第27話 死。

 菊川が脳卒中で倒れた。迎えに来た則元に知らされて慌てて家を飛び出す。車の中で早く着け、早く着けと祈った。目を伏せると優しい菊川の顔がチラついて心配でたまらなかった。

 今朝迎えに来て、ちらと会った時はそんなに悪そうではなかった。院長室の机に倒れ込んでいてそれを長男が発見したという。自分がそばにいれば具合が悪いのにすぐに気付いてあげられたかもしれない。そんなことも思った。


 どれほど深刻なのか分からなかったが則元の様子では相当悪いということは見て取れた。病状など聞きたかったが、聞くと会う怖さが倍増するかもしれない。そう思って黙り込む。


 病院に着き則元と駆けた。いつもの癖で院長室へと向かおうとしたが則元にこちらですと呼び止められ向きを変えた。集中治療室に菊川はいて、妻と息子と娘が寄り添っていた。悦子が入ると妻は目を剥いて怒り出した。


「あなた、身分をわきまえなさい」

「そんな私は」

「愛人風情が来ていい場所ではないわ」


 悦子は唇をかむ。菊川を心配しているのは自分も一緒なのにどうして来てはいけないのだろう。反論することも出来ず、悔しさを堪えながら出る。

 則元と一緒に治療室の前の待合椅子に腰を下ろした。思い出すのは楽しい思い出ばかり。数えることが出来るほどのわずかばかりの思い出だがそれでも悦子の心に深く刻み込まれている。


「菊川さんが亡くなりましたよ」


 弾んだ里香の声がする。笑えない冗談言わないでと心で返す。顔を上げるがガラスの向こうの病室に変化はない。


「遺産はどうなるんでしょうね」


 そんな話聞きたくない。


「たくさん持ってるんでしょうね」


 聞きたくない。


「もしかしたら遺言書いてるかも」


 黙れ、黙りなさい。


「サクラさんは……」

「いい加減にして頂戴」


 悦子の力強い声に則元が驚いている。


「どうかなさいましたか」

「ああ、いえなんでもないの」


 心で馬鹿ね、と呟く。この場に里香などいない。これは私の頭が作り出している妄想。やっとそのことに気づいた。相変わらず声は聞こえたけれど、無視をしてやり過ごす。次第におしゃべりを続ける里香の声は小さくなり何を言っているか分からないほど小さくなった。


 聞こえなくなったと安心した時、別の声がした。


「悦子、病室に来てくれないか、悦子」


 菊川の声だった。驚いて顔を上げるがどこにもいない。病室を見た。呼ばれている気がする。悦子はすくっと立ち上がった。


 扉を開けると妻が敵意むき出しの視線を送ってきたが無視をする。心で菊川さん、菊川さんと呼びかける。


「手を握ってくれないか」


 右手を妻が握っているので反対側に回り左手を握る。妻は何か言いた気だったが何も言わなかった。


「三秒数えたら僕は起きる」


 イチ、ニイ、サンと心の中で数えるが菊川は目を覚まさない。起きて下さらないのと心で問いかけるが返事はない。そのうちに悲しくなりハラハラと涙をこぼす。涙は落ちてシーツを濡らす。

 その日の夜、菊川は亡くなった。





 行くかどうか迷ったが葬儀には参列した。菊川と最後の別れをしたかった。母の葬儀を思い出したが菊川の葬儀はそんなに温かいものじゃなかった。シンと静まり返った冷たい空気、母の時よりずっと人は多かったが、悲しんでいる者は数えるほどしかいないように感じた。ほとんどは医療業界の関係者だろう。


 読経を聞きながら菊川の言っていたことを思い出す。


「辛いこともあるだろうけど負けてはいけないよ」


 色鮮やかに声が蘇り悲しみが込み上げる。体を折り俯いて涙を流した。

 出棺を見送った後、悦子は決意を決めた。薬は止める。絶対止める。強い決意だった。本当に止める気でいた。





 後日、院長室を訪れると息子がいた。丁度、机の整理をしていた。


「こんにちは」


 息子は母親と違い好意的だった。則元に病院に悦子を連れて来てくれと言ったのは長男だと聞いていた。


「ワタシ欲しいものがあるの。構わないかしら」

「構いませんよ」


 あっさり頷いてくれたので悦子はまだ片付けが手付かずだった本棚へと行き、『晴れ時々くすり』を手に取る。


「他にも欲しかったら持っていって構いませんよ」

「いえ、これ1冊でいいの」

「そうですか」


「じゃあ、お邪魔したわ」

「あっ、あの」


 悦子は振り向いた。


「父がお世話になりました」


 長男がそう言って頭を下げている。思わぬ言葉に目を丸くする。


「この頃の父は嬉しそうでした。あなたといられて父は幸せだったのだと思います。僕たち家族が与えられない幸せを与えてくださったこと感謝してます」


 悦子は優雅に微笑む。


「ワタシも幸せだったわ」


 そう言うと院長室を後にした。





 帰りに精神科の前を通った。例のヤクザがいた。悦子を見るとヤクザは笑った。悦子はそばに座り、薬はもういらないわと告げた。ヤクザがくっくと鼻で笑う。


「止めようと思って止められるものじゃないんだぜ」


 だが、悦子の決意はそれでも変わらなかった。


「ワタシ、これからしっかり働いて生きていかなきゃならないの。薬物に構ってる暇はないわ」

「へえ、仕事口を探してるのかい」

「まあね」


「それじゃあ、いい仕事があるんだけどやってみないかい」

「ヤクザの仕事を手伝う気はないわ」

「まあ、そう言うなよ。割のいい仕事なんだぜ」


 悦子は少し興味を示す。


「あんた、縫物は出来るかい?」

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