権力者との再会。
人気のない裏路地から水道橋に近づいた。
水が出る口が多々作られていて、俺が知る水道橋と仕組みが違うらしい。
例えるならば公園にあるような蛇口のように、自由に水を汲めるようになっていた。
「よし」
登るか。
俺は石の隙間に指先を差し込む。今の身体と身体強化の影響のおかげか、何の苦労もなくすいすいと進めた。
それからあっという間に頂上へ到着し、水が流れる内側へと入り込む。
やっぱり冷たい。
馬鹿みたいに冷たかった。
履いていたスラックスは濡れて身体に引っ付くし、革靴の中なんて足先がかじかんで仕方ない。
こういう時に限って雪の勢いが増し、空が俺を嘲笑しているようだった。
灰色の空を眺めること十数秒。
俺は勢いよく足を動かす。
水を蹴って、白い息を吐きながら前に進んだ。
前世は恵まれていたんだな、と再確認した。
最新技術で作られた防寒具など、かなり助けられていたのが分かる。
「あー寒っ……どれだー……ローゼンタール公爵邸ー……」
近づきつつある貴族街の中、ひときわ目立つのがローゼンタール公爵邸らしい。
と言ってもさっきは分からなかったが、どの屋敷もハミルトン邸の数倍はあった。
ふむ、帝都貴族というのは立派なもんだな。
だが僻地具合なら負けてないぞ。
無駄に対抗してみてすぐのことだ。
あれかな? 視線の先にあるひときわ大きく、白壁の美しい屋敷。
よく整えられた底辺は広くて、ハミルトン邸がいくつ入るか分からない。
俺は白壁の屋敷に向けて足を進めたが、残念なことにまだまだ距離があった。
体力はまだまだ余裕でも、寒さで気が滅入る一方だ。
白壁の屋敷の近くまでは十数分を要した。
幸いなことに、この辺りは見回りの騎士がいない様子。
「っと」
俺は水道橋から飛び降り――はせず、更に進む。
思い出したように、一つの懸念が脳裏をかすめたからだ。
仮に俺がここでローゼンタール公爵邸の前で降りたとしても、果たして、俺の話を聞いてくれるだろうか? と。
遠目でもわかるが、屋敷の前には二人の門番が立ちはだかっている。
そこに、服が汚れた俺が唐突に現れたとしよう。
ラドラム様に会わせてくださいって言っても、普通の価値観なら拒否するか、同時に俺を騎士に突き出すのが当然の反応だ。
そうなるとここまでの苦労も水の泡。
どうしたもんか、考えたところでラドラムの言葉が思い出させる。
『――何か困ったことがあったら、いつでも僕を頼るといい。僕の屋敷の僕の部屋まで来てくれたら、君の頼みならいくらでも聞いてあげよう』だったか。
間に受けるのは馬鹿だ。それに、今、ラドラムが屋敷に居るかなんてわからない。
仕事中かもしれないわけだし。
でも。
「……あいつは嘘をつくような性格じゃない、と思う」
願いでもある。
しかし、ラドラムと言う男は真正面からやってきて、素直に俺の言葉に耳を傾けてくれるか分からない。
いっそのこと忍び込んだ方が……ってことだ。
だから俺は決意した。
ラドラムの言葉に乗ることにしたんだ。
懸念はどこがラドラムの部屋なのか。
中々面倒な任務だなと、俺が頬を掻いたところで気が付いた。
屋敷の正面、一際大きな窓ガラスが張られた部屋。カーテンを開けて陽の光を浴び、満足げに笑みを浮かべたラドラムの姿があったのだ。
もしかして俺は遊ばれている?
パーティのときの提案といい、彼はこうなることを予測していたのか?
彼の思惑に乗せられている気がする。
とはいえ、だ。
「実質的に選択肢はない。俺はあの男の助力を得る必要がある……」
父上のために力を貸してくれる貴族なんて、ラドラムぐらいしか居ないんだ。
俺に知り合いがいないのもそうだけど、彼ぐらいの権力が無ければ、父上に掛けられた疑惑を晴らすことは難しいはず。
すぅ――大きく息を吸って辺りを見渡す。
少し先、水道橋の柱がちょうどいいことに、ローゼンタール公爵邸の近くに下りている。
あそこにあるのは恐らく、ラドラムの屋敷に水場を近づけるためだろう。
数分かけて近づいてみたものの、誰か下に居る気配はない。
給仕も、そして騎士も誰一人としてだ。
こんなとこを警備するはずがないか、と思いつつ、平民街と水道橋が繋がってることを考えれば、侵入することを考えていないとも考えられない。
が、何にせよ俺は侵入するだけだ。
前世でも、罠に嵌められたことはいくらでもあるし、それをクリアしたことも山ほどある。
「最期はその罠で殺されたわけだけど……っと」
降りたところはローゼンタール公爵邸と本当に近い。
目と鼻の先、数歩も進めば屋敷の鉄柵に手が届くぐらいだ。
そしてそのさらに奥には、屋敷の中へつづく裏口がある。
しかし、ここにも見張りは居ない。なんでだ?
疑問符を浮かべたのと同時に、俺は無警戒に身体を乗り出した。
確信したんだ。
コレは俺が忍び込みやすいようにと、わざわざ警戒レベルを下げているのだと。
――舐められたもんだ。
とは言え今は都合がいい。
誘ってるのなら乗ってやるさ。
俺は鉄柵を軽々と超えて、屋敷の敷地内に足を踏み入れる。
誰も俺を咎めに来ることもなく、あっさりと裏口の扉に手を掛けた。
当然のように鍵がかかっていない。
特別な感情を抱くこともなく中に入ると、そこに広がっていたのは屋敷の廊下。
分厚い絨毯が敷かれ、橙色の灯りが全体を照らす、シンプルながら品の良い空間が広がっていた。
左を見ると二階へつづく階段。
もう何も警戒することなく、少し早歩きで廊下を歩く。
階段を上り、方角を確認する。
さっき確認した、ラドラムが居た部屋の付近に進んでいき、それらしく扉を視界に納める。
扉の前に向かうも、やはり見張りは一人もいない。
ため息をついた俺が手を伸ばし、扉をノックしようと試みた刹那。
『――そろそろ来ると思ってたんだ』
ギィィイイ……鈍く軋んだ分厚い扉が開かれていく。
中にはガラスの前に立っていたラドラムと、扉の横に居た一人の老紳士。おそらくこの老紳士が扉を開け、俺を中に入れと促したんだ。
俺はラドラムの言葉に応えるように、静かに中へ進んでいく。
「どうやってここまで来るかなって思ってたんだ。でも、その恰好を見れば答えが分かるね」
「……お戯れを。水道橋の柱近くには誰も居ませんでしたよ。普段はあそこにも見張りが居るはずです。間違いありませんか?」
「うんうん。大正解だね」
「後はもう一つだけ。屋敷の中の警備も手薄でしたが、これも俺が来やすいようにですね」
「それも大正解だ。僕が気になっていたのは、どうやって屋敷の近くまで来るか――だったからね」
するとラドラムは上機嫌に笑い、手を叩いて満足げに言う。
「爺や、爺や! グレン君は僕のお客さんだ! でも先に湯浴みをさせてあげたいんだ」
「承知いたしました」
答えたのは扉の傍に居た老紳士。
「法務大臣閣下! そこまでお世話になるのは……ッ」
「なに、気にしなくていいんだ。アルバート殿の件でここに来たんだろう? 昨夜の件は僕も耳に入れてたからね。でもその話はきっと長くなるし、先に身体を綺麗にしてきた方が気持ちがいいよ」
やはりラドラムは楽し気だ。
これから俺が何を言うのか楽しみにしているようで、俺が何を差し出して助力を得ようとしているのか、それを聞き出そうと気分が高揚しているのが分かる。
「ああ、でも気にすることは無いんだ! 僕とグレン君の仲だからね!」
「で、ですから……俺と法務大臣閣下は」
俺の返事を聞いてラドラムは指を一本立てる。
「何度も言ったかもしれないけど、僕のことはラドラムで構わないよ」
なるほど、交渉は既にはじまっていたんだったな。
俺は仕方なく頷き返し、ついに彼の要望に答えてしまう。
彼の気分を害することは避けたい。
「――――お心遣いに感謝いたします。ラドラム様」
すると、ラドラムは昨日今日で一番の笑みを浮かべたのだった。
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