第百二話 シオン

 ――サクラ。


 オレだけの、可愛い小鳥。

 翼を折り、オレの手元でだけ啼いてくれたなら。

 誰の目にも触れさせることなく、ベッドに繋いでオレの愛だけを注いで生かすことができたなら。

 だが、それは彼女の意思を殺すこと。彼女の足に鉄の枷を嵌め湖に沈めた連中と、同じ穴のむじなだ。

 オレは、ただ純粋にオレを信じ、慕ってくれるサクラが愛しい。その無垢な信頼を、裏切りたくない。


 少なくとも、彼女の心の傷が癒えるまでは――。



 エメとゆり、二人が暮らす漁港から馬で数時間というところに、交易拠点となるやや大きな街がある。ちょうどこの国の玄関口であり、首都でもある大きな港と他国を繋ぐ陸路の中継地点だ。

 シオンと名を変えたエメは、冒険者ギルドに登録した。そして時折この街の支部で、荷受け等の小さな仕事を目立たぬよう細々とこなしていた。元々、金にはそれほど困っていない。あくまで目的は金銭ではなく、ギルドに集まる情報を得ることである。

 既にゆりと二人分偽名でこの国の住民登録を済ませ、ここに至るまでの痕跡は可能な限り消してきた。

 元々“『閃光』のエメ”の素顔を知る者はほぼ存在しないので、冒険者ギルドを出入りしてもエメの顔から素性が割れる心配は皆無と言って良かった。

 それでも彼は念を入れて髪を切り、戦い方から界隈に噂が広がるのを避けるために得物を使い慣れた銀のナイフから刺突剣レイピアに持ち替えていた。


 そしてエメはこの日、ギルド内で聞き捨てならぬ会話を聞いた。



「ここんとこ、指令ミッションといやあ魔物討伐ばかりだったが……人捜したぁ、また随分と――」

「なんでも噂によると、召し人で――」



 “指令ミッション”とは、一定以上の実績を持つ一部の上級冒険者のみに与えられるギルド本部からの勅命だ。受注については個人の裁量に任せられているが、困難な“指令ミッション”を達成した者は連合中に名が知れ渡る。そのため、利益を度外視して挑む者も一定数存在した。


 先程の男二人は上級冒険者に類する者なのだろう。エメは二人がギルドから出て行くのを見守ると、受付を覗いた。


「あっ、シオンさん。……こんにちは」


 受付の栗色の髪の女が、頬を染めて会釈する。エメはそれに応えるように口元だけをにっこり微笑ませると、これまでゆりにも聞かせたことのないような猫なで声で囁いた。


「やあ。今、誰もいないね? ――こっちに、おいで」




 そして、ギルドの裏口から出た路地裏で。


「はあ、はあ、だからギルド本部か、らぁっ、ヤナカさんという女性の捜索依頼がぁ……っ」

「いつから?」

「っ、三月くらい前……っ、」

「そう」


 聞きたい情報だけを受付嬢の口から引き出すと、エメはその代償に汚れた指を女の口に乱暴に突っ込んだ。女はとろんとした表情で、自分の別の場所に収まっていたはずの指を舐め取っている。エメの右手一本で、女はあっけなく陥落していた。

 エメはその様子を冷たく見下ろしながら、得た情報を頭の中で繋ぎ合わせる。


 三月前から発令された召し人の捜索依頼。これは、エメがゆりを連れ出した時期とほぼ同時期だ。思ったより動きが早い。モルリッツではゆりの葬式が行われていてもおかしくないと思っていたが、それは楽観が過ぎたようだ。“シオン”は上級冒険者ではないため、この指令ミッションの存在を知るのが遅れたが――だからと言って、特に何かが変わるわけではなかった。

 更に、これはエメも元々知っていることだが、“指令ミッション”にはどんなものにも必ず期限が設定されており、それは最長でも六月だ。

 つまり、長くとも後三月逃げおおせればエメの勝ち。よしんば誰かに発見されたとしても、殺すだけのことである。


 エメが女の口から指を引き抜くと、物欲しげに口を半開きにした女は熱を孕んだ瞳でこちらを見上げている。嫌悪感が募ったが、今後も役に立つことがあるかもしれないので頭を撫でてやった。その先を期待されているのはわかったが、そこまでサービスしてやる義理はない。


 エメは不機嫌なまま表通りに出ると、大股で街の入り口方向へ向かう。馬舎に辿り着くと汲まれた桶に右手を突っ込んで入念に洗い、港町から借りてきた芦毛の馬に跨がった。



 早くサクラに会いたい。

 抱き締めて、髪を梳いて、今日は入念に身体を洗ってやろう。



 エメは愛しさに逸る心の代わりに、馬を飛ばした。





 そのまま真っ直ぐ馬を走らせ北上し、夕日が海岸線を赤く染める頃。


「サクラ」


 色付いた白壁の家の扉を、エメはやや乱暴に開いた。


「……サクラ?」


 だが、いつも愛らしい笑顔で駆け寄ってくるはずのゆりの姿がない。彼女が夕餉ゆうげを用意する温かい音が、匂いがしない。

 慌てて寝室を、家中を探すが彼女は何処にもいなかった。途端にエメの背に冷たい汗が吹き出す。



 ――誰かに見つかった?


 いや、そんなはずはない。


 ――彼女が自分で出ていった?


 いや、そんなはずはない。



 心の中で何度も自問自答を繰り返しながら、エメは焦って再び家を出る。丘の上から辺りを見回すと、眼下の長閑のどかな漁港には見たこともない巨大な軍艦が何艘も停泊していた。

 何かがいつもと違う。嫌な予感が抑えられず、エメは振り切るように全力で駆け出した。


「サクラ!」

「サクラ!」

「ユリ……。サクラ!!」


 何度も名を呼び、草原を駆ける。森へ入るなとは何度も忠告している。彼女が何処かへ行くとしたら、町しかあり得なかった。


 そしてひたすら駆け、周囲を見渡し、町へ続く石段の前までやって来た時。そこから急に角度を増す斜面の手前に広がったなだらかな草花の群生地。――ゆりは、そこにいた。


「サクラ!!!!」


 薄紫の花に埋もれ、仰向けに倒れているゆり。それはまるで花の手向けられた棺に眠る死者のように乱れなく静かで、美しかった。エメは元から白い顔面を更に蒼白にして駆け寄ると、その身体を抱き起こす。するとその身体は温かく、胸は微かに上下していた。


「……あ……シオン……」


 エメの心配を余所に、微睡みから目覚めたゆりは、半開きの目を擦ると暢気な声で呟いた。


「……サクラ……! 家を出るなと、言っただろう!!」


 普段物静かなエメが突然声を荒げたので、腕の中のゆりは驚いてびくりと身を疎ませた。


「ご、ごめんなさい……つい眠くなっちゃって……。――あっ、ねえそんなことより! 私……、思い出したの!!」


 突然しおらしい態度を一転させてがばりと起き上がったゆりに、今度はエメの動きが止まった。


「……思い、出した……?」

「うん!」

「…………。何、を」


 無邪気な笑顔を浮かべるゆりに、エメは潰れそうな胸の内から言葉を絞り出す。

 シオンとサクラ、二人だけの時間の唐突な終焉の予感に、無意識に地面の草を握り込んだ彼の手は今にも色を無くしそうな程力が込められ、震えた。



 ぱさり。



 死刑宣告を待つ咎人エメの頭に、不意に何かが載せられた。


 ――それは、薄紫の花で編まれた花冠。



「思い出したの、シオンの名前!……ほら、見てこの花。この花ね、“紫苑しおん”って言うの。ここでは何て言うか知らないけど……。私の国では、“紫苑”って言うんだよ」



 ゆりはにっこり微笑むと、手元の“紫苑”を一輪手折ってエメに差し出した。


「“紫苑”……かわいい花。シオンの瞳と、同じ色だね」

「あ……」


 そう言われ、眼前に差し述べられた薄紫の花シオンを手に取った時。エメの脳裏に“あの日”の出来事が鮮明に甦った。



 “――ねえ、エメ。私のいた所で、『エメ』って、どんな意味の言葉か知ってる?”


 “『Aimer』。愛する、って意味なの。――だから、私はエメは愛情深い人に違いないって、勝手に思ってるんだけど”



 出逢ったばかりの頃、薄桃の花弁サクラが舞い散る神殿の中庭で。

 あの時もゆりは、それまでただの記号でしかなかった“エメ”という名に意味を与え、彼が知らなかった感情を教えてくれた。


 そして、今。

 ゆりはまた、数ある偽名に過ぎない“シオン”という記号に、意味を持たせ、彩りを与えた。



「……ユリ……」


 エメの紫の瞳はぐしゃぐしゃに歪んで、ただひとり、目の前の愛しい人だけを映した。


「……サクラ……!」


 エメは飛び付くようにゆりの身体に抱き付くと、そのまま薄紫の花の海に押し倒す。


「サクラ、愛してる。……愛してるんだ……」


 ぐりぐりと頭を胸に押し付け、か細い声で愛を伝える男。その金の髪を、ゆりは優しく抱き締め、撫でた。



 ――サクラは、ゆりじゃない。

 でも、間違いなくゆりなんだ。


 サクラ。俺だけの、可愛い小鳥。

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