第13話 通夜。

 悦子は新潟に向かう汽車の中にいた。二日の休みを貰い、帰郷している。先日、母が亡くなった。東京で働き出して帰郷したのは三度だけ。そのうち二度は定食屋で働いていたころ、夜の仕事をするようになってからはほとんど戻っていなかった。今は母がどんな顔になっているかも知らない。若い時は美しかったが今でも綺麗だろうか。


 母の死を知らせてくれたのは叔父だった。電話口の声は年老いて何だか震えているようだった。悦子は別段悲しくなかった。父の時は寂しさの余りくず折れたが母の死はそれほど衝撃でもなかった。あのひとが死んだのか。母は悦子にとって母親ではなく一人の女だった。


 駅からタクシーを拾い叔父の宅へ向かった。黒と白の鯨幕が張られ物々しい雰囲気である。通夜は夕方六時から。まだ時間がある。着くと叔父が悦子ちゃんよく帰ってきたねと言った。相変わらずの人懐こい笑顔であったが少し背が低くなったような気がした。


 母屋で式を行うらしい。叔母やいとこはその準備に大忙しな様子だった。悦子は荷物を置くとおざなりな笑顔を浮かべる。


「マーチン、元気だった」


 振り向いた同い年の従姉の正美が破願する。


「エッチャン、久しぶり。まあ、綺麗になったねえ」


 正美の嫁ぎ先は農家だと以前の里帰りで聞いた。子も三人もうけていて、居間の方からはしゃぐ声が聞こえる。頬は焼けてそばかすも目立ち、よく働く嫁だと連想させた。逆に正美は悦子の白魚のような手を見るとエッチャンの手、まるでお人形さんみたいね、と笑う。家事も育児もしていない無精な手と言われているみたいでいい気はしなかった。


 縁側から上がると仏壇の前に母の棺がまつられていた。叔父が見てやってよ、と言うのでそっと近寄る。その人物は棺に静かに寝ていた。横たわり身動き一つしない。白い布を捲ると老いた母の青白い顔があった。


「悦子ちゃん、お化粧してあげてくれる?」


 いつの間にか叔母が台所から来ていてエプロンで手を拭きながら言った。


「はい」


 気は進まなかったが返事をする。荷物から化粧ポーチを取ってくると静かに化粧を始めた。


 ファンデーションをたっぷり取って肌に乗せていく。パフに肌が逆らいまるで生きているように感じた。柔らかく手入れされた肌が白く際立つ。丹念に施して最後に赤い口紅を引く。母はとっても綺麗だった。そして自分とよく似ていた。

 化粧を施すに従い、心のかさぶたが取れていくのを感じた。孤独だった日々。母は決して出来た母親でなかった。それでも懸命に悦子を育ててくれた。今なら母に寄り添える。そう思った時、涙がこぼれた。泣くつもりはなかったのに止まらない。ああ、私はこのひとの娘なのだなあと思った。


 着替えをするために離れに行く。久しぶりの住処だ、懐かしい。母が生活していたあとが山肌に沿う霞のように残っていた。

 キッチンの当時母が大枚をはたき購入した小さなシンクに指を添わせる。ここは母の小さな城だった。そういや母の料理は好きだったなと思い出す。特に好きなのはシチューだった。型抜きした花形のニンジン。ブロッコリーが入って鳥のササミも入っていた。悦子は母の料理を受け継がなかった。生きているうちに教わればよかったとふと思う。冷蔵庫に残り物が入っていればと思って開けたが几帳面な母は何も残していなかった。


 2階に上がると悦子の部屋はそのまま残されていた。小学校の時賞を貰った絵は額に入って綺麗に飾られている。ほこりは一つもついていない。机もイスも綺麗なものでこまめに掃除していたらしい。


 タンスを開けると少女時代に着ていた服があった。どれも懐かしい。お金がないにも関わらず母は悦子にみすぼらしい格好をさせなかった。季節が来るとデパートへ出向き、それはやっぱり母なりのこだわりとプライドだったのかもしれない。悦子は鏡の前で服を脱ぐ。持ってきていた黒いワンピースを着て黒真珠を身にまとう。最後くらいは娘でいよう。


 母屋に戻ると従兄の裕次郎と家族が来ていた。悦子は思わず顔が熱くなる。焦りが背中を駆け上がる感触。裕次郎は悦子の初恋の人だった。


「悦子ちゃん、おかえり」


 叔父譲りの人好きのする笑み。以前にも増して叔父に似てきた。ただ声は優しくそれは叔母に似たのかもしれない。つい昔を思い出す。悦子ちゃんと呼んだ声が記憶の中のものと重なる。


「ああ、お久しぶり。お元気だった」

「この頃仕事が忙しくてね」


 裕次郎は建設会社に勤めていた。結婚して子は二人、妻小夜は悦子と同い年で正美の高校時代の友人だ。


「悦子さんお久しぶり。お元気でした?」


 妻の小夜が愛想よく笑う。裕次郎を射止めた笑顔だと思うと心がチクリとした。以前はロングヘアだったがショートにしていた。


「こんにちは」


 二人の息子が頭を軽く下げる。二人とも中学生。よく教育がされているようだった。




 六時に通夜が始まった。来たのは葬式だというのにおしゃれをした母のスナックの仕事仲間たち、格好はともかく皆心から悲しんでいるようだった。足を運んでくれたことを有難く思う。不器用な母にも友人がいたのだ。近所の人もチラホラ来てくれて、それなりに母は愛されていたようだった。


 通夜が終わり弔問客を通夜ぶるまいでもてなす。給仕を手伝おうとしたが正美や小夜、叔母がやってくれると言うので悦子は母の知人の相手をした。悦子が娘だと名乗ると皆驚いて綺麗なお嬢さんねえ、とため息をこぼした。

 話しているうちにいつも綺麗な格好をしている人だったね、と母の生前の話になる。仕事仲間の話ではいつも高そうなアクセサリーをしていたという。皆口々に遺品整理をして東京に持って帰るといいと言ってくれた。おぼろげの記憶で確かに華やかなイヤリングはしていた気がする。指輪はどうだろう、していただろうか。


「一度だけして来たことがあったのよ。大きなダイヤの指輪」


 大きな声で一人が話し出した。


「分かれた旦那に貰った婚約指輪だって言ってたわ。見たこともないくらい豪華なダイヤが付いてて。フランスの物って言ってた気がするわ」


 初めて聞く話だった。悦子は耳を傾ける。


「離婚したけど勿体なくてそれだけは捨てられなかったって」

「旦那は捨てたのにね」


 一斉に笑いが起きる。悦子は苦笑いだった。そんな冗談も飛び交いながら酒も進み、皆顔を赤くしてよく笑った。昔話に花が咲き、知らなかった話も随分聞かせて貰った。楽しい席だった。


 夜、一人離れで寝ることにした。叔母が一緒に母屋で、と言ってくれたが思い出に浸りたかったので断った。離れへ戻る時、少し酔っていたのでそばに裕次郎が付き添ってくれた。随分顔が近くてのぼせそうになる。


 一緒に階段を上がりながら言おうか言うまいか考えて結局口にする。ワタシ裕次郎さんのこと好きだったのよ、と。裕次郎は少し困惑した後、知ってた、と言った。酔っていたこともあってか関係を迫ろうと思ったが、裕次郎は悦子を布団に寝かすと離れた。


「オレはあの頃のオレじゃないよ」

「そうね」


 悦子は布団を引き上げながら笑う。くだらない考えだった。


「ワタシもあのころのワタシじゃない」


「おやすみ」


 笑って囁くと裕次郎は電気を消して母屋へと戻っていった。

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