姉の苦労と、姉の後押し。
ミスティがハミルトン邸に宿泊した日の、そのさらに翌日のことだ。
帝城は基本的に夜間も灯りが照らされているが、限定的に灯されていない場所がある。
たとえば、書庫。
たとえば、食糧庫。
人の出入りが少ない場所に限り、定刻を境に消灯されていた。
そこへ――――。
闇に紛れるように、また、人目を忍ぶように。
だが、あくまでも目立たぬように振舞っているだけで、表面上は普段通りの装いと佇まいで足を運んだ、一組の男女が居た。
「遅かったじゃないか、クリストフ」
場所は書庫。
遅れて足を運んだクリストフを迎えたのは、元・第二皇女のミハエラである。
彼女はそこに並ぶ本棚の陰で、まるで逢瀬が如く潜みながら彼を迎えた。
「こんなところを誰かに見られては、男女の不義を疑われてしまうな」
「ご安心を。万が一そうなっても大丈夫なよう、帝剣の者へ密会すると伝えてあります」
「……なんだつまらんな。お前が焦る姿を見たかったというに」
「お戯れはおやめください。ただでさえ、我らはあまり暇のない立場なのですから」
「ああ、違いない」
互いにあっさりとした言葉を口にしてすぐ、クリストフが純白の法衣の懐に手を差し入れる。
取り出したるは、人の指を収めた黒い布だ。
その指は、布の色に劣らず真っ黒に変色している。。
「それが例の?」
「はい。ミハエラ様の砦近くの紛争地より届いた、
「……届いたのは今朝だとのことだが」
「そうなります。申し訳ありませんが、モノがモノのため私が先に検めました」
「ああ、それなら構わん。我が気になるのは、その人物がいつ殺されたかということだ。――――何せ、」
ミハエラは深く息を吸うと、ため息交じりに言う。
その遺体は……。
「にわかには信じられん。現役の帝剣がそうもヘマをするとも思えんからな」
皇帝に仕える、レオメルがための暗部。
本来は皇族の周囲にいる彼らは、オヴェリアが知るように他国で暗躍することもある。
ただ、ミハエラは彼らが紛争地域の近くに派遣されていたことを知らなかった。
普段自分が住まう砦の誰もが、そんな話を聞いたことがないはずだ。
クリストフは眉をひそめたミハエラを見て、彼女が本当に何も知らないということを確信する。
「良かった。ミハエラ様が裏切っていたのなら、私はここで刑戮を成さねばなりませんでした」
「冗談はよしてくれ。もう分かっているだろうが、我は帝剣が派遣されていることすら知らなんだ。しかし、その性質は元皇族として把握しているが、知らぬところで動かれるのはいい気分じゃないぞ」
「お許しください。此度の件は、知る者がこの城でも僅かなものでして」
「……では話せ。そうでなければ我は協力できん。我が帝都に戻った理由の一つが、お前から秘密裏に連絡が届いていたからだとしてもだ」
実際、帝都で重要な議がいくつもあるのは真実だった。
けどそれだけで帰るほど、今のミハエラは暇ではない。
陸路では遠く離れ、水路でなければ面倒な道をわざわざ進んで帰ったのは、そうしなければと判断せざるを得ないことがあったからに他ならない。
別に自分が居なくとも出来る議なんて、代理人を立てれば良い話だったから。
「クリストフ。お前が最初に我を確かめたかったことはわかった。そして確かめ終えて、我が何かしらの裏切りをしていないことも理解しただろう。であれば、今度はそちらが義を示す番である」
「勿論でございます。失礼をしてしまった分、できる限りの誠意を示させていただきましょう」
こうしてクリストフは、最初にアンガルダでの騒動について語り聞かせた。
あの場所で、大時計台で時堕に何があったのかを。
つづけて、中立都市リベリナにて発生した、白獅子と聖地の関係についても。
………最後には、生きていた時堕が残した手紙に関しても共有した。
じっと耳を傾けていたミハエラは時折、眉をひそめたり、「ほう」と低い声で頷いた。
聞き終えてからはしばし沈黙し、腕を組み目を伏せる。
次に口を開いたのは、たっぷり数分後のことだった。
「合点が言ったことがある」
「何か、思い当たる点でもございましたか」
「ああ。実は我が海を渡り帝都に戻る前、不審な二人組の姿を見かけたのだ」
「そちらの紛争地域で、と?」
ミハエラが頷き、目を開けた。
「馬鹿げた話だと思ったが、その内の一人が聖地の大司教を殺しに来た――――と言っていた」
すると、クリストフの眉が揺れた。
普段冷静沈着な彼には珍しく、強い興味を抱いたらしい。
「その者は粗暴な口調で、大胆不敵な人柄ではありませんでしたか?」
「ついでに、我が自然と恐れをなすほどの迫力があったぞ」
「……間違いありませんね。カールハイツです」
「だが分からんのは、もう一人の方だ。仮にあの男が大司教を狙っているとして、その目的を共有できるだけの人物が居るのか?」
「残念ですが、私にも見当はつきません」
「ふむ……いずれにせよ、その者も迫力に満ちていたと伝えておこう。だからもしかすると、あの者こそが例の
剣神、その単語を聞いたクリストフが僅かに肩を揺らした。
その様子を見たミハエラは、彼が過去を思い出し、無意識に当時の恐れを想起してしまったのではないかと思った。
「――――剣神・レィレリック・ヴァイスマン。我ら連合国軍の英雄が一堂に会するも、たった一人で我らを敗北寸前まで追い詰めた最強の男」
クリストフの声色は、心なしかいつもより重かった。
「確かにあの男は、話しているだけでも計り知れない迫力を放つでしょう。ガルディア国王の側近だったあの男は、間違いなく世界最強の剣士ですから。……しかし、それでは整合性がとれません」
「整合性だと?」
「ええ。ご存じのように、ヴァイスマンは生死不明なので生きていてもおかしくない。ですが、あの男がカールハイツに協力するとは思えません。それに相手がミハエラ様なら、奴は何も言わずに貴女様の首を切り落としていたでしょう。――――ですので、間違いなくヴァイスマンではございません」
ミハエラの心の中には、半信半疑な自分も居た。
というのは、協力関係はどうあれ、たった一人の男がそれほどの強さを持つのだろうか、というものだ。
(……我の師もクリストフも凄まじい。そしてアルバートはもっとそうだ。更に、時を止める力の持ち主だったカールハイツも居て、どうすれば苦戦できるというのだ?)
想像が及ばない実力者であるらしいが、どうにも理解の範疇にない。
「さて、話を戻しましょう」
疑問を抱いていたミハエラの意識もまた戻される。
クリストフは話の本筋へと、会話の流れを戻す。
「私が当初、ミハエラ様を疑っていた理由でもございます」
「……どうせ裏切り者でも居る、とでもいいたいのだろう? 秘密裏に派遣されていた帝剣の一人が命を落とし、遺体で見つかった。我がどこかで派遣の情報を得て、何らかの裏切り行為を働いた可能性を危惧していたようだな」
「お察しの通りです」
「ふん……素直すぎるのも考え物だ、が……
「それもお察しの通りです。ですが安心しました。先の対面で、ミハエラ様は関係ないと確信しておりましたので」
「む? ではなぜもう一度カマを掛けた?」
「せっかくですので、念のために、と」
ミハエラは涼し気な顔で言うクリストフを見て、深く深くため息を漏らす。
彼女は顎をくいっと動かして、その男につづきを求めた。
「帝剣の者はある目的のために派遣されました」
「大司教の監視、だな?」
「はい。リベリナでの一件を踏まえ、私は法務大臣殿と協力して調査を開始しております。この一件はその関連で、大司教の周囲を探るためのものでした」
しかし、帝剣に所属する者は、大司教の下にたどり着く前に殺された。
共に派遣されていた者が異変に気が付けたのが幸いして、遺体の一部を持ち帰るのに成功したのだ。
「相手の情報は?」
「まるで
「……なんだ、見通しの悪い場所で戦闘に陥ったのか?」
「いえ。彼らは道中の宿に居る際に襲われ、黒煙のような影に一人の命が奪われたのです。生き残った者の報告によれば、その影に触れると同時に、身体がその指に似た肌に変色したようです」
「なるほど。固有魔法か」
そう呟いたミハエラは、腰に携えていたレイピアを抜いた。
「構わんか?」
「微かになら、問題ありません」
「結構だ。少し削らせてもらう」
レイピアの切っ先に鋭い風を纏わせると、黒に染まった指に掠らせる。
僅かに見えた断面に目を凝らし、鼻を近づけて臭いを嗅いだ。
「ひどいカビの臭いに、腐敗の臭いだ」
「現場の宿はそれはもう凄惨だったようです。生き残った者が駆け付けると、相棒の身体のほとんどが液体にまで腐敗しながら、それでも生きた部分だけが動いていたと。幸い、騒ぎになりかけていたため逃走できたそうです」
「まるで、生きたまま腐らされたような口ぶりだな」
「仰る通り、相手はそのような固有魔法でもお持ちなのです」
「――――ふんっ」
ミハエラは目を伏せ、犠牲者の指を丁重に包みなおした。
それはクリストフが受け取って、懐へしまい直される。
今度はすぐに目を開けて、「わかった」と声に出してレイピアを鞘に収めた。
「最後に教えろ。裏切り者が居ると思った理由は何故だ? それに、此度の一件に聖地が関与してると思っている理由もだ」
「もちろん、お答え致します」
すると、クリストフは佇まいを正す。
これまでより、どこか肩を張った様子でミハエラを見る。
「帝剣の派遣を知る人物は数人だけです。私に法務大臣殿、それに皇帝陛下と派遣された張本人たちです。ですが彼らが襲われた状況を鑑みるに、待ち構えていたかのように襲撃された。即ち、彼らが使う宿は勿論、どのような行程で現地に向かうか分かっていたということです」
「筋は通っているな。して、聖地の関与の方は」
「例の固有魔法について、私は心当たりがございますので」
ミハエラが目を見開いて驚き、つづく言葉を予想する。
そしてその予想通りにクリストフが言う。
「――――ラナトス。ガルディア戦争時、英雄と謳われる者たちと共に戦った大司教の名です」
耳を傾けていたミハエラは何度目かわからない溜息を漏らした。
久しぶりに帝都へ戻り、何かと思えば想像しない話つづきで正直疲れている。
だが、面倒だが最後に確認しなければ。
自分が帝都に呼ばれた真の理由を、そして、クリストフが協力したいということを。
「我が愛するシエスタの中に、聖地と繋がりのある裏切り者が居るのだな」
クリストフが頷く。
「私と法務大臣殿は仲間を探しております。多少危険は伴いますが、できればご協力いただきたく」
「……馬鹿者め。どこが多少だ、この愚か者が」
しかし、返事は決まっていた。
シエスタに生まれ、祖国を愛し過ぎるがゆえに選んだ守る形。軍人の一人になるために皇族を離れた彼女が、「いいえ」と答えるわけがなかったのだ。
「で、アルバートたちにこの話は?」
「ミハエラ様のお返事を聞いてからする予定でした。近日中に、私がフォリナーに出向いて共有しておくつもりですよ」
「ふむ。では心強いな。あの男が味方と思えば――――」「いえ、アルバート殿は手を貸してくれないでしょう。あくまでも情報共有をするに過ぎません」――――な、何故だ!?」
当然の疑問に対し、クリストフはあのことを思い出しながら。
「……アルバート殿には、何か理由があるようですから」
それは、彼が皇帝との間に設けた諍いのこと。
内容はわからずとも、決定的に袂を分かつ何かがあったことに違いはない。
だが、アルバートは自分の周りを守るためなら力を貸すはずだ。
それだけでも、クリストフにとっては重要なことなのである。
◇ ◇ ◇ ◇
書庫を離れたミハエラは長湯をして、少し身体を癒せたところで城内を歩いていた。
今もなお自室が残されていることには、父である皇帝に感謝して止まない。
――――どれ。今晩も優雅に過ごさせてもらおう。
と、ミハエラが自室に向かっていた際のこと。
何故かいつもと違い、妙に挙動不審な妹の姿を見つけた。
氷華の異名を国内外轟かす、可愛らしい妹の姿を。
「ミスティ! そこで何を……ッ!」
そこで、ミハエラは背後から忍び寄り隙を突いた。
「っ――――きゃ!?」
何とも可愛らしい驚きの声を聞き、満足そうに頷いたミハエラが笑みをこぼす。
すると彼女は、妹が何か落としたことに気が付いた。
どうやら紙の袋に入った……本か何かのようで、それが落ちた勢いでこぼれ出てしまった。
「す、すまない! すぐに拾おう!」
しかし、
「い、いいですっ! ミハエラお姉様は気にしないでいいですからっ!」
ミスティは慌てる一方で、しゃがんだミハエラの身体に手を伸ばす。
が、止められてもミハエラの目の前にはもう本が見えている。
……そう、ミスティが見てほしくなかった本のタイトルが、じっと傍にあったのだ。
「…………っ!」
呆然としてしまった姉に対し、ミスティは慌てて本に手を伸ばして紙袋に戻す。
紙袋をぎゅっと胸元に抱き、じとっと敵意のある目を姉に向けた。
彼女は羞恥からか瞳をやや赤く、僅かに涙で濡らしている。……更に唇を弱々しく動かして、意を決した様子でミハエラに尋ねるのだ。
「み、見ましたか?」
ミハエラはすぐには答えず、とりあえず立ち上がってから考える。
そして、妹を想って答えることに決めた。
「いいや、見れてないが。何の本を買ってきたのだ?」
「……勉強に必要な本があったので、それを」
「ふむ、勤勉で大変よろしい。私も鼻が高いぞ」
「そう言っていただけて光栄です。――――では、私はそろそろ部屋に戻りますから」
こうしてミスティが、安堵した様子で歩きだす。
一方で、ミハエラ。
彼女はその背を見送りつつ、腕を組んで迷ってしまった。
……あそこはむしろ、少し背中を押してやった方がいいのではなかろうか?
その迷いは、ミスティが落とした本のタイトルを見てしまったから。
さっきはああいったけど、勿論、見逃していない。
妹の私生活を暴くような真似は無粋だからする気はない、が、見えてしまったのだから、しょうがないの一言だった。
「――――必見、帝都男子はコレに弱い」
ぼそっ、と呟いた。
そうすれば、いつもより足早だったミスティの足が止まり、不意に静寂が訪れる。
「――――必見、帝都男子はコレに弱い」
もう一度呟く。
すると今度は、ミスティが慌てて振り向いた。
彼女は勢いよく姉に駆け寄って……。
「み、見てるじゃないですかっ!」
「すまん。実はそうなんだ」
「っ~~もう! 知りません!」
結局、ミスティは羞恥に負けて逃げ出しそうになった。
けどそこはミハエラ。
姉として妹の行動パターンを把握していたこともあって、逃げ去りそうになったミスティの手を、その寸前で掴んで止めた。
「まぁ私の話を聞いておくのだ。フォリナーは帝都じゃないからどうなのだ? と思ったが、そんなのが関係ないということを私が教えてやる」
「くぅ……これが生き恥なのですね……」
「何を恥と言うか。恋は立派な人間らしさだぞ。だから聞け、年長者として私が助言してやろう」
「助言……? 一目ぼれした日のうちに、お相手の方へ私の
「安心しろ。それはそれ、これはこれだ」
いつしか、ミスティの羞恥心は収まっていた。
もう諦めるしかない、こう思わざるを得なかったため、諦めて身体から力を抜いたのだ。
「いいか? 近いうちにグレンへと――――」
だが、その助言は意外にもミスティを驚かせた。
以外にも真っ当で、それらしい助言だったからむしろ感謝したくらいだ。
「理解できたのなら、実行だ」
「で、ですがグレンは忙しくて……」
「もう少しすれば落ち着くだろう。ミスティはその頃合いを見計らい、グレンの下を訪ねるのだ。私が言ったようにグレンを誘ってみろ」
「でも、
「当たり前だ。むしろそこが肝だから、失念するんじゃないぞ」
ミスティは合点がいかなかったけど、それが重要と言われれば従う気になれた。
決行はまだ先だ。
グレンが忙しいから、彼が落ち着いてからにしたい。
予期せぬ事態で羞恥を極めていたミスティだが、最終的には姉の言葉に強く勇気づけられた気がした。
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