二人の姿を認め、そして。

 笑った。

 暗闇の中から初めて光を見いだしたような、泣き出しそうな笑顔だった。

 ずきり、と胸が射抜かれたように痛んで、カイルワーンは当惑する。

 だが、さらにカイルワーンを当惑させたのは、次のアイラシェールの行動だった。

 立ち上がった彼女は、その小さい足で駆けてくると、何も言わず、カイルワーンにしがみついたのである。

 胸の中に飛び込んで、顔を胸に押しつけて、離そうとしなかった。

 それはまるで、胸の中で泣いているようだった。

「ア、アイラ、どうしたの?」

 この突然の行動は、初対面のカイルワーンは勿論、今まで彼女を育ててきたコーネリアにとっても到底理解不能だった。おろおろとアイラシェールを見、カイルワーンを見、なす術もなく立ち尽くす。

 突然抱きつかれたカイルワーンの方にしても、どうしたらいいのか判らなかった。かといって、自分より小さな子どもを突き放すことも引きはがすこともできず、彼もまた立ち尽くすのみだ。

 あの時のアイラシェールの行動は、一体何だったのか――あの時の彼女は何を考えていたのか。そんなことを三歳児に聞いても判りっこない。謎は謎のまま、永遠に取っておかれることになるのだろうけれども、それでも。

 自分の腕の中の、温かく柔らかな小さな子どもは、あの時、紛れもなく震えていたのだ。

 そのことを、カイルワーンははっきりと覚えている。


 それから十二年が過ぎ、アイラシェールは十五歳、カイルワーンは十七歳になった。塔に閉じ込められ、世間からは隔絶されていたが、二人の狭い世界は乳母のコーネリアとリメンブランス博士に支えられ、温かく穏やかで何不自由なく満ち足りていた。

 カイルワーンは階下の厨房で紅茶を淹れると、アイラシェールの部屋の扉をノックした。中からは、女性二人の笑いさざめく声が聞こえてくる。

 アイラシェールの五つ上の姉であるオフェリアは、隠された妹の存在を知った後父王に敢然と戦いを挑み、粘り強い説得の上、ついにこの塔を訪れる許しを得た。人目につくためそう頻繁ではないが、それでも塔に明るい空気を運んでくれる。

「アイラ、入っていいかい?」

「いいよーっ」

 アイラシェールとカイルワーンの関係は、王女と侍従である。けれども三歳と五歳という分別も何もない年から常に一緒におり、またコーネリアが二人を分け隔てなく育てたので、二人は実に打ち解けた関係を築いている。

 オフェリアは口にしたことはないが、そんな二人を内心羨ましいと思っている。

「お茶持ってきたよ」

「おやつはないの?」

「運がいいね。コーネリアがちょうどクッキーを焼いたところだったから、もらってこれたよ。胡桃とヘーゼル。好きだろう?」

「これだからカイル好きっ」

 犬ならば尻尾をぱたぱた振りそうな笑顔で、臆面なく言うアイラシェールに、カイルワーンは微かに苦笑した。

 それは紛れもなく、照れだ。

「おだててもこれ以上何も出ないよ」

「なによ、人がせっかく感謝の気持ちを精一杯表してるのに!」

 そんな二人のやり取りを、オフェリアはくすくすと笑いをかみ殺しながら見る。

 本当に羨ましい、と思う。

 妹は、客観的に考えれば不幸だ。一国の王女に生まれながら両親に疎まれ、その存在を抹消され、幽閉されて外の世界を見ることなく、一生を終えなければならない。

 けれどもこのカイルワーンという存在。この一点をもって、ひょっとしたらアイラシェールは自分よりも幸福なのではないか、とオフェリアは思ってしまうのだ。

 心を開き、屈託なく笑い、時に喧嘩することのできる存在。それがどれほど得難いものか、オフェリアにはよく判っている。

 父王が何のためにカイルワーンをここに送ったのか――アイラシェールは『自分のことを考えて、してくれたこと』と言う。それはまさに真実だろう。

 もしもカイルワーンがいなかったら――そのことを、アイラシェールもオフェリアも、考えたくはない。

 けれどもその時、必ず同時に考えてしまう。

 果たして当のカイルワーンは、現状を、自らの境遇を、そしてアイラシェールのことを、どう思っているのだろう、ということ――。

 手際よく紅茶を注いでいる彼の横顔を見ながら、オフェリアはそんないつもの不安に駆られた。

「それではオフェリア様、ゆっくりしていらしてくださいね」

 笑顔でそう言ってお茶を出し、下がっていくカイルワーンをオフェリアは見送る。その横顔に浮かぶ翳りに、アイラシェールは訝しげに尋ねた。

「姉様?」

「ああ――ううん、なんでもないの。それよりアイラ、お土産があるの。父上からアイラにって」

 慌てて物思いを隠し、先刻選んできた首飾りの箱を、アイラシェールに渡す。

 開けてみたアイラシェールは、目を丸くした。

「こんな立派な首飾り……どうなさったの、これ」

「ガルテンツァウバーの新大使からの贈り物でね、私とあなたとエリーナにって」

「父上の気持ちは嬉しいけど……私にこの首飾り、どうしろっていうのかしら。着飾っていくところも、その必要もないのに」

 それは真実を突くと同時に、辛辣な意見だった。思わず苦笑するオフェリアに、はっとしてアイラシェールは言う。

「ごめんなさい、姉様。どうか気にしないで」

「いいの。私が悪かったわ。確かにあなたには、どうしようもないものよね。それよりも何か欲しいものはあって?」

 重い雰囲気を振り払うように笑って、オフェリアは問う。アイラシェールは生真面目な表情で考え込むと、やがて言った。

「……やっぱり本」

「また?」

 オフェリアはその妹の願いに、目を丸くした。

 今までアイラシェールの願いで、どれほどの本を彼女に贈ったことだろう。また、彼女の家庭教師役のリメンブランス 博士も、相当量の書物をこの塔に持ち込んでいるはずである。それでもまだ足りないというのか。

「そのうち、書庫の床抜けるわよ。それに目に悪いわ。ほどほどになさい」

「でもねえ、姉様。それが一番私の性に合うし」

 妹の小さなため息を、オフェリアは浮かない気分で聞いた。

 アイラシェールは、塔の外に出られない。それは魔女の呪いや迷信のせいだけでなく、体のせいでもあった。

 先天性の白子アルビノ――体内で色素を作れないという異常を持つ彼女は、太陽光に対して抵抗力がない。特に目が、強い光に耐えられないのだという。

 そんな彼女が書物や学問に没頭するのは、至極当然の成り行きと言えた。

 そしてまた、環境がそれを助長していた。

「だけど姉様。どんなに私が勉強しても、本を読んでも、結局はカイルにかなわないのよね。嫌になっちゃう」

 拗ねた物言いに、オフェリアはぷっと吹き出した。

 好敵手がいる。この状況が、アイラシェールの本の虫に加速をかけていた。

「それが二歳の年の差というものではないの、アイラ」

「いいえ。やっぱり彼は博士の息子なんだわ。ここのところ、つくづくそう思っちゃう」

 はあ、と大仰なため息をつき、ふとアイラシェールは表情を引き締めた。

「姉様。これは聞いてはいけないことなのかもしれないけれど」

「なに?」

「これは本当に、私のところに回ってきていいものなの?」

 アイラシェールは首飾りの箱を取り、真面目な表情でそう聞いた。

 その鋭い矢が、ずきり、とオフェリアの胸を刺す。

「……どうして?」

「これは本来国庫に納められてしかるべきものではないの? ガルテンツァウバーの新大使の進物というのなら、これに対して相応の返礼がなされているはず。その財源は、国庫ではなくて?」

「アイラシェール……」

 こんな狭い、隔絶した世界の中で暮らしているのに、どうしてこの妹は気づいてしまうのだろう。王宮内で暮らしている上の妹のエリーナが、何にも考えていないというのに。

 自分が最初断ろうとした理由。それを突かれて、オフェリアは沈黙するよりない。

「姉上、本当のところ、この国の財政は――」

 その言葉に、オフェリアはかぶりを振った。

 彼女は何も認められない。アイラシェールを大事に思うが故に。また、第一王女――第一王位継承者であるが故に。

 そして、女である――男ではない、それが故に。

 そのもどかしさが、胸にわだかまってオフェリアは堪らなかった。

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