第21話 キッチン。
朝から階段の奥のキッチンとトイレ、風呂場、とにかく水回りを業者と手分けして掃除をしている。二階に行く階段は住民に任せ、優馬と橋本と仙道は仲良くキッチン担当。ぶっすりとした表情の橋本がゴミを運び出す。機嫌が悪いのは仙道に相手をしてもらえなかったから。
朝、土曜の指輪の一件を報告すると仙道はそうか、と言っただけだった。被害届出さないんすか、と問いかける橋本に誰が出すんだと聞き返した。
「盗まれたんすよ」
「だから?」
「だからって、ドロボウっすよ。見て見ぬふりするんすか」
「そうだ」
「そんなの納得いかないっす」
「被害届を出すのは市の仕事じゃない」
「市の仕事っすよ」
「仮に仕事だとしても、こんなに人が出入してた場所で起きた盗難事件どうやって解決するつもりだ」
「警察に言えば」
「手伝ってくれてる住民の皆さんにも迷惑がかかるし、何よりお前は盗まれた指輪がどんなだったかはっきり覚えてるのか?」
「それは」
「納得いったら仕事しろ」
そう切り捨てられ橋本は納得のいかない様子でぶつくさと呟きながら不服そうに清掃している。仙道のいう事は尤もで賢い大人の対処法。でも少し納得のいかないようなことのようにも感じた。
キッチンというのは非常に不衛生な場所で臭いもひと際キツイ。原因は大量の生ごみだ。生ごみを入れて縛ったビニール袋がいくつも出てきて清掃が好きな優馬もこれには舌を巻いた。しかしギブアップするわけにもいかず、ひたすら生ごみを運び出している。
ポリバケツがいくつもあってその中には生ごみが山盛りだった。底の方でカサカサと擦れた音がする。優馬は瞬時にふたを閉めて聞かなかったことにして外へと運び出した。ポリバケツを全て運び出すとキッチンがスッキリした。
外国のような飾りタイルの壁、レトロな木の引き出し、高そうな目の詰まったキッチンマット、趣味のいい洒落たキッチンだった。キッチンマットはゴミに埋もれていたせいか少し汚れていたが状態は左程悪くない。引き出しには使い込まれたたくさんの調理器具があり、よく料理していたことがうかがえた。
仙道があとはこれだけ、とシンクの中のゴミを持ち上げた時だった。
「ぎぃいいやあああああああ」
仙道の悲鳴が近所中に聞こえんばかりの勢いでゴミ屋敷に広がった。
「どうしたんすか? 仙道さん!」
優馬と橋本が駆け寄る。
「ゴキブリだ! ゴキブリの巣だ!」
仙道は血相を変えて言う。巣と言うからにはいたのは一匹、二匹ではない。仙道が持ち上げた生ごみを入れて固く縛ってあった透明のビニール袋から横穴を食い破り出入りしていたであろう大型のゴキブリがポロリとこぼれ落ちた。生ごみの袋の中にはまだ複数のゴキブリがうごめいている。
「うげええ」
橋本は仙道から少し身を引く様に離れようとする。
「橋本てめえ逃げてんじゃねえ」
仙道の声は恐れおののいている。
「仙道さんこっちです。こっち」
産廃業者が45ℓのビニール袋を広げた。仙道はその中に生ごみの袋をゴキブリごと放り込む。業者はゴキブリが出てこぬようすぐさま袋の口を閉めた。仙道は汗びっしょりで額を拭っている。
「畜生、何だよこのやろう」
シンクの中には同様のゴミが5、6個あった。仙道はうんざりした顔でそれに向かう。
「ああ、もういい加減にしろよ」
仙道は意を決したように、業者が広げた四五ℓのビニール袋に残りの生ごみの袋を勢いよく放り込んだ。三つめの生ごみの袋を持ち上げたときその底はヌメヌメでベタベタとした液が垂れていた。仙道は渋面をつくり、その縛ったビニールの先端を右手の親指と人差し指でつまみザッと放り込んだ。苦り切った汁はキッチンマットを汚した。
◇
「小原さん、今月はこれしか払えないの」
悦子の差し出した給金は約束より随分少なかった。
「あの」
理由を問おうとした小原の言葉を遮る。
「その分来月、余分に払うから」
「はあ」
しかし、翌月の給金もまたしても少なかった。金銭にあまりがつがつしない小原もあまりいい気はしなかった。悦子には給金を支払えない事情があった。
里香に全財産を渡した悦子はとにかく貯金が無かった。タンス預金をしていたが渡したおかげですっからかんになってしまったのである。元々金を貯めるのは得意ごとでなくて長年をかけてようやく貯めた物だった。豪勢な生活を送り家政婦まで雇い、交際費を派手に使って悠々自適な生活を送っていたため、困窮しようともこれまでの生活のランクを落とせず、やむなく小原の給金を削った。貯金は無い。小原に渡した給金が生活費を残したうえでの残りのすべてだった。
急に少ない給料月が続いたかと思いきや、突然多く入ることがあった。小原は戸惑いあの、と声をかけた。
「今までの分よ、すまなかったわね。受け取って頂戴」
「でも」
これは今までの遅延分よりもやたら多い。貰い過ぎだ。
「いつもご迷惑をかけてるからそのお詫び。受け取っていただけるわね」
悦子がやたらと押し付けるように言うので仕方なしに受け取った。後から戻してくれなどと言わないだろうか、とそれだけが心配だった。
ある日、悦子が不機嫌に朝帰りをした。こういう場合、小原は無理に話を聞かない。放っておけば悦子の方から話にやってくる。しかし、今回珍しく悦子はいつまでも話に来なかった。パーティルームで蓄音機を鳴らし、朝だというのにワインを飲みながら呆然としている。こんな時は特別な事情がある。小原は恐る恐る声をかけた。恐縮した様子の小原を見て悦子が笑う。それを不気味に感じて小原はますます縮こまる。
「あのね、小原さん。ワタシ、クビになったの」
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