第九十九話 夫婦に必要なこと

 エメだったシオンと、ゆりだったサクラがモルリッツを失踪してから、二月近くが経過した。


 エメはただ、東の大国トゥ=タトゥを避け西へ西へと向かっていた。何故あの時名を騙り、さらうようにゆりを連れ出したのかは彼自身もわからない。彼女を独占したい気持ちは、もちろんあった。だがそれだけではなく――ゆりも自分も、全てのしがらみを捨て、ただ自由にしてやりたかった。


 旅の間にエメは髪を切り、トレードマークだった神官用の白いローブを纏うことはなくなった。教会から与えられらた名を捨て、『閃光』としての自分と完全に決別したのである。

 一方のゆりは、記憶と共に魔力も失ってしまった。そして、少し幼くなった。彼女は記憶を失ったことで、まるで幼子がそのまま成長したかのように無垢だった。

 あてどない旅だったが、記憶を失くしたゆりは思いの外明るくて、旅を楽しんでいるようだった。




「シオン、おかえりなさい!」


 エメが玄関の木扉を潜ると、小さなキッチンで鍋を煮込んでいた“サクラ”が駆け寄り抱き付いた。

 ここは、大陸の西の果てにある小さな漁港。その町を見下ろすように丘の上に立つ簡素な家に、二人は居を構えた。ここがつい棲家すみかとなるかはわからない。ただエメは、旅慣れぬゆりに心休まる場所が必要だと思った。


「水を、くれ」


 椅子に座り、ダイニングテーブルに脚を投げ出したエメがそう言うと、ゆりはいそいそと木のコップに水を注いで持ってくる。ゆりはエメのだらしのない座り方を見るなり「お行儀が悪いよ?」と嗜めた。

 こうやって時々、記憶がないはずの“サクラ”の中にゆりの面影が垣間見える。サクラはゆりではないが、同時に間違いなくゆりだった。恐らくゆりの魂が、汚れを知らずにまっさらなまま育つとサクラのようになるのだろう。エメはそれを、この世界で自分ひとりだけが知るゆりの本質なのだと、ただ愛しく思うのだった。


 注意された通り脚を下ろしたエメが水を口に流し込む。するとゆりがじっと、その様子を見ていた。


「ねえシオン」

「?」

「私も、飲みたい」


 そう言うと、ゆりは目を瞑った。



 目覚めたばかりの頃、ゆりは異様なほど水を恐れた。湖に沈められ死の淵を彷徨さまよった恐怖を、本能が覚えていたのだろう。池やかめの水はおろか、コップに汲まれた水に自分の顔が映ることすら怖がって、水を飲むことができなかった。

 そのためエメは、自らゆりに口移しで水を与え、身体を清める時はゆりを風呂に入れて洗ってやった。そのような状態を経て、二月という時間をかけて漸くゆりは元の調子を取り戻し、海を見て「懐かしい」とすら零すようになったのである。それはひとえに、彼の献身に依るものだった。

 だが、その過程で彼女は何かを誤学習してしまったらしい。今でも無邪気にエメに身体を洗われているし、水は雛鳥のようにエメから口移しで与えられるものだと思い込んでしまっていた。そして彼は、それを敢えて正しはしなかった。


 エメは立ち上がると、コップに残っていた水をあおる。ゆりの顎を持つと、唇を重ねた。


「んっ……」


 こくん、と小さく喉が鳴る音がして、彼女は与えられた水を飲み干す。口の端からは収まりきらなかった滴が垂れ、首筋を濡らした。エメがそれを指で拭ってやると、ゆりはくすぐったそうに笑った。


「シオン」


 ゆりがはにかみながらこちらを見上げる。自然と、それを見つめるエメの表情も和らいだ。


「ごはんできてるよ」

「ああ」

「食卓に並べるの、手伝って?シオンはまず、脚を乗せたテーブルを拭かなくちゃいけないよ」

「そうだ、な」


 ゆりがエメの手を引き、キッチンへ促す。


「サクラ」

「なあに?」


 ゆりが振り返るのと同時に、エメは繋がれた手をぐい、と引いた。あっという間にゆりの身体を腕の中に収めると、寄り掛かるように仰向けにさせ、その唇を奪った。


「っふ? シ、ぉ、……っ」


 突然口内を侵され、ゆりは困惑したようにあえかな息を漏らす。その辿々しい様は、ナオトと何度となく交わしたであろうキスの仕方すら、忘れてしまったようだった。

 ゆりの身体から魔力が失われたことで、彼女の体液が持つ癒しの力も消えてしまった。だがそれでも、その口付けはエメとってこれ以上ない甘美な味をもたらした。歯列をなぞり、舌を撫でる。溢れた唾液を音を立てて吸うと、ゆりは苦しげにはくはくと息をした。

 唇を離すと、二人の間を銀糸が繋いでいる。ゆりは胸を押さえて乱れた呼吸を制御すべく押し黙った。


「はぁ、はぁ……。今の、何……? お水はもう、いらないよ……?」

「……夫婦に、必要なことだ」

「そうなんだ……?」


 漸く絞り出したゆりの問いに、エメはしれっと返す。その言葉に彼女はきょとんとして――次に、にっこり笑った。


「じゃあシオン、もう一回して!」

「…………食事の、時間だ」

「夫婦に必要なことなんじゃないの??」

「……。いずれ、な」


 エメは腕の拘束を放すと、ゆりの頭を撫でた。ゆりは暫くむう、と口を尖らせていたが、やがて無邪気にエメにじゃれつくと、今日はシチューだよ、と再び笑った。


 エメは“サクラ”に自分達は夫婦であると教え、旅先でも二人は夫婦として扱われた。宿ではひとつの部屋で眠り、寝床を分け合った。しかし身も心も分かち合ったものこそを“夫婦”と呼ぶのなら、二人はまだ、真の意味で夫婦ではなかった。



「うっ、……ぅ、っくふ……」



 月が中天にかかる真夜中。

 隣のベッドで眠るゆりが、苦しげに呻く。エメが起き上がり顔を覗くと、ゆりは胸を押さえ、肩を震わせていた。


「くる、し……たす、けて、」


 ゆりが涙を零し、腕を伸ばす。エメはその腕を掴むと、するりとゆりの布団に入り込んだ。そして強張る身体をそっと抱き締め、背を撫でた。


「落ち着け」

「息、できな……!」

「サクラ」


 過呼吸気味に浅い息を繰り返すゆりの唇を、エメは優しく塞いだ。整えるように息を送ってやると、指の先が白くなるほどエメのシャツを握り締めていたゆりの力が次第に緩まり、漏れていた喘ぎは規則正しい呼吸に戻ってゆく。


「し、おん……」


 やがてゆりは、エメの胸に身体を預けたまま再び眠りに落ちていった。



 ゆりは今でも、湖に沈められた恐怖から完全に逃れられてはいなかった。毎晩うなされ、何度も何度も悪夢の中で溺れた。その度にエメは、辛抱強くその身を抱き締め、一緒に眠った。

 そうして幾夜もゆりの心を抱くうちに、エメの中にはこれまで知らなかった感情が芽生えていた。


 ――それはゆりを女としてだけではなく、ひとりの人間として愛しく思う気持ち。奪って支配するのではなく、慈しみ、分け合う気持ち。


 エメは漸く、それがこれまでゆりが自分に与えてくれていたものなのだと気付いた。そして、ゆりが悪夢のくびきから解き放たれるその時まで、自分が彼女の眠りの守護者になるのだと誓った。



「サクラ。サクラ、……愛してる」



 生まれて初めて口にしたその言葉は、自分でも不思議なほど自然と零れ出た。

 エメはゆりの黒髪に顔を埋めると、自分より温かいその体温を抱き締めたまま、眠った。

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