第九十八話 アンタの名前

 アラスターがテオドールの聴取をしていたその頃、北東にある湖では召し人の矢仲ゆりの捜索が行われていた。


 捜索隊の一人である犬獣人のスコットは、持ち前の鼻を生かし湖畔周辺での捜索に加わっていた。既に雨の後で匂いは殆ど残されていなかったが、それでも執念でまばらに生えた草原を探っていた。

 あの日、最愛の女性を目の前で見失ったはずの団長アラスターは、決してその動揺を表にしなかった。努めて冷静に振る舞い、殆ど寝ずに今日まで陣頭指揮を執り続けた。それがかえって、スコット含む団員達の士気を高揚させた。――“我々が必ず団長の最愛の人を見つけ出し、無事に手元へ返す”と。


 しかし、そんな団員達の思いとは裏腹に捜索は難航した。

 一日目は神殿の家宅捜索があり思うような人員を確保できず、二日目――昨日は終日の雨で捜索を断念せざるを得なかった。そして今日。雨は止んだものの未だ天候は曇天で、湖の水は冷たく濁っており潜水による捜索は困難と判断された。この時には既に、団員の誰もが召し人・矢仲ゆりの生存を諦めざるを得なかった。

 それでも何艘かの小舟を浮かべ、金属に反応する魔道具を湖の底に突き入れることで捜索を継続していたのである。



 そして、目を皿にし五感を研ぎ澄ませていたスコットは、ついにひとつの遺留品を見つけ出した。黒土に埋もれてなお輝く、黄金色の宝石。


 ――あの夜ゆりの耳から零れ落ちた、魔の黄水晶ミスティックシトリンの片割れを。


「! これは……!」


 スコットは慌てて部隊長に報告しようと顔を上げる。その時、彼の視界の端に見慣れぬ姿が飛び込んだ。


 それは、勇者ナオト。

 いつの間にか湖畔にやって来ていた彼は、物思いに耽るように遠い眼差しで湖を見つめていた。


「あ、あの! 勇者殿!」

「……ん?」

「これ! たった今見付けました!」


 そこまで言って、黄金色のピアスを掲げたスコットはしまった、と思った。

 騎士団が捜索して発見したものは、全て事件の証拠品だ。例えそれが元の持ち主であっても、勝手に返すわけにはいかない。


 だがスコットは、この宝石はどうしてもナオトに返さなければならないものだと思った。これはどう見ても彼から矢仲ゆりに贈られたものだったし、それに。

 ゆりが湖に沈んだあの夜、スコットはアラスターの召集に応じこの現場に来ていた。そしてここで「雨」に打たれ、その雨から放たれる優しい声を聞いていた。並の獣人としてほんの僅かな魔力しか持たない彼は、それでもはっきりと聞いたのだ。勇者ナオトの名を呼ぶ、ゆりの声を。


 黒狼騎士団の一員として、そして男として団長アラスターの想いを知っている彼にとっては複雑だったが、こうすることが被害者ゆりの何よりの手向けになるのではないかと彼の心が告げていた。


 差し出された魔の黄水晶ミスティックシトリンを目にしたナオトは、暫し驚いたように固まった。そしてその宝石と同じ黄金色の瞳を、せつなげに細めた。


「さすが犬獣人。狼より役に立つじゃん……。――サンキュ」

「え、あ、いえ」


 スコットは、風の噂で勇者は常識知らずの傍若無人な男だと聞いていたので、目の前の人物が素直に礼を述べたことに驚いた。


「あ、でも悪ぃんだけどちょっと預かっててくんね? オレ、これから水浴びすっから」

「はっ?」


 ナオトはそう言うと、言葉の意味を理解しかねて動きを止めたスコットをよそに、そそくさとブーツを脱いでその場に転がした。上着も脱ぎ捨て上半身を露にすると、その場でぐるぐると肩を回して準備運動を始める。


「ゆ、勇者殿まさか、湖に入るおつもりですか?」

「ん? そーだけど?」

「あ、いや、でもその……かなり濁ってますし、冷えますよ?」

「だったら尚更。――ゆりがひとりで冷たい中にいたら、カワイソウだから」

「……!」


 ――この男は探し出すつもりなのだ。湖に沈んだひとを。


 ナオトはこれまでの人生で様々な修羅場を潜り抜け、多くの人間の死に様を見てきた。はっきり言って、数ある死の中でも水死ほど見るに耐えない最期はない。だがそれでも――ナオトは必ずゆりを見つけ出すと決めていた。


「うおっ、さぶっ」


 足を水の淵に付けたナオトは思わずぶるりと震えて尻尾を立てた。しかしそのまま歩みを止めることなく、ざぶざぶと水面を進んで行く。そして胸の辺りまで浸かったところで、大きく息を吸い込むとそのまま群青の湖面に消えた。

 スコットが不安げに見守っていると、ややあってかなり中程でナオトがひょっこりと顔を出すのが見えた。彼は水面から、湖の中央付近でボートに乗っている捜索班に何やら話し掛けている。しばらく身振り手振りでやり取りをした後、再び湖の中に沈んで行った。


 そして、一刻ほど潜ったり湖面に顔を出したりを繰り返していた彼だったが。


 何十回にも及ぶ湖底との往復の後、ナオトは突然潜水を止めると、顔を半分水面に出したまま物凄い速さで元いた湖畔へ泳ぎ引き返してきた。

 気付いたスコットが驚きその様を眺めていると、ナオトはあっという間にブーツを脱ぎ捨てた湖の淵にたどり着き、ざばりと音を立てて立ち上がった。


「ひっ……!」


 ナオトのその表情を見た時、スコットは思わず恐怖に声を漏らした。

 全身に水を滴らせ、赤銅色の髪を顔に貼り付けた彼の瞳は、燃えたぎるようにギラギラと輝いていた。口元に凍り付くような笑みを湛えたナオトは、右手に何かを引きずっている。


 それは、あの夜ゆりの足に填められていた鉄の足枷。


 水辺から膝の下あたりまで上がってきたところで、ナオトは唐突に持っていた足枷を放り投げた。

 予備動作もなく放られた巨大な鉄球の付いたそれは、軽々と宙を舞い――物凄い地響きを立て、地面にめり込んだ。


 ゆりの命を湖底に沈めたはずの重い足枷は、枷部分が何者かにより壊されてぶらりとだらしなく口を開けていた。そしてその枷と鉄球を繋ぐ極太の鎖には――飾り気のない銀のナイフが一本、絡み付いている。


「ははは」


 ナオトの渇いた笑いに、スコットは身を凍らせた。


「ははは…………。――やってくれるじゃん、アイツ」


 突然真顔になったナオトは、ぶるりと全身を震わせまとわりつく水滴を払った。彼の左手には、足枷とは別の金属が握られていた。ゆりの首に填められてその身を縛っていた、鈍色の「魔力殺し」の首輪が。


「ゆりは、死んでない。アイツが――エメが、逃がしてる」


 ゆりは生きている。飛び上がりたいほど嬉しいはずなのに、ナオトの心は嫉妬に燃えていた。

 ゆりはエメの手で密かに救出されていた。しかし教会の人間であるはずのあの男が、未だひとつの連絡ももたらしていない。この事実の意味することが、ナオトには直感でわかった。



 ――エメは、もうゆりをこの地モルリッツに返す気はないのだと。



 ナオトは首輪を握り締めると、その金属製の円環を恐ろしい握力でばきりと割った。


「そっちがその気なら、地の果てまででも追いかけてやる。ゆりは、オレのものだから」






「ぅ、ん……」


 誰かに呼ばれた気がして、薄暗い部屋で私は目覚めた。目を擦ると、目元が濡れている。何か、とても寂しいことがあったみたい。


 掛かっている布団を剥ぐと、剥き出しになった肩が空気に触れて思わず震える。どうやら自分は、一糸纏わぬ姿で眠っていたらしい。ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻くと、黒髪に指が絡まり、ぎり、と締まった。とりあえず立ち上がろうと、鉛のように重い身体を持ち上げようとする。すると急にこめかみ辺りが痛み出したので、暫く上半身を起こしただけの状態で、ベッドでうずくまっていた。


 ここは何処で、自分は何故ここにいるのか。

 思い出そうとするが、頭の中はまるで水に洗い流されたかのように空っぽで、何も浮かびはしない。


 ぼうっと前方の壁を見つめていると、不意に部屋のドアが空き、その隙間から光が差し込んだ。そしてそこに、ひとりの見知らぬ男が立っている。

 肩口まで広がったウェーブがかった金の髪、鮮やかな紫の瞳。手には何やら布地を持っている。もしかしたら、着替えを持ってきてくれたのかもしれない。


「ユリ……?」


 金の男が、私の顔を見るなり枕元に駆け寄ってくる。その紫の瞳に気遣わしげに覗き込まれて、私は初めてその瞳に映る私を見た。

 何故だろう。自分の顔なのに、知らない顔。



「……あなた、だあれ?」



 瞳の中の私に、そして目の前の男に問い掛ける。

 すると宝石のような紫の瞳は、今にも零れ落ちそうなくらい見開かれた。


「……私は、だれ? あなたの、お名前は?」

「記憶がない、のか……?」

「……? わからない……。真っ白で、何もないの。誰かが私の頭の中を、きれいに洗ってくれたのかな……?」

「……本当に、全部……。忘れて、しまったのか?」

紫水晶アメジストの瞳の人、あなたは私のこと……知っているの??」

「…………。」


 何にも覚えてないはずなのに、自然と紫水晶アメジストという言葉が口をついた。きっと前の私も、この瞳を見て同じことを思ったんだろう。



「…………。――アンタの名前は、サクラ」



 暫く黙っていた紫水晶アメジストの人が、重たい口を開いた。この人はあまり、おしゃべりは得意じゃないのかもしれない。


「サクラ……?」


 ――“サクラ”。

 口の中でその言葉を反芻してみる。何だか、聞いたことがある気がする。そうか。それが、私の名前。



「――オレの名前は、シオン。アンタの……。――夫だ」


「しおん……」



 シオン。夫。

 わからない。思い出せない。でも、目の前のこの紫の瞳アメジストが、とっても優しいことだけはわかる。

 ――そうか。きっと私はこのきれいな目を、好きになったんだ。


「シオン? ごめんね。私、忘れちゃったみたい。何にも、思い出せないの。それでも、私の側にいてくれる??」


 私がそう問い掛けると、ばさりと彼の持っていた布地が落ちる音がして、私はいつの間にかシオンに抱き締められていた。その腕は力強くて、何だか少しひんやりしてる。

 でもね、何故だろう。その中に包まれていると、とても安心した。


「――サクラ。オレだけの、サクラ」

「シオン。私だけの、シオン?」

「…………。そう、だ」



 よかった。これでもう、寂しくないね。



 私が笑うと、シオンの腕の力はますます込められて少し苦しかった。きっとこれが、幸せというのだろう。

 私はその見た目よりも固くてゴツゴツした身体に頭を預けて、また、眠りに落ちた。




第三章 終 (次章へつづく)

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