第百話 運命
一方、モルリッツの勇者ナオトはゆりの生存を確認したその日には旅立ちを決めていた。
「じーさん。オレ、勇者やめる」
湖から戻るなり突然呼び出しては告げたその言葉に、教導は驚かなかった。
ただ少しだけ白眉に埋もれた瞼を持ち上げると、見定めるようにナオトを見た。ナオトは既に革の半鎧を纏い、僅かな荷物だけをまとめて旅装を整え終えている。
「ゆり殿を探しに行かれると……。アテはあるのかの?」
「ねーけど……
ごりごりと首を鳴らしながら、まるで近所に散歩にでも行くような気軽さでナオトは答えた。だがその言葉は、この広い大陸で殆ど手掛かりがないことを意味していた。更に加えるなら、ゆりを
「勇者殿」
「だから、勇者はやめることにしたからその呼び方は……」
「すまなかった」
謝罪の言葉と共に教導は深々と頭を下げた。ばつが悪そうにナオトが目を逸らしても、老人は頭を上げなかった。
「シリルを……神官長を御しきれなかったのは儂の責任じゃ。三十年近い付き合いゆえ……甘さが出てしまった。いつか、考えを変えてくれるのではないかと。その甘さが、ゆり殿とお主を傷付けることになってしまった」
教導エイブラハムにとって、神官長シリル・キュヴィエは年齢からも付き合いの長さからも弟分と言っても過言ではなかった。
評議会による強制捜査の直後、教導は緊急伝声板で
この老人の日和見が事件の遠因であることは間違いない。しかし小さい身体を更に小さく丸める教導に、ナオトは不思議と怒りは湧かなかった。
「……もういーよその話は……。これは、オレの問題なんだ。オレの弱さが、ゆりを傷付けた。オレがゆりを――信じられなかったから」
湖から繋ぐ者の消えた鎖を引き揚げた時、最初にナオトの心を支配したのは嫉妬と怒りだった。だが、徐々にゆりに託された気持ち、与えられた言葉の数々を思い出すと――彼の中から燃え上がる炎は消え失せ、優しく灯る明かりだけが残された。
ナオトは己の首に提げた小さな皮袋を胸元から取り出すと、そっと握り締めた。
「だから、今度は絶対離さない。嫌だって言われても、絶対離さない」
一見傲慢とも取れるその言葉には強く、そしてしなやかな決意が込められていた。彼は皮袋を大事に懐にしまい直すと、腰に帯びていたベルトを外し、教導の前に突き出す。
「じーさん、コレ……返す」
教導の目の前に差し出されたのは美しい一本の剣。――それは、神剣オスティウス。
かつてナオトがトゥ=タトゥ聖教国内のアルバスの丘の神殿から盗み出し、彼を“勇者”たらしめていた聖遺物の剣。これまでナオトが教会の下で勇者の責務を全うしていたのは、ひとえにこの神剣オスティウスが教会の持ち物であり、勇者はそれを貸与されているという立場だったからだ。
つまりその返還は、ナオトが勇者という称号を完全に捨てることを意味していた。
だが、教導は首を振ってそれを拒んだ。
「持って行きなさい」
「へ? コレ、教会のものなんでしょ? 五年前にオレが盗んだ時、ものすごくめんどくせーことになったじゃん」
五年前ナオトが神剣を岩から引き抜き盗んだ時、教会は普段互いに不干渉を貫く冒険者ギルドの力を借りてナオトを連合中に指名手配した。教会にとって、神剣は聖教書の神話をそのまま現代に体現する重要な聖遺物なのである。
しかし教導は再び首を左右に振ると、真っ直ぐナオトを見据えた。
「それはお主のものじゃ。勇者オスティウスの魂を持つ青年よ」
――勇者オスティウスの魂。
聖教書では、“勇者”はオスティウスの生まれ変わりであり、その魂を受け継ぐ者であるとされている。しかしこれまでのナオトの素行からそれを信じる者は殆どいなかったし、もちろんナオト自身も信じていなかった。……あの日夢の中で、オスティウスと魂の合一を果たすまでは。
ナオトは初めて世辞ではなく自身を真の勇者と認めるような発言をされて、目をしばたかせた。その様子を覗き込んでいた教導は、ややあってぽりぽりと白髭に埋もれた頬を掻くととぼけた表情で
「そもそも渡されてものお……お主以外には誰も持ち上げることができないんじゃ。何処ぞに安置しようにもできまいて」
そう。この剣はナオト以外の者が触れると鉛のように重く、持ち上げることは愚か鞘から抜くこともできないのだ 。
そう言われて暫く鞘ごと剣を突き出したままどうするべきか考えあぐねていた様子のナオトだったが、やがてそれも面倒になったのか「それもそっか」とあっさりした調子で頷くと、再び腰に剣を
「じゃ。正直メシはマズかったけど……屋根がある所で寝られるのは、悪くなかった」
かつて家と呼べるものを持たなかった彼にとって、仮の住まいとはいえ、神殿は間違いなく帰る場所だった。
別れの挨拶の代わりに手を上げ背を向けようとしたナオトに、教導は印を切り祝福の言葉を唱える。
「勇者……いや、ナオト殿。貴方に、女神の加護があらんことを」
すると、その祈りに応えるようにナオトが目を閉じ、呟いた。
「――“私はあなたの家。あなたの安息を守護し、共に歩む者。やがて苦難の雨は去り、ただ平穏の内に憩うだろう”……」
それは、「
これまで信心などとは無縁だった男が唐突に聖教書のフレーズを口ずさんだことに、教導は驚き目を見開く。するとそこには、これまでの五年で初めて見る、穏やかな笑みを湛えたナオトの姿があった。
「大丈夫。オレの女神はここにいる。――ま、勇者は辞めるけど……旅先で見つけた魔物とかは適当に斬っとくから、安心して」
こうして、教会の勇者・ナオトは神殿を去った。
旅立ちにあたり、ナオトは冒険者ギルドで新たに冒険者登録を行った。それは既に日が傾き始めた頃の話だったので、結局その日のうちに登録は終わらず、ナオトの旅立ちは翌日に持ち越しとなった。
そしてその一晩で、「赤い悪魔」のギルド復帰の噂は街中に広がった。
「ナオト」
翌朝。昇ったばかりの朝日を背に、モルリッツの西門から街を出ようとしたナオトは聞きなれた声に呼び止められた。それは街の外壁に背を預けたドーミオ。
「お前、勇者やめたらしいな」
「ん。元々ガラじゃなかったんだよね。――飽きっぽいオレにしちゃ、五年もよく続いたでしょ?」
へらりといつもの軽薄な笑みを貼り付けて答えると、ドーミオは嘆息しながら冷たい壁から身体を離した。
「……ゆりを探しに行くのか」
「そーだね。つかなんで知ってんの?」
冒険者登録したことで教会を離れたことが知れるのはわかるが、ゆりの件については教導以外誰にも話していない。――あの時湖にいた黒狼騎士団の団員を除いては。
「昨日付けで、一部の上級冒険者向けに評議会から
ドーミオの言葉に、ナオトはつまらなそうにポリポリと頭を掻いた。
「……
どうやら、団員を通じてゆりの生存の報はアラスターまでとどいているようだった。ドーミオはああ、と首肯する。
「ナオト、俺はこの
冒険者ギルドには伝声器が備えられていて、各支部への情報の伝達、共有を為している。個人で使用することは出来ないが、依頼することで冒険者同士の伝言も手紙などより格段に早く確実に行うことができる。
そして「
「それは随分……女ひとりの捜索にしちゃ、手が込んでる」
「狼将軍は、自分が動けない代わりにと思っているんだろうよ」
「ふ~ん。……ま、ゆりが指名手配みたいな扱いされるよりはいいんじゃない」
ナオトは五年前に自分が指名手配された時のことを思い出して寒イボが立ち、ぶるりと耳を震わせた。あの時は昼夜を問わず冒険者がナオトの元に殺到し、寝る暇も無かったのである。
そんな一見暢気なナオトの様子に、ドーミオは思わず心に留めていたはずの懸念を口に出してしまった。
「なあナオト……。こんなこと言うのはなんだが、もし――嬢ちゃんの、ゆりの気持ちが変わっていたらどうする?」
「どういう意味?」
ドーミオはわざとらしくひとつ咳払いをすると、石造りの外壁に片手をついた。
「……まあなんつーか……女は気まぐれだろ。お前が嬢ちゃんを見つけるまでの間に、嬢ちゃんがその……。他の男に
「バツイチが言うと妙に現実味があるね」
「うるせえ」
ドーミオの問いに、ナオトはふわりを尻尾を振ると穏やかに答えた。
「別に、どうもしない」
その黄金の瞳は、凪いでいた。
「オレはゆりを連れて帰る。ゆりは絶対に、オレを拒みはしない」
そう言ったナオトの赤銅色の髪を朝風が巻き上げた時、「絶対強者」と
殺気でも圧力でもない。ただ静かにそこに佇むだけのナオトの全身から、これまで感じたことのない王者の如き威容が漏れ出ていたからだ。
「ハッ。その自信はどっから来るんだか……。お前さんの謎の前向きさがたまに羨ましいがな」
ドーミオは
「やっとわかったんだ。オレとゆりの運命は決まってた。――ずっと前から」
これまで刹那的に生きてきたこの男が、“運命”などという陳腐とも取れる言葉を持ち出したことに、何故かドーミオはただならぬを奇異を感じ取り思わず喉を鳴らした。
「そうか、そんならよ。……半年。半年で戻ってこい」
「?」
「ゆりの部屋の家賃を半年分前払いしておく。その間に嬢ちゃんを見つけて、必ず戻って来い」
ドーミオが腕組みして精一杯の
「へー。太っ腹。……ちなみにその部屋、防音は大丈夫なの?」
「は?」
突然元の調子を取り戻したナオトの意味不明な問いにドーミオが眉根を寄せると、ナオトは黄金の眼を吊り上げて不敵に笑った。
「ゆりを連れて帰ったら、暫くは部屋に籠ってそりゃあもう、連日連夜
「……出たな、サイテー下衆野郎」
「ごく健全な男の反応だっつの。――そうだ。じゃあおっさん、コレ、暫く預かってて」
かつてのように軽口を叩き合った二人はどちらともなくにやりと笑う。そしてナオトは懐から首に提げた小さな皮袋を取り出すと、その中身のひとつをドーミオの武骨な手の上に乗せた。
「これは……」
それは、聖教書に挟まれていたゆりの新居の二本目の鍵。
「確かに預けたから。じゃ、おっさん。またね」
ナオトはぽんとドーミオの丸太ほどある二の腕を叩くと、そのまま振り返ることなく眼前に広がる街道を進んで行く。
託された鍵をドーミオが握り締めると、一際強く風が吹き、辺りの木々を揺らして道行きを祝福した。
「そう。オレはずっと彼女を捜してた。――ずっと前から」
真っ直ぐ前を見つめて呟いた言葉は風に乗り、何処へともなく消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます