第百一話 きみはゆり

 なんだか、熱い。


 身体の奥がじんわり痺れる心地がして、ゆりサクラは目覚めた。寝惚けまなこに飛び込んできたのは、窓辺から漏れる朝日に輝く美しい金の髪。

 金髪の主・エメシオンは、片手でゆりの腰を抱き、その胸に顔を埋めていた。


「シ、オン……?……なにしてるの?」


 艶っぽい吐息が混じるゆりの問いに、エメはぼそりと答えた。


「…………。体調確認だ」

「くすぐったいよ……、ふふっ」

「そうか。……病気かも、な」

「えっ!?」


 エメの真顔の冗談に、ゆりは顔を蒼白にしてがばりと起き上がる。今の彼女は疑うということを知らない。その必死の形相に、エメは思わず声を漏らした。


「………………フッ」


 それを見ていたゆりは、泣きそうになっていた表情を弛めると……花咲くように笑った。


「わあっ、ねえシオン、今笑ったの?」

「笑って、ない」

「ねえ、ねえ、もう一度笑って? あと、胸を揉むのはやめて?」

「…………」


 エメはどちらの要求にも応えず、無言で起き上がると足元に丸まっていた上掛けでゆりをくるりと包んだ。


「……サクラ、出掛けてくる。日が沈むまでには、帰る」

「えっ」


 ベッドの上で簀巻きのようににされたゆりが改めてエメの全身を見ると、今目覚めたばかりの自分に引き換え、彼は既に身支度を整え終えている。


「お仕事に行くの?」


 ゆりの問いに、こくりとひとつ頷いた。


「そう、だ。アンタは、ここでおとなしくしてろ」

「私も外に行きたいな……」

「ダメだ」


 思いの外強い調子で咎められたが、ゆりは臆することなく口を尖らせた。


「どうして? 町への買い物くらいなら、ひとりでも大丈夫だよ?」

「ダメだ。明日、連れてってやる。今日は、家に居ろ」


 そう言われてしまったら、もうゆりに無理を押してまで外へ出る用事は思い付かなかった。渋々と受け入れると、エメは「いい子にしてろ」と額の黒髪を掻き分け、キスを落とす。


「もう、子供扱いして!」


 ゆりが熱を与えられた額を押さえながら頬を膨らませるのを見て、エメはまた、フ、と笑った。





「は~あ。退屈だなぁ……」


 ひとり家に残された“サクラ”は、窓辺から町を見下ろすと大きな溜め息をついた。エメは時折この港町を出て、隣の大きな街へ出掛けてゆく。日を跨いで家を空けることはなかったが、その時はゆりはこうして家で留守番をしていなければならない。

 ゆりが町へひとりで下りるのは禁止されている。何故かは彼女にはわからない。裏手の森には魔物が出るからと、やはり入ることを禁じられている。始めはこうやってただ“シオン”の帰りを待つ生活も楽しかったが、これまで二人で旅をして日々新しい刺激を受けていた彼女には、この家でただ待つだけの生活は、やや物足りなくなっていた。


 ぼうっと景色を眺めていると、少しして眼下の港が騒がしくなった。見たこともないような巨大な船が、何艘も漁港に横付けされていかりを下ろし始めたのだ。

 この町から海岸線沿いに南へ行くと、大陸の西の玄関口となる大きな港がある。そのため、わざわざこの町へ外部の船が立ち寄ることはとても珍しい。


「わあ……! あんなに大きな船、どうやって水の上に浮いてるんだろう? 近くで見てみたいな……」


 ゆりは途端にそわそわし始めた。この町は平和だが変化に乏しい。突如現れた立派な大型船群は、元々知的好奇心旺盛なゆりの心を浮き足立たせるには十分だった。


「シオン……怒るかな……? でも、こっそり見に行ってシオンより先に家に戻れば、バレないよね……? ――よし!」


 窓辺に顎を乗せて寄り掛かっていたゆりは、突如起き上がるとぽんぽんとワンピースの裾を払った。そうして、丘の下の町まで意気揚々と小さな冒険に出掛けるのだった。

 それが、自らの運命を引き寄せるとも知らずに。



 ゆりが“大きな船”と形容したのは正しく巨大な軍艦だった。そしてその船に掲げられた、所属を表す船旗は――海洋国家、ミストラル。

 その頭領であるミストラルの提督は、降り立った船着き場で部下達と今後の予定について膝を突き合わせていた。


「しっかし小さな港ですなあ。南のカテドキアニスに停泊できたら良かったんですが……」


 部下のひとりが、辺りを見回しながら無躾な感想を述べる。その言葉に、提督はたしなめるように首を振った。


「仕方ない。沖の天候の変化で急遽寄港せざるを得なくなったんだ。カテドキアの船舶管理局には緊急通信を行ったが、似たような状況の船が殺到しているらしくてな。あいにく我々の船が泊まるような空きはないと言われたよ」

「我々のお姫様方ふねは少々図体がでかいですからなあ」

「そういうことだ。とりあえず、この港でできる限りの水と食糧を手配しておけ。そして次は予定通りジュナハへ向かい、その後帰港する」

「水と食糧ね……」


 提督の言葉を繰り返した隻眼の壮年は、深刻な顔で腕組みしたかと思うと次の瞬間にやりと下卑た笑いを浮かべた。


「あと、女は?」

「勝手にしろ。ただ、船にミストラルの軍旗が揚がっていることを忘れない程度に遊べよ」

「そう言う若は遊ばないんですかい?」


 部下の下品なハンドサインに、若き提督――ミストラルの第一王子、フレデリク・エイリーク・ミストラルは嘆息した。


「……俺はそういう気分じゃない」

「若ぁ~。いつまで失恋引きずってるんすか? 俺が若くらいの頃は、○×△の乾く暇もないくらいそりゃあもう……」

「わかった、わかった。お前の下半身の武勇伝には興味ない。せっかく初めて立ち寄った町なんだ。……少し探索してくる」


 馴れ馴れしく肩を組んでくる年上の部下をしっしと追い払うと、銀髪を日に煌めかせたフレデリクは腰に帯びた剣をき直してひとり歩き出した。



「失恋か……」



 突然の屈強な海の男達の上陸ににわかに騒がしくなった港の正面通りを避け、フレデリクは海沿いに町を散策した。

 彼が父王の名代として立ち寄った中央都市モルリッツで情熱的な恋をし、さらにその恋が儚く散ってから既に半年近くが経とうとしている。ミストラルの名を賭けて挑んだ一世一代の求婚。父王・アルノーはその賭けに敗れた傷心の息子を咎めはしなかったが――むしろ両手を叩いて大笑いし、「お前は今日から『失恋王子』だな!」などと傷口に塩を塗り込んだ。

「海軍王子」改め「失恋王子」などと言う不名誉な二つ名で暫くは部下からもからかわれる羽目に陥ったフレデリクだったが、海の男達の一見無神経なその対応は、陰で噂の口に上るよりは余程さっぱりして気分が良かったし、今では王子自らが自虐として笑いを取ることすらあるのだった。


 何故あの時、自分がたった二度しか会ったことのない女性にそこまで惹かれたのかはわからない。それはまさに運命だと言う他なかった。今でも彼女が夜会で見せたはにかむような笑顔と、礼拝堂で聞かせたピアノの音色はフレデリクの胸に焼き付いている。

 この先王族として誰かをめとることがあっても、召し人の矢仲ゆりは間違いなくフレデリクにとって特別な女性だった。



 艶めく黒髪。白磁のような肌。



 フレデリクが頭の片隅であの日見た“天使”の姿を思い描いていると――

 彼の視界の正面、小さな広場となっているその場所に、港の方を覗き込むひとりの女性がいた。



「……! ……ゆり……?」



 そんなはずはない。こんな西の果ての小さな港町に、モルリッツの神殿に暮らしていたはずの彼女がいるわけがない。

 だが、豊かな黒髪。小柄な体躯。透き通るような肌。そして、あの日シャンデリアの光を反射させてフレデリクを見上げた褐色の瞳。

 フレデリクが歩みを早めその姿が露になればなるほど、それは間違いなくフレデリクの初恋の人、召し人の矢仲ゆりだった。


「ゆり!」


 気付けばフレデリクは駆け出して、その女の細腕を掴み取っていた。


「ゆり!! どうしてきみが、こんなところに? ……ひとりなのか? 勇者ナオト殿は? アーチボルト卿は?」

「え……あ……」


 思いもよらない再会にフレデリクが少々前のめり気味に捲し立てると、女は戸惑ったように瞳を揺らした。


「きみはゆり……なんだろ? まさか、他人の空似ではないよな……?」

「わからな……ちが、違います」


 フレデリクの紺青の瞳に映った自分の顔を見て、女はびくびくと縮まる。とぼけているのではなく本当にわからないという様子だったので、フレデリクは思わず無遠慮に掴んでいた彼女の腕を放した。女は明らかに動揺した様子で、顔を蒼白にさせている。


「ゆりではない? ……まさか。俺はフレッド。フレデリクだ。名を教えてくれ、“天使”」

「?? わたしは……。あ、でも、し、シオンが、知らない人に名前を教えちゃだめって」


 震えるその声も、間違いなくフレデリクの記憶の中にあるゆりだ。まさか、何者かにさらわれて記憶を混濁させるような術でもかけられているというのか。しかしだとしたら、たったひとりで町中を彷徨うろついているはずがない。

 フレデリクはぐるぐると混乱して飛躍する思考を何とかまとめようと、やや強い口調で問い詰めた。


「きみは召し人の矢仲ゆりだろう?!」


「ちが、ちがう。私、ゆりじゃない! そんなの、知らない!!」


 気付けば彼女は泣きながら逃げ出していた。

 明らかに尋常ではなかった様子の彼女に苛つきをぶつけるような真似をしてしまったフレデリクは、背を向け走り去るその姿を追い掛けることもできず、暫し呆然とその場に取り残されていた。





 ゆりはひとり、泣きながら丘の上へと続く町の石段を駆け登っていた。


「知らない、知らない……私は、サクラ……!」



 “ゆり!”



 そう呼ばれた名を、確かに知っている気がする。



 “勇者ナオト殿は? アーチボルト卿は?”



 銀髪の青年の口から零れ出た人物の名を、確かに知っている気がする。

 涙が止まらない。頭痛がする。――知るのが、怖い。

 町の石段を登り切り、丘の上へ向かう町の外の草原に出たゆりは、横たわる小石に足を取られて倒れ込むように転んだ。


「うう、痛ぁ……」


 受け身もなく思い切り全身で地面に飛び込んでしまった彼女を受け止めたのは、群生する花畑だった。



 そこに咲くのは、小さな花を風に揺らす薄紫の――――紫苑しおん

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